奈々奈ミニマル
神足奈々奈が“お勤め”を始めたのは一五の時のことだった。以降、彼女は毎月月末になる度に禊を行い、神足家が仕える“仙人様”の元を訪れてその世話を行っている。
禊は厳しく、奈々奈は三日の間、清められた水と塩しか口にすることができない。命あるものを頂くと言う、いともたやすく行われる残酷な行いを断つことによって、人としての穢れを雪ぐのだ。
また同時に、絶食は飢餓を招く。空腹は死を招く。“この世”非ざる場所――正者では決して辿り着けない“あの世”に自らを近づける行為だ。そうすることで、わずかながら人の存在は薄れ、神に近づくことが許される。
空腹でふらつきながら、奈々奈は決められた順路を守って山を登る。神足が所有するこの山は昔から禁足域として有名で、不用意にこの山に入り込んだ者は大抵の場合、そのまま生きては帰って来ない。
決して険しくも深くはないが、ここは仙境なのだ。
さまようように一時間ほど木々の間を進むと、小さな洞窟が見えて来る。洞窟と言っても深さは一メートルもなく、とても人が住めるような場所ではない。が、殆ど仙術を極めた仙人様にとって、もはや場所と言う概念は意味をなさない。
その浅い洞窟の奥で、仙人様はただ結跏趺坐で座しているだけなのだから。
先祖代々の記録が正しければ、八〇〇年はこうやって洞窟の奥で座禅を組んでいるらしい。その見た目は当時から変化がまるでなく、二〇代にも五〇代にも見える。特徴らしい特徴は何も感じず、街中で見ても記憶には一切残らないだろう。そればかりか、奈々奈は毎月見ているにもかかわらず初めて見たような錯覚すら覚える。
しかしそれも仕方のないことだ。仙術を極めた果てに宇宙と一つになろうとしている仙人様にとって、人間らしい個性と言うものはとっくの昔に不要になってしまっている。故に、眠る必要も食事を取ることもない。もっと言えば座禅を組んでいる肉体を放棄さえすれば、仙人様は天に昇り宇宙と一つになると言う究極の難題を達成できるだろう。
それをしないのは、八〇〇年前に神足のご先祖様が交わした契約があってのことだ。どうやら仙人様は神足家に恩があるらしい。故に、神足が望めば、仙人様はたった一度だけどんな願いでも叶えてくれるらしい。らしいと言うのは、勿論、今まで誰も願いを伝えたことがないからだ。
神足家は先祖代々、エリクサーを使えない一族なのだ。
奈々奈は仙人様に一礼を行い、持って来た手拭いで仙人様の身体を拭う。仙人様自体はすでに代謝機能を失っていないので少しも汚れはしないが、一月も経てば砂埃や虫の死骸が付着する。
嫌々カナブンの死体を襤褸布同然の服から剥がしていると――
『神足の娘』
--奈々奈の足元でリスがそう囁いた。
既に喋ると言う人間らしい機能を手放した仙人様は、手頃な動物を自身の口の代わりといしていた。どう考えても自分の口で喋る方が簡単だと思うのだが、一度失った物を再び手に入れると言うのはそれ程に難しいようだ。
『願いは決まったか?』
『いつも悪いな』
『人の世はどうだ?』
『寧々は元気か?』
『相変わらず優柔不断なことだ』
続々と集まって来るリスやムササビにタヌキが、代わる代わるに仙人様の言葉を代弁する。
禊によって弱った奈々奈は弱々しく首を横に振りながら、どの質問に答えるべきか悩んだ。カナブンの死体を触るよりも、奈々奈は仙人様と会話することが苦痛だった。自分の父親とすら会話に困るのに、推定千歳の仙人とどう言葉を交わせば良いのか。一年経ってもいまだに答えは出ない。
しかしあまり長く仙人様を待たせるわけにもいかず、奈々奈はタヌキの言葉に返事をすることに決めた。理由はない。強いて言えば、タヌキを見るのは二か月振りだったからだろうか?
「仙人様は、ミニマリスト、って知っていますか?」
掠れる声で奈々奈が問うた。
ミニマリスト、なる単語を奈々奈が知ったのは、前回のお勤めの後のことだ。絶食の反動で大量の食事を胃袋に詰め込みながら見ていたニュースで取り上げられていた、有名なデザイナーの特集でのことだ。彼は生活に必要な最低限度の物資以外を、病的と思えるほどに生活から排除していた。ワンルームのマンションには、仕事道具であるパソコン以外はベッドらしいものすらなく、冷蔵庫の中はミネラルウォーターしかなかった。
それを見た時、奈々奈は仙人様のことを思い出したのだ。
あらゆる物を手放し、究極へと近づこうとする意志がとても良く似ている。彼も最終的には仙人様の境地へと辿り着くのだろうか?
予想通り、ミニマリストについて知らなかった仙人様に奈々奈は一連の出来事を踏まえて説明する。
『かもしれない』
たどたどしい奈々奈の説明の後、仙人様はカエルの口で答えた。
『だが、恐らくは無理だろう』
そう続けたのはフクロウだった。
今日は退屈なのか、それとも調子が良いのか動物の集まりが良い。
『彼の持ち物は未だに多い』
「多い?」
生活感のない部屋を思い出して奈々奈は首を傾げる。ある物を見つけることが難しいようなワンルームに、一体何が溢れていると言うのだろうか?
『自我だよ、神足の娘』
前述の通り、仙人としての極致とは“世界と一つになること”だ。その極致に至るまでに手放さなければならないものは無数にあり、その中には“人間性”も含まれる。食欲や睡眠欲と言った生理的な物もそうだが、物欲や名誉欲のような精神的な欲求を切り捨てることこそが“無我”に至るには重要だった。
その観点から言えば、不要な物を捨て物を所持しないミニマリストの思想は、確かに“無我”に近づく修行だと言える。
だが。決定的にそのデザイナーは捨てきれていない。間違っている。形だけを真似し、まったく核心を理解できていない。
インタビューに応え、ミニマリストである事を知って欲しい、その心にあるのは自分を良く見せたいと言う虚栄心に他ならないだろう。それは真っ先に捨てるべき人間らしい執着心だ。
無我の境地。
エリクサーを使えない、強欲な神足家には理解できない概念だ。すべてを手放した結果、宇宙と一つになることにどれだけの価値があるのだろうか? 奈々奈にはまるで理解が出来なかった。
そもそも何もないことを求めること自体が矛盾していないだろうか?
だが、仙人様はそうは考えない。
『全てを捨てるのは、全てを得るためだ』
『所有するのではなく、一つになるのだ』
『高坂の娘』
『私は私を失いつつある』
『私は世界になりつつある』
『奪うことは奪われることで』
『奪われることは奪うこと』
『変化し続けることが無常となるのだ』
『無常であるが故に代わり続けるのだ』
動物達は代わる代わるそう言うと、もう語り過ぎたと言わんばかりに散って言った。
相変わらず、仙人様だけあって一々禅問答のようなことを仰る。奈々奈は動物達の背中を見送りながら、空腹で上手く働かない頭で考える。
確かに誰もが仙人様のようになれたら世の中から争いはなくなるだろう。世界そのものと一つになる。小鳥も蝶も自分自身であるならば、小鳥が蝶を啄むことで世界には何も変化は起きない。食ったのも自分で、食われたのも自分なのだ。プラスマイナスで言えばゼロであり、そこには損も得もない。
何をしても、何処に行っても、変化の総量はゼロの世界。
幸福も不幸もない安寧なる平等の世界。
だがしかし、奈々奈はそれが素晴らしい物とは思えなかった。
そこに自分がいないのであれば、何の意味があるだろうか?
食うか食われるかであれば、常に食う側にいたい。
自分の利益の陰で不利益を被る人間がいたとしても、自己の特を追求したい。
加虐者と被虐者の二択ならば、誰もが前者を取るだろう。
弱い立場になんて立ちたくもない。
これは奇妙な話だ。
世界でも最上位の力を持つであろう仙人様であるが、神足の家にお願いされなければ自身の力を振るうことも出来ないのだ。我が身の埃すら払えず、動物達を通さなければ会話もままならない。
最強であるのに、まるで無力。
世界を支配する力があるのに、得ようとしているのは“ゼロ”だと言う。
やはり理解が出来ない話だ。
どうして自らの幸福を追求できないのだろうか? そうするべきであろうに。
「仙人様だったら、それこそが“人の業”とでも言うのかな?」
奈々奈はそう呟き、仙人様に背を向けた。今月はこのくらいで良いだろう。
震える足取りで奈々奈は洞窟を後にする。
きっと、一〇〇年後もこの関係は変わっていないだろうな、なんて想像しながら。