第5話 真夜中の邂逅
その夜、俺はベッドの上に、ノックアウトされたボクサーのごとく倒れこんだ。
想像以上の忙しさだ。イシ亭(正式にはこの通りの名前から、レピュテン通り食堂と呼ばれているそうだ)の営業は結局日が暮れるまで続いた。
その間中お客さんがひっきりなしに入ってきて、結局昼には追加の買い出しに行かなければいけないほどだった。
イシはあの牛みたいな獣――ムスカトゥールというらしいが、小型の象くらいの大きさがあって、バッファローのように背中の高さに対して頭が低いところについている。黒いのとか茶色いのとか様々な色のやつがいた――を持っていないから全部自分で担いで帰らなきゃならない。
全身が明日は超強烈な筋肉痛を用意しときますよ信号をビンビンに発している。でも感じるのは右手の中にイシからもらった銅貨5枚。「少ないけどとっておけ」そう言っていたけど、本当のところどのくらいの価値があるのか見当もつかない。銅貨を手に俺は元の世界のことを考えていた。
昼間は忙しすぎて考える暇もなかった、というか考えないようにしていたけど、本当に別世界に来てしまった。
本来ならもっと泣きわめいていてもいいはずだ。でもなんだか、そんなに悲しくもないんだよな、実際問題として。
俺は向こうで死んだんだろうか。それとも、ただあまりにリアルな夢を見ているだけだろうか。どこが夢の始まりだったんだろうか。
俺は立ち上がって窓の外を眺めた。
夜空に星が一杯に敷き詰められてる。月が一つしかないのはあっちの世界と同じか。街灯なんてないから、街路はほとんど真っ暗で見えない。
なんだか、現実味がない。あの暗闇の中に出て行ったら、はい、本当はここは日本でしたー、なんて具合に元の世界に帰れる気がする。
いつの間にか俺は玄関口に立っていた。無駄だとわかっている期待とともに。
俺はドアを開けた。
鼻に心地よい涼しい風。昼間の喧騒が嘘のような静寂。俺は無意識に足を踏み出していた。
石畳の感触が疲れきった両足にじんと伝わってくる。
俺は街路の反対側まで行って立ち止まり、そしてそこに座り込んだ。空を見上げる。建物の間から、やっぱり数えきれないくらいの星が覗いていた。
「ここで生きていくしか、ないのかな」
そう言ったが早いか、左から足音が聞こえて、俺は体をびくつかせた。
誰かが走っている。そう思って俺が首を振った瞬間、目の前を凄い速度で通り過ぎる人影。が、すぐに立ち止まる。
明らかにこっちを見ている黒い影を前に、俺は声も出ない。
「あっ……」
次の瞬間、その人影はこちらに向かって走ってくる。俺は腕で頭を覆うことしかできなかった。
しかし、俺はそれが横を駆け抜けるのを感じた。続いて聞こえるバタンという音。
振り返ると、その人影が石畳の上に倒れこんでいる。
俺は恐る恐る近づいた。俺と同じような身長、平均的な男くらい。でも顔が見えない。
近づくにつれ、それがうめき声をあげているのに気付いた。
「ぐっ――」
「大丈夫か!?」
俺はそいつを起こして壁に背中を預けるように座らせる。
月明かりで、ごくうっすらと姿が見える。そいつは苦しそうに肩のあたりを抑えた。
なにがあったんだ? そう言う前にまた石畳を蹴る音が聞こえた。ただこれは……馬か?
気を取られた瞬間、座り込んでいた男が突然俺を振り払って、また走り出した。
裏路地の奥に消えていく男。物凄い勢いで近づいてくる馬の足音。もうすぐそこだ。そして音が途絶える。
ものすごく嫌な予感がした。
重々しい蹄の音と共に壁から馬の頭が現れたとき、俺の心臓は沸騰したみたいに鳴っていた。それはゆっくりと姿を現した。
巨大なマントだけが、闇夜に浮かび上がり、その騎手は馬に乗ったままフードに隠された顔を横にむけて、こちらを見下ろしている。
ただ、その騎手が何者なのかを示すかのように、馬に吊り下げられた剣の柄が、月明かりを受けてうっすらと輝いている。
進もうとする馬を抑えながら、逃げていくあの男のほうを見る騎手。
そしてまた石のように固まった俺を見下ろす。
数秒の後、暗闇の中の眼光は俺を離し、騎手は手綱を弾いた。馬が低く鳴いて駆け出す。
蹄の音が聞こえなくなるまで、俺はただそこに立ち尽くしていた。