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第1話 現世にさようなら

 早朝の湖。澄み切った寒気。薄い灰色を帯びた世界。水の中を覗いていた。小さな桟橋の上で。前の日にお父さんが網で数えきれないぐらいのえびを掬い上げて見せてくれた。そいつらが桟橋の柱にまとわりついているのが薄っすら見えるような気がした。それに何を食ってるのかわからない巨大なオタマジャクシの群れがたまに目の前を過ぎ去っていく。そうやってずっと湖の底を覗き込んでいた。


 今日の1限目、北方民族学は6時開始7時半終了。


 今起きたのが午後7時。


 つまり手遅れ。またか。


 これで俺は欠席がリーチ。いや、役満で落単だ。


 あの先生出席取るっけ?……取ってるよなぁ。


「何時まで寝てるんだお前」


 お決まり(使われた時間帯を除いて)のセリフと共に、タイミングよく入ってくる父。


「授業大丈夫なのか?」


「うん、今日2限目からだから。もう行くわ」


 目をこすりながら、とりあえずいなす。


 父が出て行くと、俺はおもむろにベッドから体を起こした。


 今から行って――いや間に合うわけないな。


 返却期限超過の本をベット下の鞄に放り込み、返す手でシャツを捲し上げる。下はスウェットパンツ。まあパーカー着ればこのまま行けるだろ。


 部屋を出て突き当たりを曲がる。物干し部屋から上着を一枚拝借。これで全身黒。今日車に轢かれるかも。そしたら留年しても優しくしてもらえそうだ。


 家を出るも、行き先がない。いや、もとより大学などもはや行く気はない。そう、俺は留年したんだ。俺にとって重要課題なのはむしろ、この事実をどうやって親に伝えるかという事だ。さればそれを考えるのにふさわしい場所は――どこだろう。


 あまり大学に行く気がしない。別に具体的な問題があるとか、そういうわけじゃないけれど大学に行く途中とか途中考えてしまう。俺、ここで何してるんだろうな、とか。この世で自分だけ浮いてる気がして、なんかやる気が出ない。我ながらあまりにも典型的なモラトリアムだ。


 中に勘の良い教授がいて、俺が留年になったことを誰かから聞いたらしい。彼は授業終わりに俺を呼び出して、廊下を歩きながら言った。小旅行にでも出かけて雪山の中を一人で歩いてみろ、そうしたら全てがどうでも良くなる、と。……行くなら今しかない。どうせ留年がバレたら親には勘当される、とまでは言わないが、大目玉だ。じゃあ黙って旅行したって同じことじゃないか。


 気づけば俺は湖畔にある小さな桟橋の上で、水面を見つめていた。空港から列車に乗り他には目もくれず南へ。無性に湖が見たかった。このあいだ見た夢、というより思い出に近いものがいまだに蘇ってくる。あの時水の中に落っこちたのは何故だったのか。バランスを崩したと言えばそれまでだ。でも俺はあそこに何かあると思った。地球の浸出液の溜まった、あの静かな場所の底に。


「あまり見つめていると落ちちまうよ」


 振り返ると、見たことのない民族衣装を着た男が立っていた。日焼けした頭に赤いバンダナ、首にマフラーを巻いて、文様の入った半纏を羽織っている。肩には蔓編みの篭、長靴は俺と同様雪にすっぽり埋まっている。


「ほら、教科書に載ってただろ、“深淵をのぞくとき、深淵もまた”ってね。そうやって盗み見していると、怒った精霊に連れ去られてしまうよ」


 髭をたくわえて、またメルヘンなことを言う。


「でもその格言は意味が違うでしょう」


「解釈の問題だろ? ハハハ」


 俺たちは妙に打ち解けた会話をした。


「こういう話がある。真冬にこの湖で水浴びをする、そうしたら精霊が湖の底の国に連れて行ってくれると。実際湖に飛び込んだきり、潜っていって戻らかなった奴もいる」


 俺は地殻まで沈んでいきそうな水面を覗いた。そりゃあこんなに冷たい水に飛び込んだら、心臓麻痺を起こして即死に決まってる。潜っていったんじゃなくて、上がってこれなかっただけだろう。


「ハハ、信じてないな、その顔」


 男は柔和な笑みで言った。


「信じるも信じないもねえ、おとぎ話でしょう、要するに」


「……その男ってのが、私の兄でね」


「え?」


「あいつはここで精霊に祈ってたんだろうね。こんなところはいやだ、どこか別のところへ連れて行ってくれって。……ああ、すまん、すまん! 初対面の人間にこんなことを喋って」


 男は隠すように照れ笑いをしたが、俺は何か悲痛なものを感じていた。


「そう、君もあいつと同じ目をしていたよ。だから声を掛けずにいられなかった。君もそのまま飛び込んでしまうんじゃないかと思って」


「……」


 しばし沈黙があった。空風に揺られて梢が呼ぶような音を鳴らしている。空は雲に、下は雪に覆われたこの場所は、本当に別の、何もない世界のようだ。


「じゃあ、ここは神聖な場所なんですね」


 俺は一面を見渡した。別の世界……対岸に人影が見えるような気もした。


「そう、でも呪われた場所だよ。この世の怒りをため込む場所だ。人間の、動物たちの、森の怒りを、精霊がこの深い水のなかに閉じ込めている。さもないと世界は壊れてしまうからね。……さ、だからここを離れよう。精霊に見つかる前に――」


 刹那の沈黙に違和感を感じて振り返った瞬間、俺の心臓は凍り付いた。巨大な熊が丘を駆けてこちらに突進している。逃げようにも行き場がない。走りながら、その野獣は口元から湯気を立てて咆哮した。――逃げられない。


「飛び込みなさい!」


 男が俺の肩をわし掴み、目を見開いて言った。


「えっ?!」


「それしかない!私が時間を稼ぐ。でないと――」


 車に轢かれたような衝撃。灰色の空が視界に広がった。熊に吹き飛ばされた俺は宙を舞い、薄氷をぶち割って湖に落ちた。最後にあの男の背中、そしてこちらを覗く熊の黒い影が見えた。その影は瞬く間に小さくおぼろげになっていった。


 今朝見た夢、というより思い出に近いもの。あの湖のことがいまだに蘇ってくる。あの時水の中に落っこちたのは何故だったのか。バランスを崩したと言えばそれまでだが、あの時の俺はあそこに何かあると思った。地球の浸出液の溜まった、あの静かな場所の底に。


******



 目覚めると、俺は地面に仰向けに倒れていた。


 死んだ……のか?


 いや、それにしては……何かがものすごく間違っているような気が……。


 周りから聞こえてくる足音、それもどこか聞きなれないような。


 俺は顔を上げた。


 突如としてこちらに向かってくる何かが視界を覆いつくす。


「うわっ!!」


 俺は反射的に体を転がして逃げた。


 俺のことなど気にも留めず過ぎ去っていくそれ。


「馬車か……」



 馬車?


 俺は立ち上がって周りを見回した。そして初めて気づいた。俺ががひれ伏していたのはあの桟橋じゃない。それどころか――。


「ここはどこだ?」


 随分と往来の多い通り。ただ……歩いている人たちの服装が明らかにおかしい。教科書で見たことあるようなないような、ぴったりとしたズボンに、古風な革靴。長めのシャツを紐で腰に縛っている。女の人はワンピース型の一枚着に身を包んでいて、とにかくみんな歴史映画から出てきたかのような服装だ。


 うっすらと、すでに俺の脳裏には自分の身に起こったであろうことの、ひとつの可能性が浮かんでいる。そう、そうだけどさ、それを真っ先に検討するなんてあまりにもばかばかしいじゃないか、それが真っ先に浮かんでくるのと同じくらいには。


 と思って何気なく振り向いた瞬間、網膜に映し出される額から角の生えた牛のような獣。そしてそれにまたがるローブに身を包んだ御仁。


 その人が顔の前に人差し指を突きたてると、バッと小さく火が灯った。


「どけねえと燃やすぞ、ガキ」




 ――――異世界だ。

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