ネット氏の受難
いやはや、参ったなぁ・・・。
ネット氏は通りを歩いていた。
朝から気分は最悪だ。マーサのヤツ、何をあんなに怒っているんだか!
仕事の為に家を出る間際に大げんかしてしまった妻の顔を思い浮かべて顔をしかめる。靴の製造・販売に携わるネット氏は、最近小さいながらも工房を建てて職人を雇い、非常に多忙だった。
休みなんて滅多にない。いや、休んでいる場合じゃない。
工房で作る靴の売れ行きは好調だ。このまま頑張れば工房をもっと大きくできるかも知れない。
従業員だってたくさん雇えるし、そうなればもっとたくさん靴を作れるぞ。それを売った利益でもっともっと大きな工場を建てて・・・!
もっと、もっと、もっと!
ネット氏の足取りはせかせかと早くなっていく。目は爛々と輝き、前を見ているようで何も見えていなかった。
今、彼が見ているのは、「もっと」の先にある、明るい未来。
その未来に妻マーサの姿がない事に、ネット氏は気付いていなかった。
シャラーーーーン・・・
澄み切った鈴の音を思わす美しい音色に、ネット氏はハッと我に返った。
「13番目の魔女様?」
そう思ったのと、事件が起こったのはほぼ同時だった。
ブチっっっ!!
いきなり靴の靴紐が切れた。靴は早足で歩く足からすっぽ抜け、ポーンと華麗に宙を舞った。
「ぎゃー!!?」
ネット氏が見事に転んだその場所が、坂道だったのが災いした。
通りを行き交う人々は、勢い余って転がる彼が坂下の花屋に突っ込んでいくのを呆然と見送る事しか出来なかった。
店主はネット氏の怪我を心配したが、奇跡的に彼は無傷。ただし、店頭でバケツに活けていた色とりどりの花はメチャクチャになった。
バケツの水をかぶってびしょ濡れになったネット氏はひたすら謝り倒す。
店主はいい人だったが、結局「全部弁償します!」というまで許してくれなかった。
自宅の住所を告げて配達を頼み、上機嫌になった店主に笑顔で見送られながらネット氏は花屋を出た。
「なんなんだ、いったい・・・。」
トボトボ歩きだすと足に違和感を感じた。
靴が片っぽ、ない。そういえばどこにいったんだろう???
キャン! 何かが鳴いた。ネット氏は辺りを見回した。
通りの向こうを見ると、薄汚いやせっぽちの子犬が何かを咥えて引きずっている。それが自分の靴だと気づき、慌てて通りを横切った。
「おい、その靴、俺のだぞ!」
つい声を荒げてしまった。子犬はビックリして飛び上がり、靴を咥えたまま逃げ出してしまった。
「ま、待て!靴を置いていけ!」
逃げる子犬をネット氏が追いかける。鬼ごっこはさんざん走った子犬が力尽き、へちょっと道ばたにへたり込むまで続いた。
やっと靴を取り戻した。さぁ、仕事に行かなければ!
しかし・・・。
「やぁ、ネットさん。奇遇ですな。」
「こ、これはナフラスキーさん!おはようございます!」
偶然、取引先の重役さんと鉢合わせてしまった。彼は満面の笑みで、ネット氏の肩を叩く。
「いや、素晴らしい!アナタは立派な方だとは常日頃から思っていましたよ!」
「・・・は?」
「その子犬、随分弱ってますな。母犬とはぐれたのでしょうねぇ。可哀想に、こんなに痩せて・・・。
それを助けてあげようなんて、本当に心優しい人じゃなきゃ出来ない事ですよ!いや、まったくアナタは素晴らしい方だ!!」
子犬を抱いたネット氏は、初めて今自分がどこに居るのか気が付いた。
『ミセス・モリーの動物病院 初めて動物を飼われる方、ご相談下さい!!』
子犬と子猫の絵が描かれたピンクの看板には、大きくそう書かれていた。
「さ、行きましょうか♪」
ナフラスキー氏は自分の足下で注射を嫌がり目で抗議する小型犬を抱き上げ、ネット氏を促した。
動物病院で綺麗に洗われた子犬は見違えるように可愛くなった。
ご飯をいっぱいもらって元気になった子犬とは対照的に、ネット氏はぐったりと疲れ果てている。
靴は靴ひもが千切れてカパカパするし、服はびしょ濡れになってヨレヨレ。仕事場には大遅刻してしまったし、ネット氏の惨憺たる有様を見た職人達に情け容赦無く笑い飛ばされた。まったくなんて災難だ!
おまけに、犬なんて飼うつもりなかったのに!! こいつに掛かった病院代ときたら!!!
何だか悲しくなってきたネット氏は、財布を取り出し中を覗いた。
それが過ちの元だった。真新しい首輪や引き綱に慣れていない子犬を連れているのに、歩きながらお金を数える、なんて不注意マネしていたら・・・。
「キャン!」
「・・・ひぃぃぃ!!?」
元気にじゃれつく子犬の引き綱が、見事に足に絡まった!
倒れる!ネット氏は必死で転倒を回避しようと試みた。自由の利かなくなった足で子犬を踏んづけないようにピョンピョン跳びはねながら、引力に逆う努力を続けた。
結局、無駄だったが。ネット氏はバタン!とうつぶせに倒れてしまった。
「・・・えっ!? あ、有り難うございます!!」
「・・・は?」
派手に転んだのにちっとも痛くないのを不思議がりながら、声がする方へと顔を上げると、喜びに顔を輝かせた1人の少女と目が合った。
「お買い上げ、有り難うございます!しかも、飛び込む勢いでお求め下さるなんて、光栄です!!」
「え?ちょ、何の話を・・・???」
慌てて顔を上げると、そこは通りの隅に敷物を敷いて婦人用の装飾品を並べた露天だった。
痩せてあまり裕福でもなさそうな少女が、キラキラした目を涙ぐませて最高の笑顔を見せてくる。
「これ、全部私が作ったんです。装飾品の職人になりたくって。
でもどこの工房でも雇ってくれなくって、仕方なく露天で売ってるんですけど、ちっとも売れなくて落ち込んでたんです。
私、才能ないのかなって悲しくなってきたところだったけど、こんなに必死にお買い求め下さる方がいたなんて!
感激です!!この感動を支えにまた明日から夢に向かって頑張ります!!有り難うございます!!有り難うございますっ!!!」
ネット氏は倒れた姿勢のまま、呆然とこの状況を眺めた。
子犬のリードを握った右手は、なぜか人差し指だけ真っ直ぐに伸びて小さな青い石のはまった指輪を指し示している。
財布を握った左手は、露天の少女の手の中に。その手を少女がしっかりと握り、ブンブンと上下に振り回している。
この状況で断れる図太い神経を、彼は持ち合わせていなかった。
「あ、包装は別料金となってますケド、いいですよね♡」
ニッコリ笑う少女の方が、よっぽど神経太かった。
最悪の一日を終えたネット氏のトドメを指したのは、自宅で待つ妻、マーサだった。
魂が抜けたように放心したまま、元気な子犬に引っ張られて帰宅したネット氏は、家の扉を開けた途端に強烈な体当たりをお見舞いされた。
「お帰りなさい、アナタ! もぉ、ビックリしちゃったじゃないの!♡」
ビックリしたのはこっちの方だ、と思いつつ、抱きつく妻を辛うじて受け止めた彼は、家の中の様子に目を丸くする。
花、花、花。家の中が色とりどりの花だらけだった。
しまった!花屋で弁償した花が送られてくるのをマーサに伝えるのを忘れていた!ただでさえ最近機嫌が悪いのに、またケンカになるぞ!
青ざめるネット氏だったが、マーサの様子は彼が想像するような恐ろしいものではなかった。
「嬉しいわ、私がお花大好きなの覚えててくれてたのね!
今朝はごめんなさい、アナタったら今日が何の日かわからないような事言うんだもの。
あれはビックリさせる為の作戦だったのね!ひどいわ、覚えてらっしゃい♡」
・・・え?
「まぁ、子犬!? 犬が飼いたいって言ったのまで覚えててくれてたなんて!!
なんて可愛い子なの、このふわふわの毛並みったら!あぁアナタ、私もう泣きそうよ!!」
・・・えぇ??
「あら、手に持ってるの、なぁに? かわいい包みね。もしかして、それも私に・・・?
まぁ!指輪!?? なんて綺麗なの!!
こんなにしてもらえるなんて・・・アナタ、私幸せよ♡」
・・・ええぇぇぇ???
マーサが本当に涙ぐみ、足下でじゃれついていた子犬を抱き上げた。
「よかったわ。アナタが仕事のしすぎで妻の誕生日まで忘れちゃう人になっちゃったのかと思って、とても悲しかったの。
私の考えすぎだったのね。アナタはちっとも変らない。優しくて、人を驚かせたり楽しませたりするのが大好きで、温かい人。そんなアナタが大好きよ。
ありがとう、アナタ。人生で一番素敵な誕生日だわ!!!」
心が満たされていくのを感じた。
ネット氏は深い愛情と、大きな悔悛、ほんのちょっぴりの後ろめたさを込めて、泣き出した愛する妻を子犬ごと抱きしめた。
この人を失うところだった。この日の奇跡がなければ、近い将来、必ず。
シャラン・・・・。
美しい音色に振り向くと、家の前通り沿いに植えられた大きなシイの木の枝に、銀のローブが風にそよいでいるのが見えた。
ありがとうございます。13番目の魔女様。
でも、もうちょっとお手柔らかにできなかったものですかね?
目配せでそれを伝えると、魔女はちょっと肩をすくめる仕草をした。
シャラン・・・・。
魔女の腕飾りが鳴った。
今度の魔法は、忘却防止の魔法。
少しだけ愚かだった男が、今日の奇跡を忘れないように。
「キャン♪」
泣きじゃくる妻を宥めるネット氏の代わりにお別れの挨拶をしたのは、奇跡のおこぼれにあずかった子犬だった。