私の意思の硬さを舐めないでくれ
何となく書き溜めていたものを投稿していきます……良ければ
今日から新学期、進級して今日から私は、新・高校二年生。集会で『中堅学年として~……』とかいう死ぬほど聞いて最早聞き飽きた台詞を散々聞かされることになるのだ。非常にありがたいお言葉ではあるのだけれども、あまりに聞きすぎて一言一句間違えずに暗唱できるレベルにまで生徒全員が達しているので(多分)、校長先生の話の時には大抵の生徒が眠っている。
自分の新しいクラス、二年二組の教室に入ると、既にほとんどの生徒は登校していて、にぎやかだった。昨年同じクラスだった生徒もちらほら見かける。……へえ、この人とも同じクラスなんだあ、とか、ちっぽけな感動。誰と同じクラスなのかとかまるで見ていなかったからなあ。実は名前もあんまり、憶えてなかったり。自分の席に着くと、伸びをして、私はうつぶせになって眠りの体勢に入った。昨年はいつもこの体勢をとっていたため友達とかいうものはあまりできなかった。その反省を生かして今年はそのようなことは避けたいところで、高二デビューをかましてやりたいのもやまやまなのだけれど、昨日夜更かしをしてゲームをしていたせいか、身体が怠くて仕方がないのだ。最近よく見るおかしな夢の影響もあるのかもしれない。最悪である。
しばらくすると、担任が教室に入ってきてSHRが始まった。そして、隣の席の者に自己紹介をしろと指示をするので、生徒たちは皆横を見て隣の生徒と話し始める。私もそうしようかと横を向きかけるが、やめる。今日、私の隣には誰もいないらしい。欠席のようだった。高二デビューのための第一歩を踏み出すタイミングを奪われたかのような、逃したかのような、そんな感覚。
「……幸先が、悪いかもね」
ぼそりと呟く。控えめに言って、最悪かもしれない……と落ち込みかけたが隣の席の人はどうやら男子生徒らしいので、もしかすると、これはこれでよかったのかもしれない、と思い直す。今まで他人との会話をあまりしてこなかった私がいきなり異性と話すというのはいささか無理があるだろう。ああ、ポジティヴシンキングって、大事。
「はい、自己紹介やめー。やばかねぇ。結構個性的じゃない? このクラスのメンバー」
発音、アクセントが方言っぽい。どこの出身なのだろう。何となく気になる。
「大下駄です、よろしくー。教科は数学。今までにも授業を受けたことある人はおるっちゃないかな」
私は受けたことはないが、大下駄は教えるのは結構うまい教師だと小耳に挟んだことがあるが、同時に、生徒たちになめられているのが玉に瑕なのだともよく聞く。因みに彼女の身長は女性にしては高いので、姿勢をよくするだけでも多少の威圧感も出るはずだとも思うのだが……まあ、そこは、性格の問題か。どうやら優しい奴みたいだし。
大下駄は聞かれもしない自己紹介をその後少し続けてから、私たちに始業式のため体育館に向かうよう指示した。
当たり前と言えばそうなのだが、去年と何も変わらずあまりにも長い校長の話が終了すると、すぐに始業式は終了した。ようやく解放されたぁ、と謎の達成感さえ感じるが、それと同時に、校長の文章作成能力の高さに少々尊敬の念を覚えずにはいられない。私には多分、あんなに長い文章を考えるのは不可能だ。文章は短く簡潔に伝えた方が良いという格言を昔に聞いた覚えもあるけれども、それは取り敢えず置いておこうか。流石はもうすぐ還暦なだけはある、人生経験が違う。ただの爺じゃないってわけだ。など、思ってもいない褒め言葉を脳内でつらつらと並べながら教室までたらたらと歩く。今日はもうこの後帰宅だったはずだ。私が教室に到着してしばらく経った後、クラスの生徒全員がそろって大下駄も入ってきて、あっという間にSHRは終了した。皆が皆和気藹々として午後の予定などをしきりに確認し合っている。――――さて、高二デビューを無事果たしたい私としてはこのクラスの女子に誰か遊びの誘いをかけてほしいものなのだが……あっという間に教室から人がほとんど掃けてしまった。現実は非常なのであった。ちくしょー。
なんかもうムカついてきたので、高二デビューのことはもう諦めようと思う。諦めが肝心という古くより言い伝わる言葉が我が国にはあるのだ。今回の所はそれに従っておこうと思う。はい、デビューやめやめー、っと。
私は学生鞄を手に取って、席を立つ。その時、「真琴~!」と、私を呼ぶ声がした。なんだか輝いているなあ、と思いつつドアの方を見ると、耳元の髪をくるくると指でいじっている維澄紗絵がそこには立っていた。未だに教室内に残る数人の生徒たちが、少々ざわつく。それは当然のことだ。何故なら、彼女はこの学校では超がつくほどの有名人だから。ぴんぴかりんに輝いているのだ。いや、この学校という域を少々逸脱してしまっているともいえる。かといって別にテレビに出ていたりモデルをしたりしているわけじゃない。高校生という枠組みの中ではこれといった特別なこともしていないのに、兎に角有名なのだ。理由はわからない。しかし、その笑顔の爽やかさに、同性ながら動悸がしてしまうくらいである。あ、でも、一応言っとくと、私は別に同性愛者というわけじゃない。私がもしそうだったところで、需要はこの宇宙中探したところで見つからないだろうし。まあそういうことを需要云々で片づけてしまうのは実際にそうである人に失礼なのかもしれないのでお口にチャック。
「……久しぶり」
「ひっさしぶりー! 元気してたー?」
顔良し、スタイル良し、元気良し。さらには高身長。運動もできて勉強も普通にできる。基本なんでもできる女、維澄紗絵。私の数少ない友人のうちの一人である。
紗絵はドアの前から、私の方にとことこと駆け寄ってくる。そうして、私の近くの手ごろな椅子に座る。あ、なんかいい匂いがするかも。紗絵が近くに来たら香ってきたから、紗絵の匂いってことですね。いつもいい匂いだけど、今日は特にいい匂いかもしれない。
「シャンプー変えた?」
「あ、わかっちゃうー?」
ふははは、と笑いながら髪をくるくると指に巻き付ける紗絵。それにしても。……なんとなく、違和感。
「……なぁんか、伸びた? 髪」
「お、いいね。そこにも気付いちゃうとは乙女心を捉えていると言ってあげたいところだよ」
言ってあげてください。
彼女は基本どこの部活動にも属しちゃいないのだけれども、その屈指の運動神経の高さを買われて、あらゆる部活動(弱小)から引っ張りだこだ。そして、部員の誰よりもうまくその競技をこなしてみせるのだから、タチが悪い。助っ人によるワンマンチームができあがってしまうのだ。それでいいのか部活生たちよ、と異を唱えたいところである。グラウンドでサッカーやソフトボールの練習をしているのを見物に行ったことがある。男子生徒も数多くいたが、それ以上に女子生徒の数、盛り上がりがすごかった……。まあそれは置いといて、私が言いたいのは、維澄は天真爛漫スポーツ少女だった、ということだ。だから、髪が短かったのだ。ベリー、とは言わないまでも、ショートカット、くらいには言ってもいいような髪型であった。それが、今は肩に髪の毛の先が触れるくらいには長くなっている……それほどまでに変わったのなら、私ほどになると気付かないはずがないのだ。ただ、あまりにも似合い過ぎていたので少し呆けてしまっただけ。ってことで。いやア、美しい黒髪ですこと。
「髪伸びるの早いね。昨年度から変わりすぎでしょ。……にせもん?」
ショートカットからいきなりそんな伸びるのかよ、春休みって十日くらいしかないんですけど。
紗絵は少しムッとした顔つきで、
「そんなわけないじゃん! 地毛だよ、地毛。洗うのはちょっと面倒くさいけど、大切にしてやってるよー」
「ふーん……いや、そう。へえ。それにしても、一体どういう心境の変化? 今までずっと短めの髪だったのに。高二デビュー? 失恋?」
「いやあ、あはは。それがねえ」
紗絵は急速に真面目っぽい顔つきになって、
「……令代くんが、好みらしいんだよね、ロング」
「…………」ええー。マジですか。どうでもいいよ。
「それより、真琴の方はどうなの? 去年もデビューデビュー騒いでたけど、今年もまた失敗ッスか」
やかましいわ。
基本何でもできる女、維澄紗枝。中学校来の仲であった私が最近気付いたことには、どうやら彼女、どうも恋愛が苦手――と言うよか、男を見る目というものがないらしかった。趣味が悪いというか。令代巧。彼は、私が今までに見た中ではトップの『ヤバい奴』だった。何がヤバいって、まず見た目だ。反骨精神なのか何なのか学校指定の制服は着用せずにいつも茶色のパーカーを羽織っており、髪は真っ白、極めつけにとんでもない眼つき。隈もひどいのだ。遠くから見ただけでもわかる。あれは恐らく、何人か殺っている。そして、見た目通りのうわさ。ヤクザの家の息子なのだ、将来は若頭なのだ、いいやギャングだ、ここらの麻薬密売を取り締まっているのはあいつだ、あいつは仁義もくそもないヤクザの家の者なのだ、あいつは人を何人か殺っている、ドラム缶に詰め込んでコンクリを流し込んで海に放り投げたらしい、そういえばあいつ、殺した相手の内臓を生で食っちまうらしいぜ、あいつはヤクをキメてる、etc……。こんな具合だ。重複感がするがとりあえず置いといて、驚いたことに、どれもこれも信憑性がありすぎる。偏見で言っているのではない。あの佇まいを見れば、ただ者でないことなど、一目でわかる。身長がそんなに高くなくて、ひょろそうなところも逆にそれっぽい、などなど、これら全ては一年の二学期、紗絵から令代に対する感情を少々仄めかされたときにすべて正直に一切の滞りなく迷いなく私の口から音声となって滑り出てきた。言い終えた直後、私は何故か、〝信憑性の『し』の字もないじゃん!〟と全力で殴られた。理不尽。あいつは馬鹿みたいに腕っぷしも強いので私の身体は回転しながら壁に激突した。あまりに重いパンチだったので、あのときは死ぬかと思った。生きていることの喜びに浸りながら咳き込むと赤い液体が私の手のひらを濡らしたので、もしかしたら冗談抜きに死ぬ寸前だったのかもしれないと、何となく察した。それから特に何の問題もなく半年の時が過ぎたが、今もまだ生きている。
『超人』維澄紗絵、ベタ惚れである。奴の何が彼女にそこまで思わせるに至らせたのかはわからないが、とにかく、そうなのだった。
「……まあね」
「やっぱりねー、何か思い通りにならないことがあったらすぐ諦めるんだもんなー、真琴は」
「やかましい」
緑枝台は、ここ串間高校から約8キロの位置に存在する住宅街、およびその周辺を含めた街のことだ。緑枝台の歴史は浅く、およそ20年前、住宅街の存在する位置にはもともとただの山があり、その山の木を伐採してできた高台に住宅街を作ったらしい。そしてそこに次々と家が建ち、人口は激増。ちょうど東貝捨小学校と北悲喜津小学校の校区の境目に存在するため、新小学生の子どもは現在でもどちらの学校に行くか選べるらしいが、大抵は東貝捨小の方を選択するのだと聞く。抗えない、ひがしょーの魅力……愛郷心に満ち溢れている私であった。
私と紗絵は、現在その緑枝台にいた。理由は簡単だ、紗絵に誘われたから一緒に来たまでの話である。紗絵は生憎と自転車通学ではないので、彼女の荷物を私の自転車のかごにのせて、並走する形でここまでやってきたのであった。
とはいえ、傾斜のきつい上り坂をきついきついと泣き言を言いながら乗り越えて、一応目的地には到着したので今は自転車を降りて、この入り組んだ住宅街を、紗絵と並んで歩いている。
しばらく何でもないことをしゃべりながら歩いていると、「ねえ」と何かを思いついたように紗絵は言った。
「かっこよかったでしょ? 何も言わなかったら」
「ああ、うん」
うーん? つい適当に返事をしてしまったけど、何のことだかさっぱり分かんないぞ。
「……何の話?」
「木下くんだよ、木下くん! 木下柑記くん! 普通なら『きのした』って読みそうなもんだけど、あれ、『きおろし』って読むんだよね、珍しいと思うな、全国にどれだけいるのかは分かんないけど」
「だから何の話なのかわかんないって」
「いなかった? 同じクラスだよね、確か。いやー、令代くんに出会ってなかったらうっかり一目惚れしてたかもしれないよね、あれは。見た目は良いからねえ。いや、っていうか、顔かな?」
「……わかんないけど、うちのクラス、一人休んでたよ。私の隣の席なんだけど」
「ああ、じゃあそれだよ、多分それそれ。そう言えばサボり癖があるんだった。すーぐ休もうとするらしいからなあ」
去年なんて留年しかけたくせになー、今年も変わんないんだなあ、とやれやれといった感じに肩をすくめる。だからさっきからそのアメリカ人っぽい動作は何なの?
ふむ。どうやら、私の今日は空いていた隣の席はあの紗絵が認めるほどのかっこいい人が座るらしい――――――割かしどうでもよくはあるが、そんなにかっこいいかっこいい言われるような奴なら周りも賑わっているんだろうなあ。私が寝ている最中にうるさくはされたくないなあ。それにしても、
「紗絵が例のあの人以外のことをそんなに話すなんて意外だね。何者?」
「『例のあの人』なんて、令代くんのことを名前に出したら呪われるやつみたいに言うのはやめてよね。――――そうだなあ、あの人、令代くんの数少ない友達なんだよね、小学校来の仲、とか言ってたかな……。まあ、真琴が木下くんと仲良くなって、ついでに私も仲良くなって、令代くんのあれこれを教えてもらう、みたいなね」
外堀から埋めるってやつか。……合ってるよね? 表現。
「そういえば、なんで緑枝台に用があるの」
「ああ、言ってなかったかな、そういえば。教えてほしい?」
「どうして訊いたと思ったの?」
「たしかに」
うんうんと頷く。何か、どうでもいいところでやたらと動作が大きい気がする。だから海外ドラマっぽい動作になってるのね。ちょっとうざいかも。
「これは春休み中にソフト部で聞いた話なんだけどね」
「うん」
「魔女がいるんだってさ」
「は?」
「もう一回言うよ? 魔女がいるらしいんだよ、あそこ」
噂によるとね。私は彼女のその話に、肩をすくめて嘆息するくらいの事しかできなかった。大袈裟な動作。紗絵は今内心、〝海外ドラマか!〟と突っ込んでいるのかもしれない。
そして私は失笑する。くだらなすぎて。
*
魔法使いがいるらしいと終業式の日に聞いたから、新学期初日からサボって緑枝台を探検――――散策することにした。昨年度、出席日数がぎりぎりで留年しかけた柑記は担任にこっぴどく叱られていたはずなのだが、やはり馬の耳に念仏、といった感じにまるで耳には入っておらず、片方の耳の穴から入った話題は全て脳を経由せず左の穴を通って抜けてしまった、とでも言い訳するかの如く、僅かに覚えていた話もすべて忘れてしまったかのように、本日もサボることにしたのである。何ともものぐさ。何ともずぼら。春休みの宿題にだってまるで手をつけていない――春休みに入ってから、筆箱を開くことさえもしていないのだ。かと言って、遊んでいたわけでもなく――彼はただただ、自堕落な生活を送っていた。
朝六時五十分ごろ、起床した彼は何故か唐突に、終業式の日に近くの席の同級生が話していたことを思い出していた。〝緑枝台に魔法使いが、いるらしいよ〟その話を聞いた時、彼の少年心はひどく昂っていた。春休み中に一度探しに行ってみようか、そう決意していた。それから十数日、彼はすっかりそれを忘れていた。記憶力に難のある男なのである。提出物の期限には必ずと言っていいほど間に合わず、教材をよく忘れ、待ち合わせの時間に遅れ、時々現れず、しまいにはどれだけ注意されてもまるで行動を変えないのだ。本人は〝記憶力が悪い〟とは言うけれどもただのずぼらにしか見えないうえ、しかし本当に記憶力が悪いので質が悪いのだった。ずぼらでもあるのだが。友人や教師には手帳をつけろだのメモを取れだの言われるのだが、翌日には忘れてしまっている。一度、忘れないようにと友人に助言をもらった直後に本屋に寄って手帳を購入しようとするも、彼の財布の中身はほとんどなく、そのうえ漫画の単行本を買ってしまったので手帳を買う余裕はなくなってしまった。欲望に忠実な男である。そしてそのおかげで、彼は手帳を手に入れる機会を永久に失ってしまったのだ。ただ、流石に学んだのか、大事なことを言われた後、彼は手に油性ペンでその情報を書き込むよう心掛けた。そもそも話を聞いていないことが多かったためそのようなことをしても忘れ物の数はさほど減りはしなかったのだが、たまに期日通りに提出物を担任に提出すると、それまでには考えられないことではあったのでやたらと褒められ、そしてそのたびに〝馬鹿にするな〟と少し怒るのだった。最悪である。
『魔法使い』の話題は、突発的に目の前で繰り広げられた会話だったのでメモを取り逃していたらしく、これまで通り、忘れていたのだ。だが、偶然思い出した。思い立ったが吉日、ただ彼の場合はすぐに忘れてしまうだけなのだが――――――とにかく、彼はすぐに緑枝台へと赴くことを決意したのだった。
そんな彼だったが、
「……しっかし、緑枝ってのは遠すぎるな。というか、中途半端だ」
早くも気分が滅入り始めていた。既に朝のHR開始時間から三十分ほど経過している。
「三美見くらいならまだよかったんだけどな」
自分で決めたことのくせにぐちぐちと文句を呟いている。しかし、他の生徒たちが学校に行っている間に探索してしまいたいとも思っていたので、後には引けないような心持にもなっている。非常にみっともない男の姿が、そこにはあった。
さて、どうしようか……そう腕を組んで考えていると、こんこん、とドアを叩く音がした。
「柑記~? 学校は~?」
まずい、叔母さんだ。学校をさぼってることがばれてしまう。
「自転車があるからわかるんだよー、居留守なんて無駄だよー」
ジャラジャラと金属と金属のこすれる音がする。鍵を取り出しているのだろう。
やべえやべえ、と心の中で焦りつつドアと反対側の位置に存在している窓から、靴を履いて外に出る。彼の部屋は二階に存在しているのでそこから降りるのは並々でない恐怖があるのだけれども、靴に足を突っ込んで紐も結ばないでそのまま窓から飛び降り、綺麗に着地し、コンマ数秒のタイムラグもなしに自転車の方へ駆けて行った。慣れたものである。明らかにこれが初犯ではない。
その直後、柑記の部屋の扉が開いた。柑記の叔母――由紀はこのアパートのマスターキーを持っている。あと一秒遅れていれば、その場で取り押さえられ、説教を受けていただろう。もちろん、今現在の柑記の部屋は既にもぬけの殻。由紀は嘆息して、「朝食くらいは食べていきなさいよ、まったく……」と呟いた。
怒楽荘。木下柑記と三木由紀とは現在、そこに住んでいる。但し、部屋は別々である。六畳一間の間取りで、ボロアパートゆえに格安――と言っても柑記は現在家賃を払う義務はなく、アパートの大家である由紀が貸しにしている状況だ。しかし柑記の中にも申し訳なく思う気持ちはあるようで、頻度は低いながらもアルバイトで金を稼いで、偶に由紀にごちそうをふるまったりプレゼントを贈ったりしている。そんなわけで柑記と由紀の殆ど共同生活は喧嘩もなくおおむね良好なのだった。
その怒楽荘を後にして、柑記はいざ緑枝台へと出発したところだったのだけれども、出発して数百メートル――パン、と破裂音がして、何が破裂したのかと思えば自転車の後輪が破裂していたのだった。大方、タイヤに空気を入れ過ぎたのだろう。
「…………」
自転車を降りて、財布の中身を確認。パンク修理代くらいは入っている。無言のまま柑記はまた歩き始める。都合の良……有り難いことに、緑枝台までの通り道に自転車を修理してくれる店が存在しているのだ。
内心、昨日ジュースを買わなかった自分を褒めながら柑記は自転車を押し続けるのだった。
*
「魔法使いねえ……」
「魔法使いだよー」
魔法使いなんだってさ。
先程、維澄紗絵さんが『魔法使いに会いに行こう!』という最早非現実通り越して現実的なんじゃないかと思わされるほどの衝撃発言をしてきたので、私は念のため彼女に魔法使いとは何ぞやということを確認しておいた。すると唐突に真面目な風になって、中世ヨーロッパの魔女狩りの話とか、なんか歴史的な話をし始めたものだから一発殴って簡潔に話すことを要求すると、「魔法を使う人。杖とか振ったり、箒に乗って空飛んだり」という模範的な回答を示してくれた。模範的な回答ばかりを求めて個性を潰す我が国の現状をわが身で体現してしまった、と何となく愕然。
ひとまずコンビニでジュースを買って、それをちびちび飲みながら自転車を押して歩く。紗絵はコーヒー牛乳をちゅーちゅーストローで吸っている。あ、そっちにしとけばよかったかも、とほんの少し後悔。現在目の前には公立の西々(にしさい)高校があって、そこを左に曲がれば再び住宅の多いゾーンに突入する。目的の魔女狩、……魔女探しというわけだ。魔法使いが女だとは別に言ってなかったけどもさ。
なんかかったるいなー、とか思っていると紗絵が突然、
「なーんか、不満気だよね、真琴」と頬を膨らませた。
「……そう見える?」
「うん。緑枝に行く理由を話したくらいから、なんかいつもの気だるげさが増したっていうか、目が死んでるっていうか」
「目が死んでるって、そんな。令代じゃあるまいし」
「何言ってるの?」
口が滑った。相手は令代大好き人間、維澄紗絵である。
視線が怖いので少し中断。余計なことを口走ってしまうのは私の良くない癖だ。それが行き過ぎて余計なことをしか言えない身体になってしまわないか心配だ。
しばらくお互いに黙りこくっていた。かぁかぁとカラスが鳴く。夕方じゃないけど。
紗絵は何故か少し微笑んで、
「魔法を信じる信じないっていうかさ、魔法が存在しないってことを証明することの方が難しい、みたいな話なんだよね。私は、基本的に、何でも信じることにしてる。この世界で判明していることなんてきっと限りなくゼロに近くて、だから、もしかしたら魔法だって存在しているのかもしれないし、存在しないと否定しきることは出来ないし、もし科学のルールで否定できたとしてもその反例だって嘘かもしれないわけで……っていうのは建前でさ」
「?」建前なのかよ。内心を見透かされたみたいで、ひやひやしたわ。
「遊ぶ口実、みたいな?」
「……………」ちょっと、ぐっと来たかも。いや、来ました。
「なかなか来ないからってただの住宅街に来ることもないでしょ」
「ただの住宅街じゃないよ、魔法使いがいるかもしれないんだから」
「ぷっ」
少しおかしくなって、けらけらと二人で笑い合う。
こんな感じで、偶によくわからないタイミングでくだらないことをきっかけに私たちの雰囲気は多少悪くなることのある。私の口の滑り具合の問題なのか紗絵の性格の問題なのかはわからないけども、とにかく、今までもこうやって付き合ってきたのだから、何も問題はないのだろうと思う。喧嘩も仲直りも、あっという間だ。だから、お互いのことは長年付き合ってみてもいまいちよくわかってはいないけれど、親友でいられるのだと思う。紗絵も、そう感じてくれていたらうれしい。
さあ探検開始だ。
直後、目の前に存在した『緑枝第一公園』と銅板に刻まれた公園――だから多分、第一公園と呼ばれているのだろう。その公園の土が、やけに盛り上がっていた。そしてその盛り上がり方が不可解なのだ。何が不可解って、ロープ状になり女性を縛るようにして盛り上がっているところだ。まるで、魔法でも用いたかのように……。縛られている女性は眠ったように目を閉じていて、服が乱れていて、胸部にはナイフが突き刺さっていた。
2
「キャー‼」
なんて女子っぽい悲鳴を上げることはしない。かと言って、そう冷静でもいられなかった。
「どどどどどうしよう、紗絵、110番かな、警察かな? 救急車は? 呼ぶ? あ、携帯の充電切れてる……」
「いや……」
対する紗絵はやたらと冷静で、少し怖いくらいだった。これを見た瞬間、流石に少しは驚いたようではあったが、すぐに近づいて死亡確認をすると、「近づいてみて分かったけど、性的暴行も受けてるっぽいね、これ」と呟いた。ぽいね、じゃねえっす。どんな性癖の持ち主だ。性癖といえば、言えば三学期に盗撮騒ぎとかあったなあ、と現実逃避したくてわざわざそんなことを思い出す。女子トイレにケータイを仕掛けて排泄行為を撮るという……私は使っていないトイレだったんだけどさ。紗絵は多分使ってた。まあ、この話は置いといて。
「死体好きって、ネクロフィリア、ってーんだっけ」
「いやー、やることやってから殺したって可能性もなくはないよね」
いや、どっちでもいいから。
「とりあえず、ここを離れよっか」
「うん…………、……ええ!?」
あまりにも平然と言うので流してしまいかけたよ!
「……そりゃ、離れたいのも山々だけどさ」
「ね、言ったでしょ、真琴」
「なにがさ」ちょっと、いきなり話題転換はやめてくれる?
「これは、魔法だよ、真琴! そうとしか、思えない、よねえ?」
「……うんまあ」
「これは、魔法使いがここにいるということの裏付けになったね。よし、犯人を捜そう、ワトソン君!」
なんか興奮してるよ。人が死んだからホームズ気取るって、そういうの不謹慎、って言うんだよ。推理小説どころか活字すら普段読んでないくせに……。
「さあ行こう!」
「犯されたいなら一人でどうぞ」
いくら拒否しようとも無駄なわけで。自転車に乗って逃げようとするも、加速する前に走って追いつかれて首根っこをつかまれて引き摺られて連行された。超人・維澄紗絵。運動神経が高いとかいうレベルじゃない。
「でも、当てもなくただ歩き回ってるだけじゃあどうしようもないじゃん、本気で魔法使いを探そうったって、どうしようってのさ」
「そりゃあ、……聞きこみ、とか?」
「馬鹿なの?」
「じゃあ代案を出してみてよ、ほらほら」
「あきらめて帰る」
「ばーか!」
結局聞き込みをしてみようということになったのだけれども、第一公園を離れしばらく歩いてみても、人はまるで見当たらない。それどころか、先程から何度か同じ道を通っている。緑枝台の住宅街は広いうえ、入り組んでいるのだ。
「もう歩き疲れたから自転車乗ってていい? ゆっくり走るからさ」
「逃げるよね」
「うん」
「だめ」
嘘をつけない性格(場合による)が災いして、私自身が更に逃げ場のない状況に追い込まれる。でもこんなんじゃ……。
「これじゃあ日が暮れちゃうよー」
「別に日が暮れても、明日があるし、日が暮れる前にはもうちょっと人も賑わってるだろうし、聞き込みもできるだろうから問題ないよ」
小学生とかね、と紗絵の爽やかなサムズアップアンドウインク。それに対して私は、あ、はい、そっすか、といった具合に曖昧な相槌を打つことしかできない。
「明日になったらもう事件解決されてるかもよー? 流石にその頃には通報くらいはされてるだろーし」もしかしたら、もう既に。
「大丈夫、あんな状況、ホームズにだって金田一にだって謎は解けないよ。だって魔法だもん」
「ホームズは紗絵でしょー」
「違うよー、真琴がワトソンってだけー」
「意味わかんないって」
そんな風に喋りながらぶらぶらと歩き続ける。先程も言ったように入り組んでいるから、紗絵は知らないけど私には、自分が今どこを歩いているのかさえ分からない。勿論、何か成果が得られるわけでもなく。これからも得られることはないのだろうと思っていたが、状況は一瞬で変わった。
紗絵が、
「あ、人だ!」と前方を指さして言った。
「誰もいないよ」
私は目が悪い。コンタクトをつけているので人並み程度には見えているのだが、前方に人影なんて確認できない。紗絵はいったいどんな目をしているのだろう。どんどん、歩いて近づいてゆく。一歩進むたび、その姿は鮮明になってゆく。私にも、人影と風景を区別できる距離になってきた。
「あー!」
「あー?」
突然叫んだ紗絵に目を遣り、イントネーションを変えて同じ言葉をプレゼント。
近づいてゆくと、このいい天気だ。髪の色がわかった。白だ。ご老人か、と思っていると、紗絵がいきなり走り出した。
「え? ええ?」
戸惑いながらも私はそれに並走する。全力疾走。300メートルも保たないだろうなあ、この感じだと。けど実はこっそり自転車に乗ってたり。
年寄りを怖がらせちゃ駄目だろう、ただでさえ心臓が弱いんだろうから……と内心突っ込んでいると、さらに速度を上げて、手を振りながら、紗絵が叫んだ。
「令代くーーーーーーーーーーーーん‼」
「え」
今日は主に紗絵の奇怪な行動のせいで驚きの連続だったけれども、そのいずれも退けるほどの圧倒的驚愕。あの死体に遭遇した時なんて、今現在の驚きに比べたら小石みたいなものだ。
――――令代巧が、ここにいる?
令代巧と遭遇してしまう、ということか?
驚愕の次に私の胸を襲ったのは、恐怖。胸がざわつく。全身チキン肌だ。逃げたい。けど、無駄なのだろう。痛い目を見たくなければ、維澄について行くためにとにかくペダルを漕ぐしかない。我が人生史上最大のピンチ。しかし同時に、避けようのない事でもあったのだろう。維澄紗絵と友人関係となってしまった時点で――……。
なるほど、確かに令代巧はそこにいた。オーラでわかる。闇の瘴気がそこらに漂っているような感覚すらしてくる――っと、この表現は少年漫画の読み過ぎの弊害かもしれない。いや、確実にそう。
のろのろと歩いている彼と全力疾走の私たちとの距離は、ぐんぐんと詰まってゆく。
「令代くーん!」
え、紗絵さんまた加速したんですけど。まだ全力疾走やなかったんかい。どんどん激しくなってゆく腕の振りと脚の動き。さあ今引き千切ってやろうと言わんばかりの酷使っぷりだ。いや、普通に心配だよ。っていうか、もう追いつけない……。距離がじわじわと離れてゆく。本当に千切られたのは私だったってことか。
流石にもう気付いたのか、令代はこちらを向いた。ひ~、と震えて小動物のようにどこかに隠れてしまいたい私。穴があったら入りたいとはこのことだ。違うかもしれない。
「ちょちょちょ、ちょっと待って、待って」
数年前に流行った結局一発屋となってしまった芸人がごとく、紗絵にストップをかける令代の言ったことを素直に守り、紗絵はキキーッ! というブレーキ音(実際はざざざざざっ、といった感じの音だったけど)でも出しそうな勢いで急ストップをかけ、止まった。膝への負担がすさまじそうだなー、と思いつつ、私もそこに到着。自転車を降りて、スタンドを立てる。
令代の近くにここまで近づいたのは初めてのことかもしれない。高校生男子にしては少々小柄。彼が着用する茶色のパーカーの前は開いていて中には黒のTシャツ、ズボンは普通に制服のズボンで、持っているのは学生鞄。およそ健康的とはいいがたいような白い肌をしており、髪は真っ白、そしてその瞳は――……。実際に見るのと噂のまた聞きによる情報とでは、比べ物にならないほど伝わる意味不明な恐ろしさ。意味不明としか言いようがない。言葉に言い現わすことなんて、出来ようはずもない。なるほど、『眼つきが悪いと言えば令代』と言うと紗絵が怒るわけだ。睨みを利かせているとか悪人面とかそういう話じゃないのだ。むしろ形そのものは平凡そのもののように思えるのだけど……。すべての絵の具をキャンバスの上でぐちゃぐちゃにかきまぜても出来上がらないであろう濁った色をした彼の瞳は、正常に機能しているのか疑わしいほどだった。怖さを演出するはずの眼の下の隈なんて問題にならないほどにただただ瞳が怖いのだった。怖い、怖い怖い怖い。本能が全力で『こいつとは関わるな』と主張してくる。
「…………………」
想像を絶するとはこのことだ。怖い怖いと思ってたけどまさか、ここまで……う、春なのになぜか寒い。冷や汗のせいだ。
「……こっちの人は?」
ひいっ! 私の方を見た! もう嫌だ、帰りたい……。
「私の友達で、笹井真琴!」私の名前を教えるなあ!「仲良くしてやってねー」勘弁してくれ……。
「家はこの辺なの? 確か日喜津中出身だったよね。わざわざ選んで、あっちに行ったわけ?」
ずいっと令代に詰め寄る紗絵。よく近づけるな、私なんて、……。
「えーと、その辺は事情があると言いますか。取り敢えず、それ以上近寄らないでほしいと思うわけで」
お?
「なんでさー。嫌なの~?」
本当にだ。維澄紗絵に近寄られることは誰にとってもこの上なくうれしい事象であるはずなのに、この男はどうしてそれを断ることができるんだ、相当稀有だ、やはり人智を超えている。異常だ、サイコパスだ。うちの学校には紗絵に近寄ってくださいお願いしますと土下座する人ぐらいなら探さずとも何人でも見つかるだろうに。その人たちに謝れ!
「い、嫌って、わけじゃないんだけど、いや、ほら、なんか、にやけちゃうかもしんないから、恥ずかしいし、いやまあ、どうでもいいんだけどさ、維澄さんの好きなようにすれば、って思うけど、僕は知らないし、いや、ほんとう、どうでもいい」
「「…………」」
紗絵が、「ほら、どうだー」とでも言いたそうに、得意げな顔で私の方を見てくる。「おい令代、普通の陰キャラの男子みたいな反応してんじゃねえ!」って、言いたい!
「じゃ、好きなようにさせてもらいまーすっ!」
そう言ったかと思うと紗絵が令代に抱きつき、
「うわあああ! うわああああああ!」
一方令代は慌てふためいている。紗絵を振りほどこうと試みるも、……うん、出来ないよね、だって怪力だもんね、そいつ。じたばたじたばた。
そのまま目視できるほど顔が赤くなっていって、白目を剥いて、気絶した。呼吸困難からの気絶か恥ずかしさからの気絶か知らないけど、抱きつかれたまま令代は、がくりとうなだれる。
「えええええ………………」
なんか違う! なんか、想像していたのと、違う! だって、私が想像していたのは、もっと、冷酷、残忍、そしてちょっとイッチャッテル系で、そう、それこそこんな状況だったらこれに乗じて紗絵のことをヤっちゃうような――――――そんなイメージはほとんど消えて、私の中で彼に残っているのは『ヤバい奴のオーラ』と濁りに濁り切ったその、瞳のみ。
「…………」
いや、本当、どういうことだよ。どっちかっていうと紗絵にヤられちゃいそうだし。そして紗絵はその淫乱っぽい感じは何なの。
白目を剥いているから、怖くない。私は、令代の顔を初めて直視する。普通に整っている。ちょっと童顔っぽいかも……。紗絵って意外と、面食いなのかな。
まあ、取り敢えず。
「のびちゃってるから、放してやれば?」