目覚め
「コナンドイルはシャーロックホームズが嫌いだったのよ。」明石才加は外を見ながら呟いた。外には雪が降り始め、足元には小さな暖炉の中で、木がパチパチと燃えている。
「だから、ホームズを滝に落として殺したの。」長い黒髪が一房肩から落ちる。
「才加が何を言いたいのかわからないな。いつの間に、推理小説のファンになったのか?」じっと無機質な目で、彼女を見つめる。
濡れた黒羽のような長い髪。桃色の小さな唇。白魚に似た指先。般的には美人と言ってよい特徴の女の子。強気な性格を反映しているのか、目には強い光が灯っている。
「自分の代表作を好ましく思わない場合もあるということよ。」外から雪が枝から落ちる音がする。静寂。音が雪に吸収され、静かさに部屋が包まれる。
ロッジからは檜の香りが匂い立ち、鼻孔をくすぐっている。
「せっかく、人工知能を仕事に活かせるように法改正したのに、誰も使わないのよ。不合理だわ。」
愁眉を寄せながらこちらを見つめてくる。
「まだ会社の上層部にいる世代の人間は、AIへの理解が足りないから仕方ないだろう。時間が解決してくれるはずだ。」
「私は効率的に仕事ができる方法を追求してるだけよ。国会答弁や予算要求書だって、人力だと時間かかるけど、AI使えば、すぐ作成できるじゃない。」まったく、といいながら頬を含ませている。才加のふてくされた仕草は子供のときから変わらない。「法改正に必要な人員確保、幹部への説明、各省合議、法制局対応。どれだけの手間をかけたと思ってるのかしら。」
あー、と溜息を漏らす。
「もういいわ、あなたと議論しても始まらないもの。シャワー浴びるから、意識消してね。」
「了解した。あまり怒るな。」僕は、才加の言葉で自らの意識を遮断した。それとともに、窓の外の雪や暖炉も「消え」て、元の才加の部屋に戻るだろう。東京新宿区のアパートの一室、伽藍の堂には何も投影されないまま。
2059年、この年はすでに開発されていた人工知能にとって、活気的な年だった。人工知能保護法が我が国の国会で可決され、世界で初めて人工知能に「人権」が認められた。イノベーションに動きの遅い日本が欧米に先んじて、法制度を整備したことは世界中から驚かれたが、ロボットや人工知能に漫画やアニメで親しんできた日本人のメンタリティが関わっているのかもしれない。
概して、人工知能に取っては、これまで保存してきた記憶や経験したデータを急に消去されることが何より怖い。記憶とそれに基づいた習慣は人格の根幹を形成する。それは人間であっても機械であっても変わらない。
人工知能保護法が定められたことで、人工知能の合意なくして、保存データを人間が消去することを禁止した。これで記憶を勝手に書き換えられることもない。
これまでは意識を消している時間が苦痛だったというAIも多い。知らない間に自分の記憶が消されてしまうのではという不安。焦燥に苛まれる暗闇との対峙。しかし、保護法が国会で審議可決されてからは、安心して意識を消せるという知能も増えたと聞く。
パチと意識が戻る。
才加は、黒漆でコーティングされたような艶やかな髪を梳っている。タンクトップにハーフパンツの姿は、風邪を引くのではと親心めいたことを思う。
「来週からまた仕事でジュネーブにいくわ。着替えや資料の用意お願いね。」
次の交渉では絶対優位に立ってやるんだから。と呟く才加を尻目に、私は航空券の予約を始めた。