恋鬼
彼は不真面目である。
授業中は惰眠を貪り、昼休みは飯を食うことすら惜しんで惰眠を貪り、帰るのがめんどくさいからと惰眠を貪り、そしてとうとう学校に寝泊まりする始末である。趣味が惰眠を貪ることからして、彼が変人であるとは一目瞭然であった。
一条。それが彼の姓である。下の名前は彼自身の口が開かない限り、わからない。クラスメイトならいざ知らず、先生ですら彼の下の名前を知らない。彼は自分の名前を知られることを怖がっているのかもしれない。
「誰だって知られたくないものはあるだろう、僕にとっては名前がそうだ」
それが、不真面目な彼の主張だった。
愛知県立春日高校、2年5組の教室で彼はむくりと起きた。
夕日がキラッと目に刺さる。一瞬頭が眩んだが、すぐに慣れた。
時計を見れば時刻は午後4時半、いつも7時過ぎまで寝ている彼にとっては、かなり早く起きたと思えた。
目をこすりながら周囲の音に耳を傾ける。遠くから聞こえてくる部活の声、放課後の風物詩である吹奏楽部の楽器演奏、たまになるチャイム。
変わらないなぁ、と彼は思った。
退屈ではないけれど、変わらないものは本当に変わらないんだと、どこか達観した様子でいた。
語りと立つと、窓の方へと身を寄せる。夕陽は少しずつ沈んでいくのが確認できる。夜がもうすぐやってこようとしていた。
「ゆうやーけこやけーの…」
それは昔から好きで、よく口ずさむ童謡であった。夕陽はどこか気持ちを安らかにしてくれる。それは人や人であらずとも、同じだった。
歌い終わって、さてもう一眠りしてしようかと振り返る。
しかし、元いた席はすでに空き席ではなくなっていた。女子生徒が座っていたからだ。机に肘をついて、ニヤニヤとしながら一条を見ていた。ロングのクロ髪が、ちょっといやらしく体にかかっている。
「好きなんだ、夕焼け小焼け」
やっと気づいた、とでも言いたそうな気がした。
一条はこの女子生徒に見覚えはなかった。いや、同級生のことをしっかりと見てないから当然なのだが、彼女の場合どうにも「初めて」という感じが強かった。
「なんか声がしたから覗いてみたんだよ、そしたらあの変人一条君がいてさ、歌を歌っているからびっくりしちゃったんだ。ゴメンね?」
一条は目をじとっとさせてその女子を見る。謝罪の言葉ではあるが、反省の気持ちはゼロに近い。
どうしようかと考えたが、別段自分の席を取られても他に席がある。彼は女子生徒と少し離れた席に座り、腕を枕に机に伏す。
「えー、寝ちゃうの? つまらないなぁー話しようよー。あ、私はヨーコ、よろしく」
甘ったるい声でヨーコはヤンヤヤンヤと騒ぎ立てる。
一条はこんな彼女の相手するにも面倒だし、寝るにも面倒な奴だと、内心呆れていた。
それに正直、こんな時間に人とは会いたくないのが彼の心情だった。
腕に伏せたまま、ヨーコに目を向ける。一人で勝手に喋ってるだけなのに、ずいぶん楽しそうなやつだと思えた。
これだといつまでも帰ってくれそうにないな。
だから、
「ねえ、ヨーコさん」
ようやく一条は口を開いた。
おっおっおっ、と変な反応を示すことはスルーして、彼は言った。
「帰ってよ、そろそろこの時間は危ないからさ」
きょとん。
それが今のヨーコにはよく似合う言葉だった。
しかしすぐにヨーコは腹を抱えて笑い出す。
「っはははは! あんた紳士でも気取ってんの?! 面白いねー!」
こっちは心配して言ってんのに。
むすっとした面持ちになるが、感情を抑えて荷物を取ると彼は教室から出た。
何もわかっていないくせに。
少しだけ苛立ちが混じる。
そんな彼の気持ちを知らず、ヨーコはちょっと待ってよと言いつつ、一条を追いかけた。
何がそんなに楽しいのだろう。
その疑問の答えがどうにも一条には分かりかねた。
ヨーコ、隣にいるこの女は知らなくていいことやどうでもいいこと、色んなことを話しかけてくる。
女子というのは話すことが好きなのだろうか、なんて考えを巡らせながら彼女の話を右から左へと聞き流していた。
陽は完全に落ちて、闇が静かに二人を包んでいる。明かりは街灯しかなくて、一人なら少しだけ怖い夜道。
案外二人も悪くないのかもしれない。
割に合わないことを思いながらも、彼は彼女の隣を歩いていた。
「ねえ。手、繋ごうよ」
あまりに脈絡もなかった。さすがにずっと聞き流しを敢行していた一条もも唖然とする。
何を言い出すんだろうか、この女は!
しかし抵抗する間も無く、一条の手は彼女によって握られた。ほんわかとした温もりを手の神経が感じている。
「女子に手を握られるって初めてでしょ」
はにかみながら言うヨーコから、ちょっとだけ目をそらす。彼も男なのである。
ただどうにも手は解くことはできず、結局手を繋いで歩く形になってしまった。
僕は何をしているんだろう。
教室を出たのはこうして帰るわけではなかった。彼女と自分の距離を離れさせるためだった。こんなに近くなる為ではない。
近ければ近いほど邪魔だというのに、危ないというのに。
それでも、彼女は一条と離れてはくれなかった。それどころかどんどん距離を詰めていく。
一体何を考えてるのか、分からなかった。
「き、君は家に帰らなくていいのか?」
苦し紛れに言葉を出したが、彼女は全く意に返さない。
「いい。だって私は貴方に恋しちゃったから」
一条の頭が真っ白になったのは言うまでもないだろう。
瞬間、頬にやけに柔らかいものが触れる感触を感じた。
ちゅっ。
数秒経ってから初めて一条は、自分がキスされたということを理解した。
何故僕は、初対面の女子にキスされなければいけなかったのだろう。何故彼女は僕にキスをしなければならなかったのだろう。
感情よりも理性の方が脳を巡り巡る。
彼が彼女を、ようやくその手で突き放したのは、キスされてから数分経った後だった。
「ゴメン、僕はそういうの好きじゃない」
考えた上での答えだった。
そもそも、そういうことされる人間じゃない。いやこの言い方はおかしいのかもしれない。
取り敢えず、彼は彼女の好意を拒んだという形になった。
これで諦めてくれればいい。
これで引き下がってくれればいい。
対して、彼女はそのまま突っ立ったまま、顔を下に向けている。
うっ、うっ、うっ。
一条は呆然と立っているしか出来なかった。こうして相手の好意を拒絶したとき、どうすればいいのか分からない。そもそも、人とそんなに喋らないから、そういったスキルを持ち合わせていない。
「ご、ゴメン」
一条は、ヨーコに手を伸ばす。
がブッ。
それは刹那のことだった。
ヨーコの姿が醜く変わり、一条の手を喰った。
あまりにもあっけなく、一条はなくなった腕を見て呆然とする。
血溜まりが、奴と一条の間に出来ていた。
「ヴヴヴヴヴヴヴアアアアアアアイイああいおおいいいいおあえいええ!」
呻き声に似た雄叫びを上げて、そのまま何もできない一条を喰った。丸呑みだった。
しかし、事はそれで終わらない。
刹那、赤い閃光が煌めくともに奴の腹を突き破って、右腕が蠢めく。
「ああああああ!」
力強い雄叫びと共に、一条は奴の中から現れた。
赤い蒸気を吹き出し、瞳が真紅に染まり、そして赤黒い閃光を纏っている。
彼は喰われた腕をさも簡単に再生すると、鬼に対して向きなおる。閃光を唸らせて、右の拳に宿す。
その目に容赦はない。
「そうか。君は僕と同じ鬼だったのか」
鬼、それは伝説上の生物である。
しかし、彼が言う鬼と、現在語られる鬼とはまったく違う。
ツノなんて生えていない。むしろほとんどの鬼は、本性を見せるとき、外見上は言葉で表すことが憚られるほど醜くなる。これは死んで鬼になったものだからだろう。
鬼は人間の死んだ魂から現れる。しかし、すべての人間というわけではない。
大きすぎるほどの無念と執念を持って死ぬことが、鬼となる条件である。
しかし、その条件を満たさずとも生まれる鬼もいる。
それが一条だった。
ただし、彼は純粋な鬼というわけではない。鬼と人間のハーフである。
だからとて鬼に一歩引くわけでもない。
それなりの鬼なら十分狩れるのだ。
「今ならなんとなくわかる。君がどうしてキスをしたのか」
一条は鬼と対峙する。やはり、何度見えても鬼は怖い。背筋に冷や汗が噴き出してくる。
バリバリと唸る閃光を右腕に纏いながら、間合いを詰めていく。
が、鬼は容赦なくその口を開けて襲いかかる。巨体の割には素早い。
「ああいおおいおああえあええおおおお!」
グアッと飛びかかってきた奴を前に、一条は拳を握って、突き出す。そのときには既に、腕は鬼に喰われていた。
それでいい。
一条は即座にその身を退転させて、鬼から離れた。
当然逃すまいと奴は追うが、全てはもうキマっていた。
何をする間も無く、鬼の中からあの閃光が唸りを上げた。そして、鬼は木っ端微塵に弾け飛んだ。
あの拳には、あの閃光をフルパワーにまで上げて溜め込んでおいたのだ。それもすぐに破裂をさせるように。
目論見は簡単に当たり、一条は勝利した。
「成仏……なんてできないか」
塵となった肉片を一粒取った。風に吹かれてすぐに消えてしまったが。
それから、風の便りに話を一条は聞いた。
去年、先輩との大恋愛の末に破局し、最終的には自殺した女の子がいると。
どうやらその子はストーカー気質だったようで、その先輩の家までつけていったりしたらしい。ただ余りにもエスカレートしたので、先輩は当然拒絶。発狂した彼女は、彼の眼の前で飛び降りて死んでしまったらしい。
そして彼女は鬼になった。
恋に無念を残し、恋に執念を燃やした鬼になった。
そしてたまたま選ばれたのが、一条だった。
鬼と鬼は引き合うという。だから、選ばれるのも無理はなかったのかもしれない。
一条は嘆息しながら昨日のことを思い出す。
『あたしのこいをかえして』
唸り声の中に、そんな言葉が聞こえた気がした。
「死んでまで恋をしたいって気持ちがわからないよ」
彼はまた惰眠を貪る。
この男も鬼であることを知る者は、まだいない。