九話
すっかり話し込んでしまったので、家についたころには夕方になっていた。太陽が燃えるように真っ赤な煌めきをを放っている。沈みかけた夕日は地面に俺の身長を遥かに超える長い影を作り出し、世界を赤と黒で染め上げている。
「あ、やっと帰ってきてくれた。でも、遅いよ~」
玄関から中に入ると、俺の帰りを待ちかねたかのように小走りに走ってきたのは、溜色の軽く癖のある髪をツインテールにしている少女クロノスだった。顔には焦りの表情を浮かべ、何か急いでいるようにその場で足踏みをしている。
「……何かあったの?」
「今、ちょっと大変なんです。とにかく早くついて来てくれませんか」
そう言って俺の右腕を掴んだのは、中紅花色のロングヘアを真っ直ぐに伸ばしている少女アイテールだった。その顔には不安やおびえのような表情が浮かび、クロノスと同じく何か急いでいるようだ。空いていた左腕もクロノスに掴まれ、何かわからないがとても急いでいる二人に引きずられるようにどこかに連れて行かれた。
全速力で走る二人に引きずられている間は、後ろ向きのまま引きずられているので歩くことができず、前方を見る事すらできない。二人の走るスピードが速すぎて、腕だけ引っ張られている俺の足は宙に浮いていた。どうにかしたくても、すさまじい勢いで周りの景色が通り過ぎていくのをただただ眺めていることしかできなかった。
ようやく二人が止まったころには、まるで何かの絶叫マシンに乗った後かのような強烈な吐き気とめまいに襲われていた。ふらつきながらも周りを見渡すと、どうやらここは食堂らしい。でもどうしてこんなところに連れて来られたのだろうか。
「うぅ……。な、何なの?」
未だ強い力で左腕を握りしめているクロノスの方を向いてそう言うと、なぜか怒っているような声で答えられた。
「何なの、じゃないよ~。……あれをどうにかして」
二人が指さしたのは調理場の方だった。目を細めて奥を覗くと誰か人がいる。どうやらエレミアが何かをしているようだ。こっちにはまだ気づいていないようで、何やら手元を動かしている。
……とりあえず彼女に声をかければいいのだろうか。そう思い大きく息を吸い込んだ瞬間、何の匂いかは分からないが、刺激臭が鼻を突いた。
「うっ……」
なんと表現すればいいのか。明らかに食べていいものではない、身体に有害と直感で分かる異臭が調理場の、エレミアのいる方から漂ってきていた。思わず後ろに振り返ると二人は鼻をつまみながら、俺を追い払うように手を振っている。
……なるほど、あれを何とかしろという事か。匂いの発生源になど、できれば俺も行きたくはないのだが、二人の何とも言えない表情を見て、もはや行くしかないと覚悟を決め歩き出した。
見た目には透明で何も変わらないが、歩いて行くほどに濃くなっていく瘴気。吸うだけで何か身体がおかしくなっていくような、触れるだけで肌がピリピリするような、目を開けているだけでも辛い毒ガスの中を、できるだけ呼吸を止めて目を細めながら歩いて行った。
どのくらい時間が経ったのか、わずか十メートルもないはずの距離を苦しみながらようやくエレミアのものにたどり着いた。彼女は虚ろな目で目の前の鍋を見つめており、隣まで来た俺にさえ気が付いていないようだった。
……どうやら瘴気はこの、何がはいっているのかわからないがぐつぐつと煮立っている鍋から発生しているらしい。中に何が入っているのかを見ようとしても、鍋から立ち昇る湯気が突き刺さるような刺激を目に与え、それ以上は見ることができなかった。
「エ、エレミア? 何してるの?」
そこで初めて俺に気が付いたように、ゆっくりとこちらを向いたエレミア。その目線は俺を見ているようで、どこか全く違う場所を見ているようだ。彼女は確かにこっちを向いているのに全く目線が合わず、俺の遥か後ろの方を見つめているようなまなざしだった。
「……あぁ、お帰りなさい、クリス様。……今夕食を作っていますから、少しだけ待っててくださいね」
死んだ魚のような生気のない眼をして壊れた人形の様な笑みを浮かべ、目線を再び鍋へと戻す彼女。声も抑揚がなく、感情のこもっていないかすれた声だ。
……うん、今すぐどうにかしないとヤバイな。有無を言わせず彼女を抱きかかえ、二人が待っている場所へ全速力で逃げ帰った。
「大丈夫ですか?」
いきなり人を抱えて走ったからか、あるいはあの瘴気を吸いすぎたからか。あの瘴気から出た途端にエレミアを抱えたまま倒れ込み、咳き込む俺の背中をさすってくれるのはアイテールだった。
「……うん、大丈夫」
「ちょっと、パパ!あの悪臭の発生源をどうにかしてくれたの?」
俺を心配してくれているアイテールに対して、クロノスは未だ鍋の方を険しい顔で睨んでいる。
「……わかったよ、後で何とかするから。それより……」
腕の中にいるエレミアの顔色を窺って見るが、未だに焦点の合わない目をしていた。軽く揺さぶってやるとようやく目線が俺の方を向いた。能面のような無表情から次第に元の柔らかな表情へと変わっていき、そこで初めて俺に気が付いたかのようにびくりと身を震わせた。
「ひぅっ!」
身をよじって俺の腕の中から這い出ると、両腕で自分自身の身体を抱きながらじりじりと後ずさりしていった。背中がテーブルにぶつかると再びびくりと身を震わせ、周囲をキョロキョロと見まわしていたが、なぜか不思議そうな顔をして俺に尋ねてきた。
「あ、あれクリス様? ど、どうしたんですか」
「いや、それはこっちが聞きたいんだけど……」
「はい? ……あ、そうだ。確か夕食の準備をしなきゃいけなかったような……」
エレミアは頬に手を当てながら何かを思い出そうとするように眉を寄せ、考え事をしているようだ。……もしかして、さっきのことを覚えていないのだろうか。
「ああ、もう夕食はいいから。今日は休んでていいよ」
「え、でも……」
まだ状況がよく分かっていないのか、戸惑うエレミアに考える隙を与えず畳みかけるように調理場から追い出すことにした。……またあんなものを生み出されても困るし、なによりもあれを片付けるのも危険だしな、さっきのエレミアを見ている限り。
「じゃあ俺はあれを片付けてくるから」
「……あっ。……はい、わかりました」
俺が調理場を指さしてそう言うと、エレミアははっとしたような表情を浮かべうつむいてしまう。大人しくこちらに背を向け、足早に立ち去る彼女の背中にはどこか哀愁のようなものを感じた。
「……お父さん、もう少し良い言い方がなかったんですか?」
「え?」
「そうだよまったく。もう少しデリカシーと言うものが……」
「な、何が?」
二人は非難するような目で俺を見ていたが、しばらくして諦めたのか首を左右に振り大きなため息をついてから、お互いの顔を見合っていた。
「……まあ、いいや。それはそうとパパが片付けるって言ったんだから、きちんと責任は取ってね」
「今日一日お父様がいない間中、エレミアさんはやらかしまくっていましたから、それの片付けも全てお願いしますね。……頑張ってください」
そう言って生暖かい目で俺を見てから歩き去っていく二人。二人の顔には俺に対する憐れみと少しの微笑みがあったのは見間違いではないだろう。
「もしかして、これだけじゃないのか……」
頭が痛くなってきたのは、果たしてさっきの瘴気を吸いこんだからだろうか。いずれにせよ、重い足取りのまま再び見えない瘴気の中に突き進む以外に今の俺にできることはなかった。




