五話
ヴィクトルとファビオの言い争いを招いてしまったからからか、あるいはただ単に二人の剣幕に押されていたからか、今まで黙っていたクロエが再び口を開いた。
「……アリシア様は今代の皇帝を知るためにパントレアンに行く、と言いましたがなぜアリシア様自身がそこまでして直接自分の目で見る必要があるのですか?そこだけがどうしても理解できません。……確かに彼の者は希代の傑物だとか、あるいは不世出の天才だとか、はたまた血も涙もない暴君だとか。いろいろ噂としては聞いていますが……」
「まあ、いろいろ理由はあるんだが……、一番の理由は勘、だな」
少し悩んだあと、あっけらかんとそう言ってのけたアリシア。一瞬、何を言われたのか理解できずクロエはいぶかしげな表情を浮かべた。
「勘?」
「ああ、勘だ。何となくだが、彼の者は私の前に大きく立ちはだかる……。特に根拠は何もないが、なぜかそんな予感がするんだ」
アリシアの言葉をようやく呑み込めたのか、呆れたように大きなため息をついて見せるクロエ。そんな彼女の態度にも、アリシアはどこ吹く風といった雰囲気だった。
「はぁ……。そもそも皇帝が最前線にいるかどうかすら分からないでしょう。いえ、いないはずです。普通、戦いにおいて総大将とは後方でどっしりと構えているものであり、前線に出るのは配下の仕事です。総大将が前線に出なければならないのは、そうしなければもはや残る道は敗北しか残されていないというような危機的状況で、一か八かの賭けをするときだけであり、そう言う状況になってしまった時点で半分敗北しているようなものなんですよ。……帝国の皇帝もきっと帝都ゲンベルクから動かず、配下を総大将にするはずです」
「そうか?私はそうは思わないがな。……少なくとも伝え聞く皇帝の噂が本当ならばな」
そう言ってどこか遠い目をするアリシア。細められた目は一体何を見ているのか。王ではない俺には、窺い知ることができなかった。
「……確かに今代の皇帝は刃向った貴族たちを自ら軍の先頭に立ち攻め滅ぼした、などという噂は聞いたことがありますが……。所詮それらは噂に過ぎないではありませんか。もし仮に本当だったとしても、皇帝自らがそうしなければならないほどに追い込まれた状況だったのかもしれませんし。本当に優秀なのかどうかさえよくわからないし……」
「だからこそ、直接見に行くのだろう」
アリシアが至極当たり前のことだという態度そう言うと、クロエは一瞬言葉を詰まらせる。
「……でも仮に皇帝が最前線にいたとしても、距離的に乱戦にでもならない限りいくら軍同士が近づいても話すことなどできません。開戦前に話す機会があるかどうかもわからないし……。……まさか一騎打ちでもするつもりですか!」
「いくら私でもそこまではするつもりはないよ。……だが、人の集団とは統率者の人物を如実に表す。率いられた軍を見れば率いるものがどういう人柄なのかも大体わかるだろう」
……そうなのか? ……そうなのかもしれないな。
統率者が末端にまで命令を行き渡らせることができれば、統率者が集団に対してどういうことを求めているのか、つまり統率者が集団に必要だと考えている事が理解できる。例えば、静かな集団だったら隠密性、速い集団だったら速度、動きのそろった集団なら規律といったように。
もちろん統率者によってそれらの複数を集団に求める者もいるだろうし、それを実現できるだけの統率力を持っている指導者もいるだろう。だが逆にもしその集団の統率者が集団の統率すらできない無能であったならば無法の集団が出来上がる。
「で、ですが、戦場では何が起きるか分からないのですよ!皇帝が噂通りの傑物ならなおさらです。もしアリシア様の御身に何かあったら私は一体どうすれば……」
「親衛隊はそういう非常事態に私を守るため、普段から厳しく辛い訓練をしてくれているのだろう? 私はクロエたちを信頼しているよ」
アリシアはかすかに微笑みを浮かべながらそう言った。傍から見ていても恥ずかしくなるような歯が浮くセリフを、こうまで真剣にでも自然に言うことができるのは、男の俺から見ても恰好良かった。
「そ、そう言う問題ではありません!…………………………はぁ、分かりました。その代わり戦場では絶対に勝手なことはしないでくださいね!」
アリシアの言葉を聞いて顔を赤くして固まっていたクロエは、そう言うと背を向けてしまった。誰もいない壁の方を向いている彼女がどんな顔をしているのかは誰にもわからないが、後ろからでも見える彼女の耳はまだ赤く染まっていた。
……でもこれ結局、俺がここにいる意味あるんだろうか。
「……それで、結局陛下がパントレアンまで行くことになったんですか? それなら軍をもっと増やしたほうがいいかもしれませんな。……今のままでも負ける気など欠片もありませんが、念のために」
話し合いが終わったのかと思ったら、再び声をあげる者がいた。今まで黙って無精ひげが生えている顎を撫でなでていたヴィクトルだった。もちろん一緒にいて、同じく黙って髪の薄い頭を掻いていたファビオも加わってくる。
「……そうだな、万が一は有っては困るのだ。今のところの予定は八軍団、八千人だったか?アリシア様がパントレアンに向かうのならもう二軍団、二千人ほど連れて行くべきだろう」
「パントレアンに一万も集めるのか? 我が国の戦力の八割以上じゃないか。……いくら帝国が大軍で攻めてくるとはいえ、集中させすぎではないのか」
アリシアが渋い顔をし消極的な反対をするも、元帥も宰相も聞く耳を持たないようだった。二人とも同じようなむっつりとした顔で、毅然とした態度をとっている。
「パントレアンなど所詮は軍が駐屯しているだけのただの前線都市です。守るべき民衆が住んでいるわけでもありません。防衛できるに越したことはありませんが、どのような犠牲を払っても守るべき場所でもありません。……ですが」
「……アリシア様が行くとなれば話は別、です。万が一があった時に最低限、アリシア様を逃がすということだけは、どんなことがあっても成し遂げなければならないのです。そのために兵は少なすぎるという事はありません」
元帥が言いかけた言葉をそのまま引き継ぐように話を続ける宰相。息がぴったり合っているこの二人、本当は仲がいいのかもしれないな。……喧嘩するほど仲がいいともいうし。
「つまりお前たちは私がパントレアンに行かないほうがいいと言っているのか」
「そう言いたいのはやまやまですが、どうせ言っても聞かないでしょう。ですから最低限もう二千人は連れて行ってください。それが譲歩できる最大限です」
ファビオの言葉に考え込むアリシア。ファビオの隣ではヴィクトルが我が意を得たりとばかりに腕を組んで深く頷いている。
「……だが、今の八千でもかなり無理をしているんだぞ。国内の全戦力十二軍団の内、八軍団を動員しているのだから」
「……だから軍備をもっと整えろ、武官を増やせ、金を使えって言ったじゃねえか」
「なんだと? 儂に文句でもあるのか」
ヴィクトルの囁くような呟きにすぐさまファビオが反応した。ファビオはかんしゃくを起こしたようにヴィクトルに詰め寄る。ヴィクトルはうんざりしたような顔をするが、無視をする気もないらしい。再び顔を突き合わせ、いがみ合う二人。……やっぱり本当に仲が悪いのかもしれない。
「だからこんな時に喧嘩はやめろと言っているだろう。……でもどうするんだ? 残りの軍はブレジアス共和国との国境付近の都市ジュリグと、ルズベリー教国との国境付近の都市ブルトワに一軍団づつ。この王都ディアリスに二軍団だが……」
「王都の二軍団は何かあった時の保険として動かせません。ならばジュリグとブルトワの二軍団を使うしかありませんな。共和国と教国とも同盟を結んでますし、国家の存亡にかかわる緊急時と重々知っているでしょうから、攻めてくることなどはないとは思いますが……」
「もし王国が滅びることになれば次は自分たちの番だろうからな。共和国だけ、教国だけで、王国を飲み込んで巨大化した帝国を相手にできるとは思えない。そのくらいは彼らも分かっているだろう」
ヴィクトルの言葉に頷き、同意するアリシア。だがその顔色は冴えない。そんな彼女を見て、ファビオはさらに慎重な意見を述べる。
「共和国は我ら王国と同じく帝国と国境を接しており、直接攻められる可能性があります。共和国にとって、わざわざ火事場泥棒のようなことをして少しでも王国の領土をかすめ取ろうとするよりは、我々に帝国への盾であり続けてほしいと思っていることでしょう。……もし仮に万が一が起こるとすれば帝国と領土を接しない教国です。昔から全くと言っていいほど他国に興味がなく、国としての拡大志向もありませんが、先日のエルフの件が知れていたとしたら……。多少心象は悪くなっているかもしれません。もちろん同盟を結んでいる以上短慮なことはしないでしょうが……」
……確かルズベリー教国はエルフを迫害していたんだったか。そのエルフたちをアリシアが保護したと知れたならば……。
「“絶対”に攻めてこないとは言えないわけか……」
「……まあ、仮に万が一攻めてきたとしても、その二都市は国境沿いの都市としてパントレアンとまでは行かないまでも十分備えはしてあります。もし何かあったら、あとは都市の警備兵たちに何とかしてもらうしかないでしょう。住民たちが都市にこもって籠城してくれれば、王都にいる二軍団を向かわせる時間を稼ぐのには十分間に合うはずです」
「……そうか」
そのような状況になっても何とかなるだろうというヴィクトルの楽観的な意見――それでも十分すぎるほどに慎重なのだが――に、アリシアは最後まで首を縦に振ることはなかった。




