プロローグ
秋も深まり、澄んだ夜空ははっきりとした月を映している。湿気が少なく涼しい空気によって月がぼやけたりすることもなく、冴え冴えとした月光が雲一つない夜空を明るく照らしていた。その冴え冴えとした月光は幾万もの家屋を照らしていたが、もちろん誰に対しても平等である。月にとっては人種や民族や国家、あるいは種族さえも関係なく、地上に生きる者たち全てに影響を与えながら、自らは地上に生きるもの全てから全く影響を受けることもなく超然としていた。
レンブランク帝国の首都ゲンベルクにそびえたつ城の一室にも、そんな月光は等しく降り注いでいた。その執務室は本棚や書類などはそれなりに多く存在しているものの、無駄なものや装飾品などは――例えば、部屋の主の肖像画や観賞用の植物、あるいは客が座るソファやテーブルさえも――ほとんどない部屋だった。広さの割に質素なその部屋はあまり物がなく、その上壁紙や絨毯にこだわっているようにも見えず、がらんとした印象を与える。部屋の隅々まで几帳面に整理されチリひとつもなく、実用的でない観賞品なども一切置いていない。無機質で非常に息が詰まる印象を与えるその部屋は、その部屋の主の性格をよく表していた。
その部屋の中では一人の男が、部屋にぽつんと存在する机に向かって筆を執っていた。茶色く、ライオンのたてがみのようにくせのある波打った髪をオールバックにしたその男は、それほど大きい体躯を有しているというわけではないが、どこか人を寄せ付けないような、あるいは他者に対して威圧感を与える雰囲気を放っている。一見若く見えるが、どこまでも落ち着き払った雰囲気はまるで数多の修羅場を潜った歴戦の戦士のように老成しており、見た目だけでは年齢がよくわからない。
一切の感情を表していないように見えるその顔は髭もなく目鼻立ちも整っており、いかめしいというよりは美しいという印象を他人に与える。決して醜くはなく、それどころかむしろかなりの美形ではあった。顔のパーツの一つ一つまできっちりとしすぎていて非常に美しく引き締まった印象を受けるが、完全であるがゆえにどこか愛嬌というか付け入る隙というものがない。仮に少しでも顔を緩め、笑顔でも浮かべれば他人に優しい印象を与えるし、周りにいくらでも人が集まってきそうだが、彼の放つ威圧感がすべてを拒絶したような張りつめた空気を作り出していた。
この男こそ帝国の国民に白零帝と呼ばれ、畏怖と憧憬を以て見上げられている、現レンブランク帝国皇帝、クラウス・ヴィンデルバント・レンブランクであった。
クラウスが手元の書類に文字を書く音だけが、その部屋のしんとした静寂の中に延々と響いていたが、突如コンコンというノックの音が鳴り響いた。
「……入れ」
手元から目を逸らすこともなく男がそう言うと、一人の壮年の男が部屋の中に入ってきた。
その男は見るからに大きな巨体を有し、子供なら見るだけで泣き出しそうなほどの厳つい顔つき。漆黒の髪の毛は短く刈り込まれており、胸板は着ている服をはちきらんばかりに厚く、腕や太ももなどは丸太のようだった。一目見ただけで、明らかに普通の人ではなく何か特殊な仕事や訓練をしているのだろうと分かるその体格。だが、目だけはくりくりしていて愛嬌があり、その上顔には抑えきれない笑みが浮かんでいて、その厳つい顔とのギャップが逆に恐怖感を与えるような結果となっていた。
身長がそれほど高くもなく、体つきはがっしりとしているが服の上からではあまり筋肉が目立たないので、黙っていれば優男に見えるクラウスとは全く違い、二人は見た目からして正反対といえるだろう。だが、明らかに他人に恐怖を与えそうなほど体つきのいい男は笑みを隠し切れない様子であり、黙っていれば優男に見えるクラウスは未だ何の感情も顔に浮かべていない。表情のみが入れ替わっているのではないかとも思えるアンバランスな状況も、二人しかいないその部屋の中ではその事を指摘する他者はいないのだった。
巨漢の名前はゲオルク・ミューラー。元々この男は身分が低く、貧しい農民の生まれであったが、皇帝クラウスにその才能を見込まれ、今では帝国のナンバーツー、皇帝の右腕とも呼ばれるほどの地位についている。
レトナーク王国に比べ、よりはっきりとしたヒエラルキーとそれに伴う区別・差別意識を根強く持っている帝国において、農民出身のこの男が世襲である皇帝を除けば最も高い地位にまで出世するということはまずありえないことであった。もちろんゲオルクが並々ならぬ才覚を持っているのは確かであり、それを磨くために不断の努力、並大抵ではない尽力をしてきたのも確かである。だがその一方で、以前より続いている凝り固まった身分階層制度・固定観念にとらわれず、柔軟な思考を持っているクラウスという男の下でなければこれほどの立身出世を行うことができなかったのも確かである。
今までの皇帝たちとは違い、身分にこだわらずに人を才覚のみで見るクラウス。その考え方は帝国に良くも悪くも様々な変化をもたらした。ゲオルグに代表されるような、低い身分から自らの才覚だけで大出世するものもいれば、今まで自らの血筋を誇り、その上に胡坐をかいていた貴族たちがその地位から蹴落とされることも珍しい光景ではなくなっていったのである。
クラウス以前の帝国では皇帝が貴族に領地の統治を任せる代わりに、貴族に忠誠を誓わせるという国家体制を執っていた。だが、このような国家体制では領地を治めている貴族の力が大きく、皇帝の権力はそこまで大きいものではなかった。特に大きな領土や肥沃な領土を治める大貴族ともなると、一つの家で皇帝家に匹敵する……とまでは言わなくても、勝るとも劣らないような権力を持っている貴族も存在した。
……もっともこれは、三百年前の皇帝が帝国からの独立を宣言したヨシュア・レトナークとその臣下たちに負け、さらには本国で部下に暗殺されるという皇帝家の汚点とも呼ぶべき事件もかなり影響してはいるのだが。とにかく、それ以後皇帝の権力は低下し、貴族たちが大きな力を持つようになっていた。もっとも、その影響で国内が一つにまとまることはほぼなく、ひたすら帝国内部で足の引っ張り合いを繰り広げることとなり、これまでレトナーク王国や他の国に対してもあまり積極的な軍事行動をとることができなかったのだが。
そんな中、皇帝の地位についたクラウスは帝国の各地を治める貴族たちが大きな力を持っていた封建的・分権的であった帝国を、自らが強大な権力を握り、帝国内のあらゆることに対して自由に命令することのできる中央集権的・絶対君主的な国家として生まれ変わらせようとしたのだった。
もちろん今まで散々甘い汁を吸ってきた貴族たちからは大きな反発を受けたが、クラウスはあらゆる手段を用いて自らの道を阻むものを取り除いて行った。時にはたぐいまれな政治センスで綱渡りのような交渉を繰り広げ、もともと仲の悪かった貴族同士の仲をさらにこじらせてお互いを疑心暗鬼に陥らせたり。時には圧倒的な軍才と武力によって四面楚歌の状況からわずかな兵を率いて大軍を蹴散らしたり。時には自ら育て上げた暗殺者に命じて邪魔者を闇に葬ったり、あるいは無理やり罪をでっち上げて自らに逆らう者を公に処刑を行ったりもした。
そんなクラウスを人々は「白零帝」と呼び恐れおののいたが、彼は決して自らに逆らうものを皆殺しにしたわけではない。例え反発した貴族であっても、能力・才覚があるものは刃向った罪を許して登用し、今までよりも高い地位につくこともあった。逆に自らに従った貴族でも無能なものは地位を下げたり、あるいはただの平民にまで叩き落とすこともあり、まさに彼が身分や外見、あるいは国家に対する思想さえ問わず、ただ才能だけで人を見ていることがわかる。
政治に関しても独裁政治であったことは確かだが、決して自らの懐を温めるために、あるいは自らの欲を満たすために何かをしたことはなく、むしろそのへんの一般人よりもよほど禁欲的であった。住むところだけは、以前の皇帝が作った豪邸をそのまま利用しているが、その生活は質素なもので、食事にもこだわらず、酒におぼれることもなく、休みさえほとんどとることはない。……ただ、女に興味を持つことがない点については臣下からも心配されているのだが。
彼にとって権力とは自らの思い描く理想の国を作るための道具でしかなく、彼自身さえも国を動かすための道具でしかないようであった。
そんなクラウスを初め、民衆は恐れていたが、今までの貴族が大きな権力を持っていたころよりもずっと生活水準が上がり、豊かな生活ができるようになると彼を賞賛し始めた。クラウスにとっては、今まで貴族の懐に入っていた分を民衆にばらまいただけであったが、国民にとっては大きな変化だったのだ。
貴族にとって地位を脅かされることは死活問題であるが、民衆にとって貴族の粛清など雲の上の出来事であって、自らには何の関係もない。彼らは失うほどの地位もなく、ただ一日一日を必死に生きていた。彼らが政治に関心を持つのはただ、上の者がどれほどの税を自分たちに課すかということと、自分たちが戦うことになるであろう戦争が起きるかどうかの二つだけであった。
民衆は以前よりもほんの少しだけ良い生活ができるようになると、すぐにクラウスを支持し始めた。民衆にとって今まで直接的に治めてくれていたのは貴族であったが、もちろん忠誠心などは持ち合わせていない。貴族の中にはもちろん善政を敷いていた者もいたが、民衆たちにとって何が善政か何が悪政かなど分かるはずもなく、彼らが知っているのはクラウスによって以前よりも良い生活ができるようになったという事実だけであった。
帝国の政治を執っているのは皇帝と貴族であったが、その貴族を支えていたのは紛れもなく領地に住む民衆だ。今まで直接的に統治し治めてやっていた民衆から裏切られた形となった貴族たちは、表立ってクラウスに反旗を翻すことすらできなくなっていった。さらに、低い身分からでもゲオルグのように才能が有れば高い地位にまで上り詰めることができると知ると、さらにその民衆の支持は増し、一種の狂信のような熱気を帯びるようにさえなっていった。
即位から十年がたったころには、もはやクラウスに刃向うものはおらず、国民も自らの皇帝を熱狂的に支持し、強い帝国、豊かな帝国の到来を信じていた。クラウスは政治体制だけではなく帝国の中の思想さえも自らの好きなように染め上げたのである。
こうして彼が作り上げた国家体制は、奇しくも王として全く正反対の態度をとるアリシアが治めている、レトナーク王国と同じような中央集権的な国家体制となっていた。
そんなクラウスを間近で見てきたゲオルグは、クラウスに対して並々ならぬ尊敬の念を持っていたのである。
「クラウス様、侵攻の準備がほぼ整いました、およそ三日後には侵攻を開始できます。作物の収穫も終わり、民兵は五万までならすぐに動員できますし、追加で徴兵すれば多少時間はかかるでしょうがあと三万までならなんとかなりそうです」
部屋に入ってきたゲオルグは、顔を紅潮させ興奮したようにそう言った。話しかけられているのにもかかわらず未だに顔すらあげないでいるクラウス。男はそんなクラウスを尊敬というよりも崇拝といった表情を浮かべて見つめていた。
「……そんなに多くの兵は必要ない。五万をすぐに動かせれば十分だ」
そんな男の表情に気づいていないのか、あるいは気づいたうえで無視しているのか。どっちなのかはクラウスにしか分からないが、クラウスは以前として男の方を見るどころか顔を上げることもせず、せわしなく手を動かしていた。
「それから、……もちろん本命の直轄軍は既にすべての準備が完了しておりいつでも動かせます。さすがクラウス様が自ら創られた皇帝直轄軍は精鋭中の精鋭ですね。民兵たちとは練度も士気も桁違いですし、その存在すら未だ他国には掴まれていないようです」
クラウスの即位以前は、貴族がそれぞれの領地から平民を軍隊として徴収して戦わせていた。常備軍ではなく、ただの民衆であるゆえに数を大量に集めることができるが、総じて戦意は低く、弱い。平時には軍を維持する必要がないため軍事費は必要ないし、時間をかけて軍人を育てる必要もないが、死なせすぎれば国が傾く。
クラウスは即位した後、直轄軍を作り上げた。クラウスによって戦争のために育て上げられた彼らは、平時にはあまり役に立たないし、士気と練度を維持するだけでも金がかかるが、いざ戦争ともなればまさに鬼神のような強さを発揮した。クラウスの中央集権に反抗する貴族たちの軍勢を赤子の手をひねるがごとく蹴散らし、クラウスの独裁に大きく貢献した。自他ともに妥協を許さないクラウス自身が鍛えた故、まさに精鋭中の精鋭とも呼べる強さを誇り、戦意も高く、彼の命令ならば死をもいとわない忠誠心を持っている。
「……当然だな。王国の動きはどうなっている?」
クラウスはようやく下を向いていた顔を上げ、ゲオルグの顔を見ながら低く威厳のこもった声で呟くように問いかけた。静まり返った部屋に響き渡った彼の声と突き刺さるような冷たい目線には、嘘偽りなど許さないという無言の威圧が込もっている。もっとも、クラウスに心酔しているゲオルグにとって、嘘偽りなどを述べる理由など存在しない故に、特に気にすることはないのだが。
「レトナーク王国側はいつも通り、パントレアンに兵を集めているようですね。やはりいつもと同じようにパントレアンの北の平原あたりでこちらの軍勢を迎え撃つつもりでしょう」
パントレアンとは、レトナーク王国内に存在する都市であり、最も帝国との国境に近い都市であることから争いのたびにレトナーク王国側の前線都市となってきた歴史を持っている。
「共和国側は?」
「……今のところ国境付近で特に大きな動きはないようです。共和国の主力はほとんどが金で雇った傭兵やごろつきどもですから、戦争の準備には多少時間がかかるでしょう。今頃は必死になって人を金でかき集めているところでしょうね」
「予定通りだな。……それでは三日後に侵攻を開始する。五万の軍をパントレアンの手前まで侵攻させろ。本隊の総大将はお前、俺は別働隊を率いる。指揮はお前に任せるぞ。……準備を怠るなよ」
「ハッ!」
クラウスの言葉を聞くとゲオルグは深々と一礼し、足早に部屋を出て行った。再び部屋に一人になったクラウスは、ずっと座っていたイスから立ち上がり窓際まで歩いていく。そして、先ほどまでと変わらぬ無表情で、彼の瞳と同じように冷たい光を放っている月をじっと見上げていた。




