エピローグ
ほんの少し前まで、周りに何も遮るものがなかった平原の一画。今まで自然な草花しか存在しなかったその一画に、一目見て明らかに分かる人工物が現れた。一夜にして現れたその木造の塀は高さ二メートルほどもあり、何かをぐるりと丸く一周するように作られている故、その内側を見ることができない。
その平原に棲む魔物たちはいぶかしげに近寄ったりしていたが、その内側から放たれた矢の雨にあるものは恐れをなして逃げ帰り、またあるものは逃げられずハリネズミのようになって地に伏した。しかし、もちろんすべての魔物の襲来を事前に妨げられるわけでもなく、木造の塀にはところどころに魔物にぶつかられて大きな穴が出来ていたり、あるいはその大穴をつぎはぎで修理した痕がのこっていた。
のちに亜人の街ルグミーヌと呼ばれるようになるこの場所も、今はまだ村とも呼べないものであった。
アトラク=ナクアの襲来から一か月後、エルメルに率いられたエルフたちは新たな村を作っていた。村といっても、これまでの樹上の村のように隠れ住むための村ではない。現在はまだ人数がいないために村となっているが、いずれは多くの人々が集まる、エルフをはじめとした亜人たちと人間が共に生きてゆける巨大な都市となる。……少なくともエルメルやアリシアはそう考えているし、その実現に向けて努力をしていた。
もっとも、大きな都市が一夜で出来るはずもなく、現在の状況はせいぜい粗末な村といった状況だ。モンスターの襲来に備えるため、村を囲う外壁は一応そこそこの完成を見ているが、もちろん王都ディアリスの周囲を囲うあの荘厳な外壁に比べればおもちゃみたいなものだ。ましてや、まだほとんど完成していない村の内部ははっきり言って樹上の村よりも遥かにみすぼらしい。もちろん街並みなどと言うものはなく、ただ掘っ建て小屋がいくつも無秩序に置かれているだけだった。以前よりもエルフたちの生活のレベルは落ちているが、働くエルフたちの顔は今までにないほど活気に満ち溢れていた。
場所はスぺリナ川より西側の平原、つまりレトナーク王国の中ではなく、一応クリスが治めているということになっている地域の中にある。南には海があり、東にはすぐそばにスぺリナ川がある。北と西にはしばらく行くと魔の森があり、北にさらにいけばクリスの屋敷、もっと行けばラルズール山とサルグレット山脈がある。そうこの場所は、いままでたびたびレトナーク王国が入植しようとして失敗してきた場所であった。……苦しい言い訳ではあるが、都市の場所は正確にはレトナーク王国ではないとすることで、ルズベリー教国の批判を逸らすという狙いもあった。
問題は失敗しないかどうかという事だけだ。今まで失敗した原因は、まずスぺリナ川を越えた先の平原や魔の森などに生息している敵の強さ。加えてたまに来襲するドラゴンの圧倒的な力の二つであった。そのうち、まず都市を作る平原などに生息するモンスターたちは、人よりも戦闘能力が強いという亜人たちの力で撃退することができた。一対一の接近戦ではさすがに彼らも勝てないが、都市の中から彼らの得意な弓矢で集中攻撃すれば撃退するどころか倒すことすら可能だ。初めに都市の周囲を囲い、それなりの強度を持っている外壁さえ作っていれば、直接戦うことなくその外壁の上から矢の雨を降らせることができた。
ドラゴンの襲来だけはどうにもならないが、もし都市に襲来したならばクリスにすぐ知らせが行くことになっていた。もちろんアリシアの方から依頼があったという経緯もあるが、何よりもドラゴンの残す魔石を手に入れるためにも、ドラゴンに対する都市の防衛に関して彼は積極的だった。クリスがこの世界に来た初日に四匹のドラゴンに襲われたことから、彼はドラゴンは山脈から頻繁に襲来するものだと思っていたのだが、それ以後はほとんど襲来がなかった。せいぜい二週間に一回ほどあればいい方で、このままではどう考えても千一人分の動力を得ることができないのはだれの目にも明らかで、一旦保留していた山脈への進行も彼は考えていた。
とにかく、この都市の開発はもちろんエルフたちが主導して行っていたが、一か月である程度人が住める環境を創り出せたのは、アリシアやクリスたちの援助なしには不可能だったとエルフたち自身も、なによりエルメル自身が強く感じていた。
クリスはエルフたちがせわしなく歩き回っている村の中を、きょろきょろと周りの様子を眺めながらゆっくり歩いていた。彼は村の発展具合を確かめるためと言い、ちょくちょくこうやって視察のようなことをしているが、そもそも彼がそんなことをする必要はない。ただ暇だからこうやって野次馬のように村の中に入り込んでは、必死に働くエルフたちをぼんやりと遠くから眺めているのだった。
彼の後ろには同じく周囲を眺めながら歩いている数人の少女たちの姿もあるが、彼女たちはあまり楽しそうには見えず、クリスがいるからついて行っているといった状況だった。
まだそこまで広い村ではないので、すぐに村を一周してしまったクリスは、丁度他のエルフたちに何か指示をしていたエルメルを発見し、一人になったところを見計らって話しかけた。
「……ずいぶん村も様になってきたじゃないか」
「まあな」
クリスに背後から話しかけられたエルメルは、振り返ることなくそう答えた。彼の目線はただ前だけを向いている。二人の間を一陣の風が吹いた。
「……」
クリスはエルメルに話しかけたが、特に用があるわけではなかった。はっきり言って特に話す必要もないし、そもそもこの村に来る必要もない。だが、エルメルはエレミアの言葉によって今までの厭世的な生き方を捨て、新たな生き方を始めた。そんなエルメルに対して、エレミアの夫になったクリスが何となく責任を感じてしまうのは、彼が優柔不断だからかあるいは心優しいからか。……とはいっても、彼らから彼に向かって何かして欲しいと言われなければ、彼も彼らに対して何かをするつもりもないのだが。
「……はぁ」
クリスは大きくため息を吐いた。よくよく考えれば自分が関わる理由などほとんど自己満足だ、と思ったからである。
そもそも面倒を嫌ってこの一帯、魔の森以外の平原全てと海岸までエルメル――というかルグミーヌの長が統治する領土にしたのであり、はっきり言って関わる必要もない。エルメルが成功すればそれはエルメルの手柄だし、エルメルが失敗すればそれはエルメルの責任であった。もはや自分が関わることなど、逆に迷惑かもしれない。
だいたい俺はただでさえ娘たち千人などというとてつもなく重い責任を背負っているのに、いつのまにかエレミアやレベッカまで背負うことになっている。それに加えてさらにエルメルたちのことなどとても背負うことなどできない。アリシアのようにそこまで多くの物を背負うことができないのは自分が一番よく分かっているし、そもそも彼らは背負ってくれなどいってはいない。彼らは自分たちで決意し、自分たちで自らの生きていく道を決めた。……あとは彼ら自身でどうにかやっていくだろう。
「でも、エルフさんって家を建てるの上手なんですね~」
クリスと一緒に村に来た少女たちの一人、レトがのんびりと間延びした声でそう言った。
「……まだこの村には木で出来たみすぼらしい家しかないだろう。……それとも我らへの皮肉か?」
「そんなこと言ってないでしょ~? なんでも後ろ向きに考えるんじゃなくて前向きに考えなくちゃ」
ポモナがそう言うと、周りの少女たちも同意すると言わんばかりに大きく頷いた。クリスはそんな彼女たちからもエルメルからも目線を逸らし、自分は関係ないとばかりに遠くを見ている。
「……ふん。家を建てるのが得意かどうかはわからんが、今まで我らは森に囲まれ、木々と共に生きてきた。……森、すなわち木の扱いには多少の自信があるな」
「ふ~ん。……あたしは木を切り倒すことになら自信があるけどね」
ミネルヴァはなぜかエルメルに張り合って自慢げな顔をしているが、その場にいる全員がその言葉を流していた。
「……だが、この年になって見渡しても木一つないこんな平原のど真ん中に再び村を作ることになるとは……。いくら北に向かえば森があるから木々には困らないとはいえ……」
「人生に遅すぎるということはない。……って何かの本で読んだことあるよ。今からでも新しい人生を始めるのに遅すぎることはないんだよっ! ……あなたが何歳なのかはしらないけど」
エオスはそう言うとエルメルの肩をポンポンと叩いた。まるで年上の者が年下の者に話すような言動、自分を馬鹿にしているような彼女の行動に、エルメルもどう反応していいのか分からない。悪意があっての行動にしてはあまりに自然体な言動だし、彼女たちは全く変化がなく後ろめたさや後悔を感じているようすもなければそもそも何がいけなかったことなのかさえ理解している様子もない。
エルメルはクリスの方を向くが全て聞こえないふりをし、遠くを見つめていた。クリスの反応からは、やりとりを聞いていなかったからなのか、あるいはそれが彼女たちにとって普通のことなのか、エルメルには判断がつかなかった。
――自分の気にしすぎなのかもしれない。
エルメルはそう考え、それ以上そのことについて考えるのをやめた。
彼女自身に、いや彼女たち自身に他人を見下しているという意識はかけらもなかった。そもそも、彼女たちにとってまず第一に考えるべきは父親であり、創造主でもあるクリスの事だった。彼女たちにとって世界とはクリスの存在の上に成り立っているのであって、クリスのいない世界などそれはもはや存在する価値もない。仮に世界中がクリスの敵に回ったとしても、その世界を滅ぼすことに何の躊躇いもなかった。
彼女たちにとってクリスの次に考えるのは彼女たち自身のことであり、その次にようやく仲の良い人たち――アリシアやレベッカなど――がくる。すなわち、彼女たちの中で彼女たち自身より上位の存在と言うのはクリス以外にはいないし、それ以外の人間は全て自分たちより下位の存在なのであった。
もっとも彼女たちは、自分たちよりも下の存在だから他人に対して敬意を払わないわけではない。ではそもそも敬意とは何のために存在するのか。それは社会の中で上手く他者と付き合っていくためのものである。それがないということはつまり、彼女たちには他人とうまくやっていこうという思考が存在しないのだ。
彼女たちは他人にはそれぞれ他人の人格や思考があることを理解しようとさえしていない。自分たちといて自分たちに気をまわして上手くやれる人ならそばにいてもいいし、そうでないならそばにいなくてよい。それ故、他人に合わせて自分が変わっていこうとなどは、かけらも考えてはいない。
彼女たちの世界は、彼女たちとクリスのみで完成しており、他人を必要とはしていないのだ。仲がいいように見えるエレミアやレベッカさえ、彼女たちにとってはどっちかといえばいたほうがいいが、別に無理にいなくても構わない程度の存在なのだった。
まだ暑さの残る初秋の夜、月もない空には星々が煌めいている。まだ碌に発展していない村の中では、昼夜を問わず家や施設の建築が行われており、少々騒がしい。
そんな村の中でエルメルは月を見上げて酒を飲む。
「……問題はどうやって金を稼ぐか、ということか」
もっとも、エルメルは金を稼ぐ方法について心当たりがないわけではない。新しい村の周りにあらわれる魔物を狩れば、アリシアたちが買い取ってくれると言っているし、クリスによれば南の海には“香辛料”とかいう高く売れるものがいくらでもある島々が存在するらしい。少なくとも、彼にとって重要なことは金を得る手段ではなく、もっと根本的な問題だった。
「金、金な。……頭では理解できるのだがな」
人間と交わって生きていくということは、つまり人間の社会になじんでいくということだ。もちろん自らがエルフであるということを忘れてはならないが、だからといって人間の社会に近づかなければ、今までと何も変わらない。……そして、その中でも一番エルメルを悩ませているのは貨幣経済という概念だった。
今までは物々交換がすべてだった村の皆に、貨幣というものがどういったものなのかをどう説明すればいいものか。自分の財産と他人の財産をほとんど区別していなかった村の皆に、個人の財産とはいったい何なのかをどう説明すればいいものか。
おそらく今から大人のエルフたちに経済というものを完全に理解させるのは不可能ではないか。そして、それが理解できないうちは完全に人間の社会になじめたとは言えないだろう。それはつまり、それまではエルフと人間が本当の意味で共に生きていくとは言えない。
エルメルはどうすればいいのか考えを絞るがうまい方法が思いつかなかった。もちろん彼は惜しみない努力はするつもりだが、彼自身が一番人間の社会になじめていけないことも理解していた。なぜなら彼自身こそ、もっともこれまでの生活の影響を受けているエルフだったから。
「……問題は山積みだな。……あの子たちの若い力を信じるしかないか」
エルメルは目を閉じ、頭の中に子供たちの顔を思い浮かべる。毒によって苦しんでいる子供たちの顔が一瞬だけ思い浮かぶが、すぐに治療が終わった後の彼らの笑顔が思い浮かんだ。毒にも負けなかったあの子たちが大きくなるころには、きっと彼らが人間と本当の意味で共に生きることができるはずだ。……例えその時に自分がこの世に存在していなかったとしても。
だが無情にもそんな幸せな未来を脅かす戦争の音はすぐそこまで迫っていた。




