九話
「……あれは、……《リュミエール》、か?」
《リュミエール》。ゲームにおいて、聖騎士〈パラディン〉というジョブが使えるスキルの一つだ。武器に光属性の魔法効果を付け加え、攻撃した際に光属性の追加ダメージを与える。スキルが発動している際は、剣の刀身が白く輝くのが特徴で、聖騎士が覚えるスキルの中では比較的、基礎的なスキルである。
アリシアに斬られたアトラク=ナクアの顔は、大きな眼が両方ともつぶれ、傷は焼けたようにただれている。鳴き声こそあげていないが、もし声があげられたなら、断末魔のような大きな悲鳴をあげることは間違いないほどの大きな傷だ。もちろんそんな傷で戦意を失うほど優しい敵ではないが、目に見えて悶え苦しんでいる。
……だが、いくら大きな方の眼を両方とも潰したとはいえ、まだ油断はできない。アトラク=ナクアがどうかは知らないが、確かタランチュラは視力が弱い。それを補うために、頭部から生えている足のような触覚をアンテナ代わりに使うことができたはずだ。それに見えているのかどうかは分からないが、まだ大きな一対の眼のほかにも小さな複数の眼もある。
「……きゃあああああ!」
そんなことを考えているうちに、状況は動いていた。我に返り、悲鳴がした方向を向くと、アリシアが白い何かにぐるぐる巻きに包まれているところだった。その白い何かはアトラク=ナクアの口あたりから出ているようで、蜘蛛の口とアリシアをつないでいる。よく見ると細い糸のようなものが無数に集まったもののようだ。
「……蜘蛛の糸、か」
アトラク=ナクアは少しづつその蜘蛛の糸を自分の方へ手繰り寄せている。それに対して、アリシアも必死に抵抗しているようだが、その身体は肩から足首の方まで糸で巻かれていた。踏ん張り切れずにすぐにバランスを崩して倒れ込み、地面を引きずられていった。
あれは、自分では抜けられない、助けなきゃまずいな。だけど、あの粘着性が高そうな糸を素手でどうにかするのは難しそうだ。……だが、こうしてゆっくり考えている時間もない。
ふと、地面に落ちている剣が目に入った。俺が作ってアリシアにあげたオリハルコン製のロングソード。鞘から抜き放たれて抜身のまま地面に転がっているその剣は静かに輝いていた。どうやら糸にまかれた時に、アリシアが落としたようだ。
……あれなら俺でも糸を切れるかもしれない。
一瞬で距離を詰め、剣を拾う。構えてみるが、ふらふらと剣先が揺れてしまう。
重すぎて扱えないとは思わないが、何とも言えない感触。剣を作った際に既に完成品を持ったことがあるが、その時とはまた違った重さ。戦いのさなかに剣を持つというこの状況がそんな印象を抱かせているのか。……とにかく間違って自分を切らないようにしなければ。
「うわッ!」
アトラク=ナクアの方に向き直った時、何かが唸りをあげて近づいてきた。慌てて地面に伏せ、それを躱す。……頭の上を通過していくそれと目が合ったような気がした。
頭の上を通り過ぎて行ったのは間違いなくアリシアだ。……まるでフレイルや鎖鉄球のようにぶんぶんと振り回されているアリシアからは、もはや悲鳴すら聞こえない。おそらく恐怖で声が出ないのか、あるいはもうすでに気絶しているだけだろうが、安心できるような状況でもなかった。
受け止めることができるだろうか。いや、衝撃は吸収しきれないかもしれない。……俺はともかくアリシアが。
なにかほかに方法はないかと周囲の状況を眺めてみる。エルメルではあの速さについてはいけない。ピーちゃんではそんな繊細なことはできない。ならば俺かイヴかあるいは洞窟の入り口を封鎖させている娘たちしかいない。
洞窟の入り口に目を向けると、いまだ激戦が繰り広げられているようだ。暗がりの中から次々と這い出てくるモンスターを、姿があらわになった瞬間に洞窟の入り口で殺していく。モンスターたちの死体で洞窟の入り口が埋まりそうになっているが、決着にはまだ時間がかかりそうだった。
「仕方ないな。……イヴ、任せたッ!」
そう言うと、イヴの方を振り向くことなく、蜘蛛へと突っ込む。……振り回されているあの状態で、蜘蛛とアリシアとをつなぐ糸を切る、と言うのは少なくとも俺の剣の力量じゃ不可能だ。幸いアリシアを振り回しているというその攻撃の特性上、相手の懐に入る至近距離ならば攻撃が当たることは少ない。
至近距離から攻撃されれば、相手は不利を悟ってさっきと同じく体当たり中心の攻撃に切り替え、アリシアを手放すかもしれない。もしそうならなくてもダメージを負って動きが鈍れば、それだけ助けやすくなる。問題があるとすれば、それは蜘蛛に対する俺の嫌悪感との戦いが発生してしまうということだけだろう。
無数の矢が後ろから俺を追い越していく。威力を犠牲にし、すさまじい速度で放たれた無数の矢。決してアリシアにあたらないように、だが蜘蛛が一瞬怯むくらいには危険を感じさせるように。イヴが援護射撃をしてくれている間に、俺は蜘蛛の懐へと入りこんだ。
目の前には巨大な蜘蛛の顔。アリシアに切られた傷跡からは体液が流れ出し、吐き気を催すほど醜悪な姿はより一層醜さを増していた。一つだけ好意的な点をあげるとすれば、その大きさゆえどこを蹴っても敵にあたるというところか。
ズドンという重い音が三重に鳴り響く。一瞬のうちに蜘蛛の顔面に叩き込まれた三発の蹴り。先ほどまでの足で突き込むように蹴るシャッセではなく、足の甲で蹴る回し蹴りフェッテ。上段回し蹴りフェッテ・フィギュール、中段回し蹴りフェッテ・メディアン、下段回し蹴りフェッテ・バ。唸りをあげた右足は斜め上・真横・斜め下の三方向からほぼ同時に、蜘蛛の顔面に向かって上段中段下段の順に叩き込まれた。
「やべっ」
蜘蛛の顔がはじかれたように後ろへと跳ね上がり、それと同時に口から飛び出していた糸も引っ張られる。もちろんその糸の先にいるアリシアも空中高くに放り出されたように飛び上がった。……このままではアリシアが上空から地面に叩きつけられることは避けられない。
どこに落ちる。落下地点が予測できない。焦りだけが増していく俺の視界の中を、細く黒い影が通り過ぎて行った。……その黒い影――イヴの放った矢は、アリシアと蜘蛛をつなぐ糸に吸い込まれていく。
いくらイヴの腕でも、糸が何百本も集まって太くなったあの糸を全て一撃で切り裂くことは不可能なはず。そう思った俺の予想を裏切るように矢は一本で全ての糸を断ち切り、空のかなたへと消えていった。断たれた糸の断面は赤く発光している。
「って、やっぱり受け止めなきゃだめじゃないかッ!」
糸が切れ、本当の意味で空中に放り出されたアリシア。もはや何も遮るもののなくなった彼女は、はるか遠くの方へと放物線を描き飛んで行く。俺は落下予測地点へと走るが、あまりにも遠い。
……間に合わない。
そう思った俺の周囲が、一瞬だけ暗くなった。目の前を大きな影が通り過ぎて行く。大きな影の持ち主――ピーちゃんは俺を後ろから追い抜き、アリシアを優しく背中で受け止めた。低空から上空へと舞い上がり、上空で羽ばたきながらこちらに向かって軽く鳴き声を上げる。
「クルゥッ♪」
どうやらあっちは大丈夫そうだな。ならばあとは、あの蜘蛛を倒すだけだ。
一瞬で近づき、足の一本を蹴り、すぐに離れる。集団戦で無理をする必要はない。安全を第一に、じわじわと蜘蛛をなぶり殺しにする。誰かが狙われたら別の誰かが攻撃を加え、ひたすら敵の狙いを絞らせないように。時間が経てば経つほど戦いの状況は俺たちにとって有利になっていた。
アトラク=ナクアの八本の足は、もはや動くものが半分以下になっていた。モンスターの動き自体も、最初に比べてはるかに遅くなっており、油断さえしなければもはや勝利は揺るぎないように見える。……だが、ここで油断してはいけない。戦いとは何が起こるかわからないものだ。一気に決着をつけに行くのではなく、今まで通りにじわじわとダメージを与えてゆけばよい。
蜘蛛から距離をとり、ステップしながらそんなことを考えていると、俺の横を何かが通り過ぎる。それは俺よりもだいぶ遅い速度で蜘蛛へと向かっていった。
……無理はするべきでないと思ったそばからエルメルが蜘蛛へと突っ込んでいった。うち捨てられている弓からみて、もう矢がなくなったのだろうが、少々無謀だ。手に持った二本の短剣で俺のようにヒットアンドアウェイを行うつもりだろうが、いくら敵が弱って素早く動けなくなっているとはいえ、エルメルよりは格上の相手。一対一ならやはり相手に軍配があがるだろう。
エルメルからだいぶ遅れて動き始めるが、直接攻撃できるほどの距離まで蜘蛛のすぐそばにはほぼ同時に到着する。だが、蜘蛛は俺たちが近くに酔った途端、どこにそんな力が残っていたのかと思うほど素早い動きでエルメルに襲い掛かった。いままでずっと耐えに耐え、ひたすら攻撃の機会を狙っていたアトラク=ナクアは、過たずエルメルに必殺の毒の牙で噛みついた。
「ぐあああッ!」
かろうじて急所だけは躱し、即死は免れたエルメル。だが、無情にも噛まれた腕から毒が全身へと回っていく。
苦しげに地面をのたうち回るエルメルに、俺が今できることはない。とにかく速くアトラク=ナクアを倒し、手当てをしなければ命にかかわる。
攻撃を終え、全てのエネルギーを使い果たしたとばかりのアトラク=ナクアに向かって、とどめをさす。先ほどと同じような三連撃。しかし今度は足の甲で蹴るフェッテではなく、足で突き込むシャッセ。下段横蹴りシャッセ・バ、中段横蹴りシャッセ・メディアン、上段横蹴りシャッセ・フィギュール。
先ほどよりもさらに速く、槍のように突き込まれた三段付きはアトラク=ナクアの顔面に、ほぼ同時に三つの穴を空けた。何となくわかってきた命を奪う感触とともに、巨体はゆっくりと地に伏した。




