八話
樹上の村から、村中の男たちによって放たれた矢が雨あられのように降りそそいでいる。距離が遠すぎて効いていないのか、あるいは単純に効いていないだけか。アトラク=ナクアは全く気にせず、ゆっくりと八本の足を動かして大樹の周りを歩いていた。身体に矢が刺さりハリネズミのようになることもなく、矢は水のようにただアトラク=ナクアの身体の表面を流れ落ちるように、次々と地面に落ちていった。
「……効いていないみたいだな」
既に戦闘準備を整え、いつアトラク=ナクアがこちらに来ても問題ないように構えていたエルメルがポツリとそう呟く。魔物を見つめるその顔はどこまでも厳しいものだった。……あの調子ではエルメルの攻撃も効かないかもしれない。もともとあまり期待してはいなかったが。
この様子では、アリシアも戦力にならないものと考えたほうがいい。戦力になるのはイヴとピーちゃんと俺だけか。ちらりと洞窟の入り口を見るが、あっちは既に戦闘が始まっているようで、魔物の死体がいくつか転がっている。……とりあえずイヴが遠距離攻撃、フェニックスが上空から敵の注意を引く前衛、俺は攻撃も、アリシアとエルメルの守りも担当する遊撃といったところか。
「……これじゃ近づけないな。頼んでいいか」
漆黒の全身鎧を装備したイヴに向かってそう言うと、彼女はコクリと頷く。そのまま弓を構え、樹上からの攻撃とは比較にならない一撃を放った。
一直線に飛んでいった矢はアトラク=ナクアの楕円形の腹部に突き刺さる。突き刺さった場所からはわずかに体液のようなものが飛び散った。アトラク=ナクアはそこで初めてこちらの存在に気が付いたかのようにこちらに向きなおった。
「……ッ」
正面から見るアトラク=ナクアの顔はあまりに醜悪としか言いようがない。真っ赤な一対の大きな目とその下の複数の小さい目。地面に着きそうなほど長く鋭い牙。腹部から生えている左右四対の足。顔からも足が生えているように見えるが、あれは多分触覚だろう。顔の後ろから見える腹部も、八本の足もびっしりと白い毛に包まれ、なによりも俺の背を遥かに超える三メートルほどの体高がこちらに生理的嫌悪感を催させる。
……こいつと戦う際に警戒しなければならないのは、毒だろう。こいつは毒の攻撃をしてきたはずだが、一体どこに毒を持っていたのだったか。あの大きな牙に毒を持っているのはおそらく間違いないだろうが、あのびっしりと生えた毛にも毒があったような気もする。……あの毛に毒があるのは本物のタランチュラだっただろうか。
……とにかくこいつを素手では触りたくない。できるだけ近くにも寄りたくはない。だったら靴を履いた足で遠くの間合いから蹴り殺すしかないだろう。ちょうど、遠くから間合いの長いキック中心の攻撃を繰り出す武術がある。
サバット。フランスで生まれたその武術は、キックボクシングに似ているが蹴り技中心の格闘技である。本来は専用の靴を履いて戦うその武術は、つま先を使ったリーチの長い蹴り技が多い。ボクシングがグローブを武器としたように、サバットでは靴を武器として用いる。
キックボクシングやムエタイでは蹴りは基本的に脛を当てるものだが、サバットでは基本的に靴のつま先で突き込むように蹴る。そのため、サバットのキックはキックボクシングやムエタイの蹴りよりも遠くに届き、より遠距離から攻撃することができるのだ。
できるだけあいつの近くに寄らずに蹴りで遠くから攻撃したい、まさに今の俺におあつらえ向きの武術であった。
「来たぞッ!」
アリシアの大声で、考え事から我に返る。アトラク=ナクアを見ると、こちらに向かってまっすぐに突っ込んできた。それなりには速いが、躱せないほどの速度ではない。……そこまで考え、ふと頭に疑問が浮かぶ。
あいつはこっちに向かって突っ込んでくるが、その狙いは誰なのだろうか。はっきり言ってモンスターの動きはそこまで速くはない。少なくとも俺ならば狙われてもいくらでも躱すことができる。
だが、モンスターの狙いが俺の後ろにいるイヴやアリシア、エルメルならば、俺が躱したところでそのまま突っ込んでいくだけだろう。その時、彼らは躱せるのだろうか。
仮に攻撃を喰らったとしてもイヴならなんとかなるだろうが、アリシアかエルメルならば致命傷になりかねない。
……そうか、パーティーで戦う際は一か所にまとまるべきではなかったのか。
そんなことを考えているうちに、アトラク=ナクアがすぐ目の前に迫っていた。こうなっては仕方がない。覚悟を決めて迎え撃ち、その突撃を止めるしかなかった。
向かってくるアトラク=ナクアに対して真横を向いた状態から、右足で横蹴り――シャッセ・ラテラルを繰り出す。一直線に突っ込んでくる敵に対して同じく一直線に、醜悪な顔面に真っ直ぐ突き刺さるような一撃。地面と平行になるように繰り出された足に自ら突っ込む蜘蛛。まるで交通事故のような衝突にたまらず吹き飛ぶ両者。両方ともこらえきれず後ろに吹っ飛び、ゴロゴロと転がっていた。
「……ぐっ!」
くらくらとする頭を戻すために軽く頭を振る。右足に痛みが走るが、戦えないほどではない。だが、すぐに立ち上がって戦えるかと言われれば、少々不安が残る。ちょうどアトラク=ナクアもひっくり返っているし、すこし休憩させてもらおう。
膝をついたまま回復するのを待っていると、ひっくり返った蜘蛛に向かって走り出していたアリシアとエルメル。……エルメルはいつの間にか武器を二本の短剣に持ち替えていた。
「ハアァァァッ!」
二人はそれぞれ左右の足の一本に切りかかる。三本の白刃が煌めくと、黒い蜘蛛の二本の足からは液体が噴き出した。アリシアの一撃は醜悪な足をすっぱりと切断することに成功したものの、エルメルの一撃は足を傷つけただけで切断はできていない。
エルメルがもう一度同じ場所を攻撃し、傷ついた足を切断しようとしていた。だが、それよりも速く起き上がり、蜘蛛はエルメルに体当たりをした。エルメルは先ほどの俺と同じように後ろに吹き飛ばされる。
「……つッ!」
エルメルはすぐに立ち上がった。どうやら大したダメージは受けていないようだ。……おそらく先ほどの突進よりも勢いが出ていなかった分、エルメルでも耐えきれたのだろう。
エルメルが遠くに転がっていき、蜘蛛の近くで一人になってしまったアリシア。その好機を逃さぬように彼女に向けて動き出す蜘蛛。
アリシアに向かう蜘蛛に対して横やりを入れるように走り出す。既に俺は全力を出して走っても、もう問題はないほど回復していた。
左足で踏切って飛び上がり、空中で横に一回転しながらの一撃。走った勢いと回転の勢いが全て集中している右足、その足で飛び後ろ回し蹴り――シャッセ・トゥルナン・ソテを叩き込んだ。……プロレスでいうローリングソバットと同じ技である。ちなみにこのソバットというのはサバットからきている。
隙が大きい大技だが、アリシアしか見ていなかった蜘蛛はもちろん避けきれない。今度は俺は吹き飛ばずに、蜘蛛だけが横に飛んでいった。もちろん先ほどと同様、無様にひっくり返る蜘蛛。砂埃と地響きが舞い起こる。
「……おわっと!」
きれいに着地しようとしたが、横から何か大きく柔らかいものが当たってきたような感覚。バランスを崩して、やはり蜘蛛と同じく無様に倒れてしまった。顔を上げると、そこにいたのは太陽を背にしているフェニックス。顔はよく見えないが、何となく申し訳なさそうな雰囲気を出しているような気もする。
「クエェ……」
おそらく先ほどぶつかってきたのはフェニックスだろう。何かあったのかと周りを見渡しても特に変わった点は何も見当たらない。……もしかしたら、フェニックスも攻撃しようとしていたのかもしれない。俺が先に攻撃してしまったので、止まり切れずに俺にぶつかってしまったのだろうか。
……もしかして、俺が敵の近くにいると邪魔なのかもしれない。思えば、俺が誰かと共に戦うことなんて、娘たち以外とはしたことがなかった。一人での戦闘はそれなりに慣れては来たが、集団で戦うことについては依然として素人だ。この状況が連携が取れていないということなのだろう。
アリシアとエルメルも、二人は同時に攻撃していたが、攻撃したのは俺が離れた後だった。二人の間ではある程度連携が取れているのかもしれないが、やはり何となくぎこちない動きだったのは見間違いではなかったのだろう。
……そういえば、イヴもあまり攻撃していない。俺が近くにいる時は気にせずに攻撃しているが、アリシアかエルメルが近くで攻撃しているときはほとんど攻撃をしない。俺とイヴとの間には多分連携が取れている……、というかイヴが俺に合わせてくれているのだろう。だが、そのイヴもやはり俺以外とは連携が取れていない。
「……う~ん、大丈夫かな?」
それでもなお、今のところはアトラク=ナクアに対して有利な状況だ。やはり数の優位と言うものは大きいのだろう。……ならば、敵の周りを囲うように包囲し、相手の狙いを分散させるのが一番いい方法だ。蜘蛛が誰かに攻撃しようとしたならば、狙われているもの以外が後ろや横から攻撃し、じわじわと弱らせていくのが安全だろう。
そんなことを考えている間に、再びひっくり返っている蜘蛛に向かって走るアリシア。ただし、今回は一人だけだ。エルメルはイヴと同じように弓で遠くから攻撃しており、近づく様子はない。
……俺まで一緒になって突撃すべきではない。下手に近づくと彼女の邪魔しかしないと思うから。……多分彼女は引き時は間違えないだろう。あくまで想像だが。とりあえず、いつでも割って入れるように準備だけはしておこう。
「……あれは……」
いつの間にか蜘蛛のすぐそばに近づいていたアリシアの、剣がにわかに光を放ち始める。剣から放たれる光は、あっという間に目を開けていられないような強い光になり、アトラク=ナクアを切り裂いた。




