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七話

「な、なんだっ!」


「きゃあああ!」


 爆発音のような音と共に、地震のような縦揺れが襲った。全員立っていることができずに、座り込んでしまう。周りを見渡すと、細い枝やつり橋などが激しく動いている。村そのものが揺れて、その衝撃は大樹全体を襲っていた。


 揺れが静まったことを確認してから、村を囲むように設置された手すりにまで向かった。その手すりから身を乗り出すようにして地面を見る。そこにいたのは、地上から遠く離れたこの場所からでもはっきりと見える、巨大な蜘蛛の姿をしたモンスターだった。


 全ての蜘蛛を支配するという蜘蛛の王、アトラク=ナクア。八本の丸太のような足をせわしなく動かし、やや丸々とした体の重みを感じさせないほど素早く動いている。漆黒の身体を覆うように、体中には白い産毛のような毛がびっしりと生えていて、その姿は醜悪としか言いようがない。樹上から見ているので大きさはよくわからないが、少なくとも体高が俺の身長を下回ることはないだろう。


 ……まさにとんでもなく巨大化したいわゆるタランチュラそのものである。一片たりとも好きになれる要素のないその姿は、見ているだけで体がむず痒くなってくる。広い世の中にはタランチュラ愛好家という奇特な人たちもいるらしいが、こいつを見たらとてもかわいいなどとは言えないだろう。


 ……だが、今はそんなことより、なぜあのモンスターがここにいるかということだ。アトラク=ナクアは確か、蠱毒の洞窟というダンジョンのボスモンスター。そもそもなぜダンジョンのボスモンスターが外に出ているのかも気になるが、そもそもあいつはいったいどこから現れたのか。


「……なんだ、あれは」


 エルメルが目に恐怖を湛え、顔をひきつらせて弱々しい声で呟く。先ほどエレミアに激昂していた姿はもう見る影もなく、へたり込んだまま立つことすらできないようだ。目の前の現実が受け入れられないように、地上で周りを伺っているアトラク=ナクアをただぼんやりと眺めている。


「……どうやら大樹の根元から這い出てきたらしいな」


 アリシアがとある場所に向かって指をさす。確かにそこだけは、大樹が地面に隙間なく張っている根っこが吹き飛んでおり、先の見通せないほど深くまで続いている大きな穴が地面に開いていた。その穴の入り口はどこかで見たことがあるような形状だ。


「……あれは……」


 ……そう言えば、ゲームでは蠱毒の洞窟はどこにあったんだったか。確かダンジョンの周囲には何もなかった。だだっ広い平原の中で、ぽつんとした地下へと降りていく洞窟の入り口だけが存在していた。


 ……まさか、あれが蠱毒の洞窟なのか。確かにゲームでは蠱毒の洞窟があったのはこの辺りのはずだ。洞窟の入り口の形にも見覚えがあるし、なによりアトラク=ナクアが蠱毒の洞窟から飛び出してきた、ということだったら、今のこの状況を一番うまく説明できるだろう。……なぜ飛び出してきたのかという点以外はだが。


「……そうだとしたら……」


 おそらく謎の疫病というのも、あの蠱毒の洞窟から漏れ出した何らかの毒が原因ではないか。あのダンジョンは中に入るだけで毒によるダメージを喰らったはずだ。誰かが意図して毒を用いたわけではなく、ただ毒が漏れ出しただけだとしたら……。


 抵抗力のない子供は侵されたが、毒性が弱く死ぬまでには時間がかかる。最近だんだんと毒性が強まって行ったというのも、どんどん蠱毒の洞窟の入り口が地上に近づいて行ったからだと考えればつじつまは合う。アトラク=ナクアがどんどん地上に向かっていたのなら、の話だが。


 ……となれば、洞窟の入り口が開いてしまった現在、あの樹上の村はもっと危なくなる。アトラク=ナクアを倒したところで、あの蠱毒の洞窟そのものが消えてなくなるわけではなく、毒の発生源自体がなくなるわけではない。……その影響かどうかは分からないが、この大樹もいずれ枯れるのだろう。少なくとも七百年後にはこんな大樹は存在していなかった。



「……もはや森からも愛されぬのか」


 虚ろな表情な表情をしてがっくりと肩を落とすエルメル。アリシアはそんなエルメルに厳しい言葉を投げかける。


「戦う前にあきらめるつもりか! ……エレミアから叱られたばかりだろう。生きる事から逃げるのは自身の勝手だが、それに他の人を巻き込むのはやめろとな」


 緊急事態だというのに、二人の間にはピリピリとした険悪な空気が流れ始めた。止めた方がいいのかとも思うのだが、今の二人の中に入りたくはない。止めるなら食って掛かっているアリシアの方なのだろうが、こんなアリシアの様子を見たこともなかったし、なにより彼女の言い分のほうが、少なくとも俺にとっては正しいように思えた。


「……貴様には分からんのか、あの魔物の強さが。村中の男たちでなんとか倒したとしても、我らは壊滅的な被害を受けるだろう。それにたとえ倒したとて、あの穴からあふれ出している瘴気で、もはやこの大樹には住めぬ。いずれにせよ、我らに待っているのは滅亡と言う結末だけだ。……もしかしたらあの魔物は森が、滅び行く私たちに遣わした死神なのかもしれぬな」


 そう呟いたエルメルの、アトラク=ナクアをぼんやりと眺めているその目には諦めの感情しか浮かんではいなかった。そんなエルメルに怒鳴り散らすように、アリシアが言い放つ。


「敵が強いかどうかなど関係がない! 生きている限り、生きるために全力で戦う。それが生きるという事ではないのか! ……貴殿には生きるという意志が足りないッ!」


「生きるだと? ……我よりはるかに生きておらぬ貴様が何を言う」


 諦観しか映していなかったエルメルの瞳に、再び感情と言うものが生まれた。それはアリシアに対する怒りの感情だったが、確かに彼自身が自発的に生み出したものだ。……少なくとも、生命の危機に瀕して諦観するよりは、生きる気があるといえる感情だった。


「……だったら、あの魔物を倒す手段が何かあるのか。それとも、何の策もなくてもあの魔物を倒せると思っているのか。大体、貴様は頑張ればどんなことも実現できるとでも思っているのか。どんなに頑張っても成功しないこともある。今回はそういう状況だということだ」


「倒せるか倒せないか、それは分からないし、何か倒す手段が思いついたわけでもない。だが、それとこれとは話が別だ。倒せるとわかっているから戦うのか? 倒せないと思っているから何もしないうちに死を選ぶのか? 今我々がすべきなのは生きるために全力を尽くすことだろう」


「……我々は見苦しい最期などを遂げたくはない。勝てないとわかっていながら、それでもなおあの魔物と戦ってみじめに殺されていくよりは、最期くらいはおだやかに死を迎えたい」


 先ほどよりもずいぶんと威勢が悪い口調でエルメルはそう言った。


「……必死に生きる事のなにがみじめなのか。生きることに必死になって何が悪いのか。たとえ、生き残る可能性がなくとも、何かを残すために死ぬまであがき続けるのが生きるということだろう。少しでも生き残る可能性があるのならなおさらだ。……そもそも、我々などと言ってはいるが、本当に全員が貴殿と同じ気持ちなのか。私には、貴殿が自分の思いを他の人々に押し付けているようにしか見えない」


「……我が生き方が間違っていたというのか」


 もはやエルメルの声は呟くような小さな音量にすぎなかった。


「……本当に貴殿は生きていたのか? 死んでいなかっただけではないのか? どんな困難があっても、それに立ち向かって乗り越えていくのが生きるという事ではないのか。……今の貴殿はまだ何もしていないのに、まるでもうすべてをあきらめてしまったようにしか見えないな」


「……ふん、我よりはるかに若いくせに生意気な口を利く」


 再びアトラク=ナクアを見つめるエルメルの目に、もはや諦めの感情などどこにもなかった。



 そのアリシアとエルメルの会話を尻目に、彼らから少し離れた場所、家の陰で娘たちと作戦会議を行った。村にいる人たちが皆、魔物に目を取られている隙に娘たち五人に〈深淵の鎧〉を着せて姿を隠した。


「イヴは俺とあの蜘蛛の相手。四人はあの洞窟からもう敵が出てこないように封鎖。……以上なにか質問はあるか」


 アトラク=ナクアのようにまたあの洞窟の中からモンスターが出てこないとも限らない。一刻も早く入り口を封鎖したいが、あの洞窟からは毒を含む空気が流れ出しており、普通の人では近づくだけで命の危険がある。だが、毒が効かない人形の娘たちならば、あの洞窟の入り口を封鎖するのに何の問題もないだろう。


「お父様の護衛は私だけですか?」


「……ピーちゃんもいる」


「……わかりました」


 そう言うと、イヴは割と簡単に引き下がってくれた。



 樹上の村からアトラク=ナクアと戦うために大樹の根元まで下りる。共に戦うため、一緒に降りたのはアリシアとエルメル、そして娘たちだけだ。もっとも、イヴ以外の娘たちは洞窟の入り口を封鎖するために、もうここにはいない。ここで戦うのは俺とイヴ、アリシアとエルメル、それに上空を旋回しているピーちゃんだ。


 エルメルは何かの皮で出来た鎧と木製の弓を装備している。その見た目は地味で、一見何の変哲もない装備に見えるが、よく見ると両方とも明らかに何かの魔力のこもった、貴重な装備であることは間違いない。


 一方、アリシアの装備は心もとない。オリハルコンの剣は腰に下げられているが、オリハルコンの鎧は着ていない。エルメルはともかく、アリシアにはできれば戦ってほしくはないのだが、どうせ言ったって聞き入れないだろう。


 アトラク=ナクアは、大樹の根元を何かを探すようにゆっくりと移動しており、こちらには全く意識を向けていない。こちらに気が付かないのか、あるいは気にしていないだけなのか分からないが、とにかくかなり近づいても大樹の根元に張り付いたまま、何もしてこなかった。


「……ありがとう」


 四人は一直線に並び、大樹に張り付いてじっとしているアトラク=ナクアを見つめていると、エルメルはポツリとそれだけを呟いた。誰に言ったのか、何に対して言ったのか。それはわからないが、彼の目は目の前の敵だけをじっと見つめていた。

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