五話
それはまさに天を突くほどの大樹だった。十メートル級の木々がひしめく森の中においても、周囲から明らかに浮いているその巨木は、空から見るとまるで緑の草原に生える一本の巨木のようにも見える。他と隔絶したその大樹の枝の上に亜人たちの村はあるらしい。
いきなりその巨木に乗り付けて攻撃されても困るので、少し離れた場所に降り立ち歩いてその巨木まで近づいて行く。空から見てその大きさにはある程度慣れていたはずだが、地上からその大樹を見上げるとその存在に圧倒されるしかない。
まるで王都ディアリスの外壁がそのまま天に向かって伸びているような巨大な幹。地に張る根は周囲の木々を近寄らせず、大樹の周りだけは森の中から開けている。遥か高い場所から生えている枝は細いものでも、周りの森の木々一本一本と同じ位大きく、比較的平たく横に広いレンズ状のような緑の形を作り上げている。亜人の村はその枝の上にあるらしいが、どうやって上るのか想像もつかない。見上げても枝は緑の葉っぱに覆われていて、本当に亜人が住んでいるのかはわからないが、俺はただただその大樹に圧倒され、呆けたように見上げていることしかできなかった。
いったいどれほどそうしていたのだろうか、気が付くと目の前には一人の亜人がいた。俺より頭三つほど大きなその身体は、モデルのようなすらっとした痩躯だが、決して華奢な雰囲気は感じさせない。ゆったりとした服に隠れて良くはわからないが、おそらく余計な贅肉などは一切ついておらず、しなやかな筋肉のみがあるのだろう。細い金糸のような髪をオールバックにし、目鼻立ちのはっきりしたその顔にはこちらへの不審がありありとあらわれている。やはり最も特徴的なのはやはり耳だろう。人間よりはるかに長くとがっている耳は、亜人であることを強く意識させる。美しく若々しい外見は中性的で、見た目からはその年齢も性別さえもわかりづらいが、雰囲気からしておそらく男性だろう。
「……我々の村に何か用か? 何も用がないのだったら今すぐ去って欲しいのだが」
見た目に反した渋い声でその男は尋ねてきた。目には油断のかけらもなく、厳しい表情でこちらを見つめている。明らかに歓迎はされていない様子だが、一応友好的に話しかける。
「いや、特にこれといった用があるわけではないんですが……。……あなたはエルフですよね? この大樹の枝の上に住んでいるんですか?」
「……ああ」
男は短い言葉でそう言った。そのまま会話が止まる。何とも気まずい沈黙が流れるが次に何を話していいかはわからない。彼の方から話しかけてくることはないだろうし、必死に会話のネタを考えるが、いいものが思いつかなかった。
「……私はレトナーク王国の国王アリシア・レトナークだが、この村の長と話しをさせてもらえないか?」
俺はアリシアの発した言葉に一瞬耳を疑った。先ほどの話では、王国もノアの子孫も亜人たちに恨まれているかもしれないと言っていたはずだ。それなのに、なぜいきなり素性を暴露してしまったのだろうか。まだ彼がどのような人かもよくわからないのに。
男は一瞬だけ戸惑った様な表情を浮かべたが、またすぐに仏頂面に戻ってしまう。
「長、というか一応代表者的な役割にいるのは私、エルメル・リョンロートだ。……それで何か用なのか、異国の王よ」
二人の間に風が吹いた。
「……そうか、貴殿が」
「……まだ、我々に何か用があるのか。……それともここからも出て行けと言いたいのか?」
遠くを見つめながら自嘲するような表情でエルメルは呟いた。その様子は何か遠い記憶を思い出しているようにも見え、彼の表情には隠し切れない影が浮かんでいた。
……確か、ノアは四代国王、アリシアは十一代国王だったはず。初代国王のヨシュアが三百年前の人だから、およそノアの在位は二百年程度前の話だろう。……エルフは長命だというし、姿も死ぬまで若い姿から変わらないらしい。もしかしたらこの男は、二百年前の出来事を直接体験しているのかもしれない。
「……亜人を排斥した王国の事を憎んでいるのか?」
苦々しい表情を浮かべ、アリシアが尋ねる。だが、俺たちの予想に反してエルメルは首を左右に振り、かすかに苦笑いのような微笑みすら浮かべて答えた。
「……昔ならともかく、今でも憎んでいる者などいない。我々はあまりにも周りの出来事に対して無知すぎた。……いや、知ろうともしていなかった。我々のその傲慢こそが今この現状を招いているのだろう。……だからこそ、もう我々は貴国を恨んでなどおらぬ」
「……だった今からでも遅くはない、今度こそ共に生きていくことはできないのだろうか」
エルメルのその言葉に、アリシアは一筋の光明を見出したようだった。だが、そんな彼女に向かってエルメルは諦めたように首を振り、拒絶の言葉を投げかける。
「……なるほど、話は分かった。……だが、帰ってくれ」
「……」
その明確な拒絶の言葉に、アリシアが二の句が継げないでいると、エルメルは畳みかけるように言葉を発した。
「……我々は現状に満足し、前に進むことをしなかった。あまりにも外の環境に無関心すぎた。我々が滅びるのは当然だろう。こんな時代遅れの遺物たちに関わったところで何の意味もない」
「……しかし、今のあなたたちはその反省を生かせるはずだ。我々はできる限りでいいから、あなたたちと交流を持ちたいと思っている。我々もできうる限りの協力はするし、あなたがたからの条件も全てとは言い切れないかもしれないが飲むつもりだ」
「……思えば我々はひたすらに逃げ続けてきた。生まれ育った故郷を死守するために戦う事もなく、向かってきた人間のあまりの多さに恐怖して逃げ出した。なぜ我々がこんな目に合わねばならないのかと、今まで何もしてこなかった自分たちのことは棚に上げて、世界を憎んだりもした。かと言って他の仲間たちと共に大陸の外に出る勇気もなく、彷徨い続けてようやくたどり着いたこの地でもこの大樹に守られている。……この大樹の上にいれば魔物は襲ってこないからな」
アリシアはあくまで会話をしようとしているが、エルメルはそんな彼女の言葉を聞いていないように、あるいは自らの不幸を自嘲して悦に入っているように、自分自身に陶酔したような様子で演説していた。彼の口からは次々と言葉が流れ出し、なかなか止まらない。
「……レトナーク王国に行けば、そこまで魔物に怯えることもなくなる」
「我らをまた王国に住まわせるなどと言えば、ルズベリー教国から反発を受けるだろう。無知だった我々でも、今ならそれくらいは分かる。……そして、我々がもはや滅び行く運命なのだということもな」
「……もはや共に生きることはできないのか」
アリシアはまだ対話を望んでいたが、エルメルは初めから対話をする気がないようだった。二人の会話は平行線をたどり、決して近づくことはない。
「共に生きようと言われても、我々はもはや生きていない。生きるために努力をせず、ただあるがままに任せ日々を無為に過ごしている。かと言って死んでもいない。そもそも死ぬ勇気もない。我々はただここにあるだけ。こんな我々に関わったところで時間の無駄だ。……わかったらもう放っておいてくれ」
「……最後にもう一つだけ聞かせてくれないか。滅びるという事はどういう意味なんだ? もはやそれほどまでに数が減ってしまっているということか?」
「……それは……」
沈んだ表情でアリシアが呟く。その言葉にエルメルは初めて多少狼狽したような表情を浮かべた。何かを言うべきか言わざるべきか迷っているような雰囲気だった。
「エルメル様。……また一人倒れたようです」
そこに新たに一人のエルフが現れた。エルメルと似た様な金髪で、顔だちもよく似ていて美しい。声からエルメルと同じく男だとわかるが、何となくエルメルよりも若い様な雰囲気がする。一瞬だけこちらを見てから、エルメルに何事かを報告している。その様子は悲壮な雰囲気を漂わせている。
直前まで全く気配を感じられず、まるでいきなりそこに現れたといった様な様子だ。この木をどうやって枝の上まで上がるのかがよくわからなかったが、この分ではおそらく何か魔法か魔道具を使って上に上がるのだろう。
「……そうか、今すぐ行く。やはり子供か?」
「……はい」
その返事に、エルメルは目をつぶり何事かを考えていたようだった。十秒ほどして目を開き、こちらを見てとある提案をしてきた。
「……そうだな、滅びるという事がどういうことなのか。直に見てもらった方が早いだろう。村の中に入るといい」
「……ですが」
「私が責任を取る」
若いエルフは反論しようとしていたが、エルメルのその言葉に何も言えなくなったようだった。了承の意を発し、それ以上は何も言わずに俺たちの方を見つめていた。
だが、憎しみのこもった目線ではなく、どこか観察するような目線だ。あるいはどこか希望を見るような、好意的な視線でさえ合ったかもしれない。……すくなくとも悪意のこもったものではなかった。
「……わかりました」
「……できれば君たちに滅び行く我々の姿を目に焼き付けてほしい」
エルメルはそう言うと、こちらの返事を待っている。アリシアの方を向くと、俺を見つめていたのでかすかに頷いてやる。
「ああ、頼む」
アリシアのその言葉と共に、俺たちは今現在の、遥かに見上げる大樹が目の前にそびえたっている光景とは、全く違う風景を見ることになった。




