一話
朝の森の中を走っていた。ペース配分など考えずにひたすら無心に走り続ける。少しでも何かを考える余裕があると、昨日の夜のことを思い出してしまいそうだった。
「ハァ、ハァ」
ペース配分などを考えず、ただがむしゃらに走っている。ここまで数キロを走っているため息は既に荒く、足にも疲れがたまっているがもう走れないというほどではない。
真夏だからか早朝だと言うのに既に暑く、全身にじっとりとした汗をかいている。鬱蒼とした森の中は朝露に濡れており、しっとりとした湿った空気と濃厚な植物の匂いを発している。どこからともなく小鳥のさえずりが聞こえ、時には何の動物かわからない鳴き声も響いている。
森は数百の年を刻んだと思わしき大木やら俺の背より小さい灌木やら、あるいは大地や木の表面を這うように成長している草本やコケなどが不規則にひしめき合っており、我先にと真夏の照り付けるような日光を求めて、青々とした葉を広げている。
一見して未開のジャングルのように見える森の中だが、今走っている地面だけは一応道のように多少踏み固められている。その道の上に向かって枝を伸ばしている灌木も途中から枝が折られ、踏みつけられた草はまだ枯れてはいないが、その道はまるで獣道のようだった。
そう、この道は最近、俺が早朝のジョギングを始めてからできた、俺の作った獣道だった。正真正銘俺一人で全て作った俺のジョギングコースは、家の周りを大きく周回するようなコースで、正確に距離を測ったわけではないがおおよそ全長十キロはないくらいだろう。
もっともジョギングを始めようと思ってから最初の一週間くらいは、早朝の時間がこのジョギングコースを作るだけで終わってしまい、また熱中しすぎて毎日朝食に遅れてしまって、怒られたりした。作ったと言っても踏み鳴らしただけの獣道であるから走りづらく、軽く足がとられることも多いが、それが逆にバランス感覚を鍛えるのにはいいのではないかなどと勝手に思っている。
アリシアの来訪以前は、この早朝の時間は庭で自家菜園を作っていたが、王都ディアリスの発見により食糧問題が解決した。菜園を作る必死さみたいなものが無くなってしまったので、この朝の時間は一人で体を鍛えることにしたのである。
もちろん一緒に自家菜園を作っていた娘たちは彼女たち自身がやりたくてやっているので、俺がこうやってジョギングしている今もやっているだろう。俺も朝以外なら現在でも参加することもある。だが毎日朝に畑仕事をすると、どうしても自家菜園に参加している娘たちとそうでない子たちの一緒に過ごす時間が差が出てしまうこともあって、朝の畑仕事はやめることにした。
その空いた早朝の時間を何に使おうかと考えた結果、体を鍛える時間にあてるのが一番いいのではないかという結論に達した。はっきりいって俺の身体は貧弱だ。『エイジオブドラゴン』でキャラクリエイトしたクリスがそこまで筋肉がないキャラだからなのか、魔法使い風には見えても己の身一つで戦う男にはまず見えない。
一応脱いだらそこそこ引き締まった身体なのだが、服を着て筋肉を隠すと、地味な顔のせいもあるかも知れないが一切強そうには見えない容姿だ。いつものローブ姿なら魔法使いのようにも見えるかもしれないが、どちらにせよ肉体的に軽く見られることは間違いない。
俺はメインジョブの人形遣いのレベルが百でサブジョブの格闘家のレベルが五十、どちらも限界まで成長していて、これ以上レベルアップはできない。だがこの身体そのものを鍛えるのは無駄なのだろうか。筋肉をつけたら多少なりとも強さは変わらないのだろうか。特に俺の戦い方は自分の身体のみを使って戦うもので、おそらく一番大きく身体能力そのものが実力に関係する戦い方だろう。
まあ、万が一体を鍛えることが強くなることに関して何の意味も持たない無駄な行為だとしても、農作業の経験からこの世界でも鍛えればそれなりに身体つきが変わることはわかっている。なので体を鍛えればこの貧弱な身体からは卒業できるだろうし、頑張れば見た目だけで強さがわかるような、ムキムキの筋肉達磨にもなれるかもしれない。
……まあ、そこまでいくと娘たちに嫌だとか嫌いとか言われるかもしれないので、そこまでは鍛えるつもりもないし、そもそも鍛えられないと思う。だがせめて、脱いだら結構すごい筋肉しているとほかの人に一目置かれるくらいの肉体にはしたい。見た目が強そうだったら、モンスター相手はともかく人間相手には戦いを避けられることがあるかもしれない。
それに独りでこうやって森の中をジョギングしていれば、ある程度モンスターが襲い掛かって来るので、戦いの経験は積むことができる。強さで娘たちに勝つことは諦めているが、せめて戦いの時に足手まといにはなりたくない。そのためには圧倒的に不足している実戦経験を積むことが必要だろう。
そんなことを考えながら走っていると、目の前に少し開けた広場のような場所が現れた。およそジョギングコースの中間地点ほどの位置にある場所で、十平方メートルほどの面積の木がことごとく切り倒されている。明らかに人工的に植物が伐採されているから、多分娘たちの誰かがやったんだろう。
この広場は、ジョギングコースを作っている最中に偶然道と広場がぶつかったのだが、丁度いい場所だったのでコースに組み込んだ。いつもこの広場までジョギングコースを走ってきて、この広場で武術の練習をしてからまたジョギングコースに戻って家に帰るというルートにしている。
「ふぅ~」
乱れた息を整えながら、広場の端に向かう。そこにはサンドバッグや巻き藁代わりに、伐採された木の幹がそのまま置かれていた。正確には地面に木の幹の三分の一ほどが埋まっていて動かないようになっているが、遠くから見ると丸太が立っているようにしか見えない。
毎日この広場ではジョギングの途中に立ち寄り、武術の訓練をしていた。広場は大きく動き回っても十分なほど大きなスペースだ。広場の中央にある、俺一人ではどう考えても取り除けないほど大きな切り株以外は、全ての木の根っこを取り除いてある。地面も平らで動きやすい。
普段はジョギングで乱れた息を整えがてら形稽古をしてからその丸太を叩くのだが、今日はとにかく一心不乱に丸太を叩きたかった。
まずは正拳突き。足を開いて腰を落とし、両手を腰まで引いてから、右手を半回転させながら丸太を突く。右手を腰まで戻しながら左手で同じように突く。そして、左手を腰まで戻しながら右手を突く。丸太に拳が当たると多少の痛みが襲うが、耐えられないほどではない。むしろ今はその痛みに集中できる分、余計なことを考えずに済んでありがたかった。
気の済むまで正拳突きの反復練習を行ったら、次は蹴りだ。まずは足の指の付け根で前に向かって押し出すように蹴る前蹴り。横を向き、足の外側の側面で足刀と呼ばれる部分を押し出すように蹴る横蹴り。足を横から回し、足の甲と脛で蹴る回し蹴り。正拳突きの時よりもさらに大きいズシンズシンという重い音が森に響き渡る。
ひたすら無心に、力加減をせず全力で丸太に打ち込んだ。いったいどれだけの時間そうしていたのだろうか。全力を込めた何発目かの回し蹴りを打ち込むと、大きな音を立てて木が真っ二つにへし折れてしまった。……仕方ない今日はこれまでにするか。そう考え、再びジョギングコースに戻るために振り返ると、広場には二人の来客が訪れていた。
広場の中央にある大木の切株の上には今一番会いたくなかった人、レベッカが座っており、その隣にはイヴが立ってこちらを見ている。思いがけない遭遇に一瞬足が止まってしまった。昨日の夜の事についての恥ずかしさで未だにレベッカの顔が見れないが、ここで逃げるのもそのことを意識していると思われて恥ずかしい。
「すごいわね……。あんなに太い丸太がへし折れるものなのね」
レベッカが感心するように、いつもと変わらない様子でそう言った。まるで昨日の夜のことは特に気にすることのほどでもないとばかりの態度だ。……まあ、俺にはそう見えるというだけで内心はわからない。
「ようやく気が付いたんですか、お父様の偉大さに」
なぜかイヴは胸を張り自慢げな顔をしている。そのイヴの様子をみて、レベッカも微笑んでいた。
「……それで何か用なのか?」
内心の動揺を隠そうとしたら、ぶっきらぼうな言い方になってしまった。そんな俺を見て、レベッカは微笑んでいる。……子ども扱いされているようでなんとなくもやもやした。
「ふふっ、特に用はなかったんだけど、朝食前のこんな早朝からどこに行くんだろうなと思っただけ。イヴちゃんに話したら、案内してくれるって……」
「わ、私はレベッカさんに頼まれて仕方なく……。別にお父様のことを信用していないわけでは……」
当初この早朝ジョギングをすることに関して、一人では危険だと言うイヴと一人でやりたいという俺との間で議論が行われた。結局家からあまり離れないように、家の周りを一周するように走ること、危なくなったら途中でも【リターン/帰還】で帰ることを条件に、イヴに一人でジョギングすることを認めさせたのであったが、今のイヴの様子を見る限り、まだイヴは俺が一人でジョギングすることが心配なようだ。だが、俺もモンスターと一人で戦うことも目的の一つなのでそこは譲れない。
「……まあ、特に用がない様だったらもう行くけどいいか?」
そう言って二人に背を向け、ジョギングコースに戻ろうとする。できるだけ早くレベッカと同じ場所から逃げ出したかった。とにかく一旦落ち着くまではできるだけレベッカの顔を見ないようにしよう。どうしてもレベッカに関して変な反応をしてしまいそうだった。
「……?」
返事がないことを不審に思い、振り返って二人の方を見ると、そろって顔を上にあげ上空を見つめていた。レベッカは不思議そうな顔で、イヴは警戒感をあらわにした顔で空を睨んでいる。
つられるように上空を見ると、何か赤いものがこちらに向かって空を飛んできていた。……もしかして、ドラゴンだろうか。そう思い警戒感を強めるとイヴが《アクティベート》のスキルを使い、戦闘準備を整える。どうやら敵であることは間違いないようだった。




