一話
空から照りつける太陽はまだ幾分本気を出していない初夏の季節、どこまでも白く続く砂浜に同じくどこまでも蒼く続く海。その相容れぬ両者は波打ち際という場所で戦っているようにも、じゃれあっているようにも見える。
そんな砂浜に座り込んで俺は釣りをしている。いや、正確には俺たちというべきだろう。一か月をかけて全員と散策をするという約束は既に果たされているが、娘たちの強い要望によりこれからも散策を続けることになっていた。そして、今日は家からずっとまっすぐ南に森を抜け、そのまま平原を真っ直ぐに歩いたところにある南の海岸で釣りをしている。
既に散策ではなくなっているかもしれないが、誰もそんなことは気にしていない。そう、家の周囲の散策などと言うのは建前で、こうやって親子でコミュニケーションをとるということが一番大切なことであった。ちなみにイヴは来ていない。
「そういえば、なんでイヴは来ていないんだ? 前は毎日来てたのに」
沈黙を破るようにそう言うと、胡坐をかいた俺の膝の上にちょこんと乗っている、濃朽葉色のセミロングの髪をワンサイドアップにした少女ヴァルナが軽く顎に頭突きをしてくる。
「むー、お父さんはお姉ちゃんをひいきしすぎだと思います」
「そ、そうか?」
別にひいきしているつもりはなかったんだが。でも、ひいきしていると思われていたのは問題だな。やはり一人一人の娘に平等とはいかなくても、平等感は与えないといけないだろう。
「かの独裁者は、厳正なる裁判によって不正を暴かれ、現在はその罪に服しているのだ」
背中に張り付いてる、菜種色のロングヘアに赤いヘアバンドが特徴の少女ミトラがそう言った。独裁者とはイヴの事だろうか。不正というのは……毎日散策に参加したことか? まあよくわからないが、一人だけ毎日行くことに対してほかの娘から不満が出たんだろう……多分。
再び沈黙が訪れる。聞こえてくるのは波の打ち寄せる音だけだ。だが、決して気まずい沈黙ではない。そこに言葉はないが、そこにいる全員がその沈黙を心地よいと感じている。なぜかは分からないがそう分かっていた。波の音だけがメトロノームの様に規則正しく響き、そこにはとても落ち着いた時間が流れていた。
「あ、暑い」
耐え切れずにそう言うと、娘たちから白い目で見られてしまった。俺の服装はいつもの外出の際と同じ、特殊な効果はないが高い防御力を誇る漆黒の〈深淵のローブ〉、あらゆる被ダメージを十パーセント減らすという効果を持つ、飾り気のない銀色の〈守護天使の指輪〉、全ての能力値を五パーセント上昇させる、金の十字架の中心に小さなダイヤが埋め込まれている〈熾天使の首飾り〉、そして一見普通のスニーカーにしか見えない〈韋駄天の靴〉という、素早さを大幅に上昇させる効果のある靴である。
この服装はとても楽でそこそこ実用的なのだが、初夏の季節になってだんだん暑くなってきたので、黒くて熱を吸収する〈深淵のローブ〉を着るのががだんだん厳しくなっていた。外見的には気に入っているので、今度何かアイテムボックスの中から暑さ寒さを和らげるようなアクセサリーを探してみるか、あるいは作ってみよう、そう思った。
「はぁ、今いいところだったじゃん。せっかくみんなの気持ちが一つになってる感じだったのに、なんでお父さんはそんなことを言っちゃうの」
ヴァルナがまた拗ねたようにそう言って軽く頭突きをしてくると、ミトラも顎を俺の頭に乗せながらダメ出しをしてくる。
「お父様はもう少し繊細な女心というものを知ったほうがいい。そんなことでは女の人にもてないぞ」
女心ではなく、子供心ではないかと思うが、口には出さない。というか女性にもてないのは関係ないだろう、多分。
「いやだって本当に暑いから、いくらまだ初夏だと言っても。できれば離れてくれませんか」
そう言って周りの娘たちを引きはがそうとする。前後だけではなく、左右にも斜めにも娘たちがいる。まるでおしくらまんじゅうをしているような状況ではいくらまだ真夏ではないと言っても厳しいものがある。このままでは脱水症状や熱中症を起こしてしまいそうなので、その娘たちの輪から飛び出し、大きく伸びをした。海から吹いてくる涼しい風が火照った体を冷やしてくれる。
「あー、気持ちいい」
そう言って、アイテムポーチから取り出したオレンジジュースを飲む。氷晶石で冷やしたオレンジジュースはキンキンに冷えていてほのかな酸味がさっぱりとした後味を生み出す。乾いたのどを潤し、火照った体にしみわたっていくようだ。
ちなみにオレンジは森の中で見つけたもので、木を見つけたときには既に娘たちの誰かに切り倒されていた。仕方がないので、庭の片隅に何個か果実を土晶石と一緒に埋めておいた。いつの日かまた実をつけてくれるだろう、多分。
「お父さん、引いてるよ」
ヴァルナのその言葉に振り返ると、三脚に置いた青い竿がしなっていた。竿は〈不壊の竿〉と呼ばれる竿で、『エイジオブドラゴン』のとあるクエストの報酬である。この竿は決して壊れることはないという魔法効果があり、釣竿の中でも上から三番目に貴重なものであった。
ちなみに上から二番目の竿は〈必中の竿〉といい、〈不壊の竿〉の効果に加え、一度かかった魚が逃げることはないという効果もついている。上から一番目の竿は〈釣神の竿〉といい、〈必中の竿〉の効果に加えて、釣ろうとした魚が必ず釣れるという効果を持つ竿であったが、はたして、そんな竿を使って釣りをして楽しいのかどうかは分からない。
ともかく、その〈不壊の竿〉が大きくしなっているので慌てて竿を持ち、大きくしゃくりあげてからリールを巻く。どうでもいいが、『エイジオブドラゴン』の中世ヨーロッパ的な世界観にこのリールはミスマッチだと思う。
「ずいぶんな大物みたいだ。お父様、逃がさないようにね」
そう言ってミトラは《アクティベート》を行い、槍を手に持った。もしかして、あの槍で魚を突く気だろうか。確かに彼女の武器は銛に似た槍、全長二メートルほどのトライデントと呼ばれる三叉槍だが。
リールを巻いたり、引っ張られてリールが巻き戻ったり、またリールを巻いたり、また引っ張られてリールが巻き戻ったり。そんな魚との攻防を十分ほど行ったときその事件は起きた。
だんだん魚が弱って来ているようで、引っ張られてリールが巻き戻る時間が減り、リールを巻く時間が増えていく。もう少しで釣れる。そう思い一心にリールを巻いていたが、次の瞬間いきなり今まで感じたことのない強烈な力で引っ張られ、海に引きずり込まれた。
「おわ、ぶっ……」
水しぶきの音と共に海の中に引きずり込まれて、息ができない。竿から手を放せばいいのだが、そんなことを考える余裕もない。何が起こっているのか分からず、自分がどういう状況にいるのかもわからない。そのまま海の底に引きずり込まれそうになったとき、力強いいくつもの手によって海の中からひっぱりあげられた。
「げほ、げほっ……おえっ」
仰向けに引き上げられた後、すぐに四つん這いになる。かなり海水を飲んでしまった。気分が悪い。荒い息をつき、嗚咽を漏らしながら四つん這いになっているが、そこから動けない。
「大丈夫? お父さん。……ていうかこれ重すぎだよ。何がかかってるの……」
顔を上げるといつの間にか竿を持っているヴァルナが必死に足をつっかえ棒のようにして、後ろに体重をかけるが、そのままずるずると砂浜を海に向かって引きずられていく。慌ててほかの娘たちもヴァルナにしがみつき、何とか止める。全員で力を合わせて釣り上げるべく、ミトラが言った。
「それじゃ、せーので一気に上にあげるよ。……せーの!」
娘たちの怪力と獲物の体重によって極限までしなった竿は、それでも折れることなく獲物を海から引きずり出す。海を割って出てきたのは、魚ではなくあまりに巨大な姿だった。釣り上げられたその巨大生物は海を割って出てきた、そのままの勢いで俺たちの真上を通過して俺たちの後ろの地面に叩きつけられる。
「大物といえば、大物なのか?」
のんきにそんなことを口走ってしまうほど、あまりに現実味のない姿。目の前では現実の世界の中生代の海に生息した、首長竜にそっくりのモンスターがこちらを睨み付けていた。




