プロローグ
一人の少女が月を見上げながら物思いにふけっている。少女がいるのは自身の寝室で、窓から空を静かに照らしている月を眺めていた。その顔は憂いに満ちており、少女の儚げな容姿をより引き立たせている。絵画になりそうな光景ではあったが、その部屋には彼女以外に誰もいないので、彼女の憂いを知る者はいなかった。
「……はぁ」
少女は思い出していた。尊敬する姉と共にジルベール・バタイユの凶行を阻止し、王国を救った青年を。王国の精鋭である軍部が手も足も出なかった黒き騎士たちを自在に指揮する青年を。そして、自らをクロード・ビュリダンの凶刃から救ってくれた青年を。
「……クリス様」
この思いはもしかして恋と言うものなのだろうか。これまで恋をしたことのなかった十五歳の少女は、自分の中に生まれた想いに戸惑っていた。あの青年のことを思うと、胸の中が温かくなるような、胸が締め付けられるような、そんな相反する思いが体中をぐるぐると駆け巡る。少女は悶々と思い悩んでいた。
「……でも」
もし、この思いが恋だとしても、その思いが成就することなんてあるんだろうか。あの方は、とても可愛らしい女の子を連れていた。可愛らしいとはいっても見た目は十二歳ほどで、私より数年幼いくらいだ。その女の子がお父様と言っていたので、その子はあの方の娘さん……なんだろう。あの方はそんなに大きな娘さんがいるようには見えなくて、せいぜいお姉さまの数年年上くらいにしかみえないが……。……娘さんがいるのだったらもう結婚しているのだろうか。そう少女は考え、諦めようとするが、一向にこの思いは止まってくれない。
……もし、何らかの理由で、奥さんと別れたんだったら……。あるいは、妻は無理でも妾としてなら……。そんなことまで考えるが、すぐに無理だという思いがあふれだす。
「……だって、お姉さまとあんなに仲良く」
初めて会ったのがつい最近のはずなのに、あの方とお姉さまは長年寄り添った夫婦の様にお互いを分かっている感じがした。冗談を言い合ったり、ふざけあったり……。あんなにリラックスしたお姉さまは久しぶりに見た。お父様が亡くなってからずっと張りつめていたお姉さまが、女王になってからのほうが生き生きとしているように感じる。あの方の隣には私なんかより、お姉さまのほうがずっと似合っている。少女はそう考え、諦めようとするが、やはりその思いは止まってくれない。
そして思い出す。初めてまともに会話をした、あの時のことを。
玉座の間には二十人ほどが集まっていた。その内訳はアリシアたちが玉座の間に飛び込んだ時に中にいた際の、軍部を除いた人たちであった。ジルベールがこの玉座の間で倒れたその翌日のことだ。
「さて、まあいろいろ気になっている人がいると思うから、紹介しよう」
アリシアが玉座に座りながらそう言う。即位の儀式はまだだが、とりあえず形式的には昨晩に即位したのである。初めて玉座に座ったのだろうが、なかなか様になっている。
「えー、王城の制圧に協力してくれたクリス・ピグマリオン殿だ」
そう言って、黒いローブを着たいかにも怪しげな青年、クリスを周りの皆に紹介する。あまりに大雑把な説明に、親衛隊からも文官からも詳しい説明を望む声が上がる。
いきなり王女と一緒に来たかと思えば、二千の兵士を軽く蹴散らす黒い騎士たちを率い、自らも王国最強のクロード・ビュリダンを軽く一蹴する。そんなわけのわからない人物を信用できないと言わんばかりに、ほとんどの人がクリスに疑いの目線を向けていた。例外はアリシア一家だけである。
その中でも、親衛隊のリーダー格と思しき、赤い髪をアリシアと同じくポニーテールにしている騎士、クロエ・ベルジュラックが一番大きな声を上げる。王族の命を守るという使命を掲げている彼女たちにとって、クリスは何よりも警戒すべきなのは間違いない。だがそれ以上に一度アリシアが命の危機に陥ったのに助けることが出来なかった後悔が、彼女たちを空回りさせていた。
「それだけではわかりません! この男はだれなのか、なぜアリシア様と一緒にいたのか、そもそもどこから来たのか、あの黒い騎士たちは何なのか!」
厳しい目線でクリスを見つめながら、クロエはクリスに詰問するような形で尋ねる。その目には明らかに彼に対する不信感があった。質問に答えるためクリスが口を開きかけるが、それを遮るようにアリシアが先に答える。
「だから彼はクリス・ピグマリオン殿だ。なぜ私といたのかについては、私が力を貸してほしいといったからだ。どこから来たのかということについては、魔の森の中から空飛ぶ船に乗ってきた。あの黒い騎士たちは……彼の配下というところだろうか」
アリシアは微妙に口を濁して言った。クリスが娘たちの強さを隠したい以上、あの騎士たちを娘たちと呼ぶわけにはいかない。なので配下と呼んだのだが、生真面目な彼女は配下にうそをつくことに心苦しさを感じていた。
「先ほど魔の森から来たと仰っていたが、あなたはあの森に棲んでいるのか?」
今度は頭髪が薄い、やせぎすの不健康そうな男、宰相のファビオ・ダランベールがクリスに問いかけた。ジルベールがこの玉座の間で暴れた時は無様な姿をさらしていたが、今は一国の宰相にふさわしい落ち着いた声で尋ねた。クリスはその問いに一言で答える。
「ええ」
「……なるほど。確かにあの戦力があれば魔の森で暮らせるのかもしれない。ならばあなたは魔の森の王といったところか。だが、そんな強力な戦力を持った人物を野放しにしておくわけにはいかん。アリシア様に協力したということは王国に臣従するということだな?」
ファビオは鋭い目つきでクリスを見つめる。脅しとも取れるその言葉に、一気に玉座の間に緊張が走る。その沈黙を破ったのはアリシアだった。
「で、その尋常ではない戦力をもった男、王国の軍部を一蹴するような男に喧嘩を売るのが宰相の仕事か。お前はこの国を滅ぼしたいのか?」
アリシアはファビオを睨みながら言った。その姿は、昨晩王になったばかりとは思えない威厳と威圧感があり、ファビオはさっきまでの態度を一変させ、弱弱しく弁解する。
「そ、そんなつもりは……」
その弁解を受け流しながら、アリシアはクリスに向きなおって謝罪する。
「すまなかったな。臣下の不始末は私が責任をとる」
「かまわないよ、怪しいのは自覚している。……それから王国に臣従してもいい。ただし、条件がある」
「条件……とは?」
ファビオはクリスに対してまだ疑いの目を投げかけないわけにはいかなかったが、先ほどまでの敵意を持った目線よりは大分暖かいものになった。その他の人に対してもそれは同じであり、クリスが玉座の間に入った際の針のむしろのような状況からは大分ましになっていた。
「まず一つ目は、あの騎士たちを戦争の当てにしないこと。国に攻め込まれた際ならともかく、その他の事、例えば他国への進行やあるいは治安維持などでは彼らを使おうなどと思わないように。もちろんどうにもならない場合、例えば凶悪なモンスターが国を荒らしまわっている際などには言ってくれれば、アリシアと言う友を助けるために精一杯の努力はしよう」
「……それは軍部の仕事だ。あなたに全面的に任せる事はあり得ない」
クロエが、まるでこのレトナーク王国が自分たちの力では成り立たないような弱い国だと言われているような気がして、内心の怒りを押し殺すように言うと、アリシアがそれをごまかすように茶化したような口調で言った。
「……軍部か、今から頭が痛いな。早く後任を決めなればならないことは分かってはいるんだが……」
一瞬、沈黙が起きる。だが、その沈黙を嫌ったように再びクリスが口を開く。
「それから二つ目は、私たち家族を政治に巻き込まないこと。私たちは基本的にレトナーク王国に対して何かするつもりもないし、何かを期待するわけでもない。……もちろん友人に頼まれれば手を貸すのもやぶさかではないが、できるだけ内部に関わりたいとは思わない。レトナーク王国に臣従しても、いろいろと指図を受けるつもりもない。あの辺りには民などいないので俺の好きにさせてもらいたい」
「……心配せずとも、あなたを政府に入れる気などさらさらない」
ファビオも、すこし心外そうな表情で答えるが、こちらは怒りを隠すのがクロエよりも遥かに上手い。特に一波乱あるわけでもなく、クリスは続けた。
「そして三つめは、勝手にスぺリナ川を越えてこないこと。何らかの理由で川を渡る際には必ず私に知らせてから渡るように。……この三つを約束してくれるなら、レトナーク王国に臣従してもいい」
飄々とした雰囲気でクリスはそう提案する。
「だが……、いいのか?」
気遣うような様子でアリシアは話しかける。アリシアはもっと目に見える形でクリスに恩を返したかったのだろうが、彼にとっては何もしないでいてくれることが一番の恩返しだった。
「ああ、名目上はあのあたりの領主にでもしてもらえれば。民がいないから納税はできないが、年に一体くらいなら竜を仕留めて持っていくよ」
その提案に玉座の間は驚愕に包まれる。あちこちで驚く声があがり、ひそひそ話が絶えることはない。クリスは何か様子がおかしいのには気が付くが、結局何に反応したのかは知ることが出来なかった。
「竜!」
竜種はミゼリティ大陸においてその圧倒的な力で神ともあがめられていた。竜はミゼリティ大陸にある西の山脈からほとんど出てくることはないが、数十年に一度、遠くまで迷い出ることがあり、その際には一匹の竜相手に都市が一つ壊滅することも珍しくなかった。そのため、ミゼリティ大陸では、人々は竜を恐れ、敬い、自らに災いをもたらさないように祈るのであった。が、もちろんそんなことをクリスは知らない。ただ竜のレベルが高く、討伐が困難であるため、素材が高く売れそうだからそう言っただけである。
普通なら竜を倒すなど、ただの妄言としか捕えられないだろうが、あの黒い騎士たちとクリスの強さを知っていた者たちは、もしかしたらできるかもしれないと考えた。もちろん実際に倒すことが出来るのだが、そのくらいドラゴンと言うものがこの時代の人たちに神格化されていたのである。
「静かにしろ! ……だが、そんなことをしてもらってはこちらが返せるものがない」
アリシアは困ったようにそう言った。彼女の義理堅い性格では、お礼をしなければ気が済まないのだろう。だが、クリスは静かに首を振ってこたえる。
「私は静かに暮らしたいだけだ。娘たちとね……。それを手に入れるために君に協力したに過ぎない」
そう言って後ろの女の子の頭をなでる。イヴはくすぐったそうに、しかし決して嫌がることはなく黙って撫でられていた。その髪は以前はストレートに下ろされていたが、最近はアリシアにそっくりのポニーテールになっている。
女の子が髪型を変えるのは失恋したときという嘘か本当か分からないような情報を聞いたことがあったクリスは心配して、イヴに髪型を変えた理由を聞いてみたがはぐらかされてしまった。
「分かった。その三つをレトナーク国王として、初代国王ヨシュア・レトナークに誓おう。他の者たちもそれで構わないな」
アリシアが周りを見回すが、異論のある人物は見当たらなかった。もちろんこの男が竜を倒すほどの力を持っているなら、敵に回したくないという思いもあったが、なによりアリシアがこれだけのリーダーシップを放っているので、それを邪魔したくない、というかできなかったからであった。
クリスは一人で城の廊下を歩いていた。これからマイホームに帰る予定である。しかし、いきなり【リターン/帰還】を使って帰ることもなんなので、少し城を見学してから帰ることにした。イヴも既にペンダントに込められている【リターン/帰還】の魔法を使って帰っている。イヴは、クリスを一人にすることに難色を示したが、クリスが一人でいろいろ見て回りたいというと渋々従った。
『エイジオブドラゴン』、七百年後の世界との違いを探しながら城を探検していると、後ろから誰かに声をかけられる。
「……あの!」
クリスが振り返るとそこにいたのは、銀髪を長く伸ばし蒼い眼をした、はかなげな雰囲気の少女であった。
「これは、エレミア殿下」
クリスは恭しく礼をする。エレミアはどうしていいか分からないように慌てていたが、いきなり頭を下げた。
「いえ、その、……あのっ、あ、ありがとうございました」
いきなりお礼を言われても、クリスは一体なにに感謝されたのか分からない。
「えーと?」
「あっ、すみません。あの、昨日助けていただきありがとうございました」
クリスはそこまで聞いて、ようやくクロード・ビュリダンの凶刃から助けたことについてお礼を言われているとわかった。
「ああ、別に大したことではありませんよ。怪我がなくて何よりです」
そのまま沈黙が流れる。クリスとしてはエレミアに特に用はないのでエレミアが立ち去るのを待っているのだが、エレミアはまだ何かあるのか立ち去らずにもじもじとしている。娘がそういう行動をしていると、なんとなく何がしてほしいか分かるようになってきたクリスも、この少女が何をしたいのかは分からなかった。
「おや、エレミア……とクリスか。こんなところで何をしているんだ?」
アリシアがクリスとエレミアの方に歩いてきた。先ほどまではやはり無理をしていたのか、二人を見つけると少しほっとした表情で力を抜いている。
「ああ、アリシアか。今エレミア様に助けたお礼を言われたんだよ」
クリスは友人に話しかけるように気安くアリシアに声をかける。つい数日前に初めて出会ったはずなのに、ずいぶん仲がいいようだ。それを見たエレミアはすこし悲しそうな顔をした。
「そういえば、私からもお礼を言ってなかったな。妹を助けてくれてありがとう。……君は本当に強かったんだな、クロード・ビュリダン相手に圧勝するなんて……」
「……まあ、それなりにはね。君の家族ならいつでも助けるから何か困ったことがあったらいつでも言ってくれ」
まるで二人の見えない絆を見せつけられているような気がして、エレミアはいたたまれない気持ちになる。もっといろいろなことお話したかったのに、これで終わりなのだろうか。それはいやだ。エレミアは意を決したように面を上げると、口を開いた。
「あの! その、……私もエレミアって呼んでください」
エレミアの声はどんどん小さくなり、最後には消え入りそうなほど小さな声でそう呟く。しかし、アリシアはそんなエレミアの様子にとても驚いたようであった。
「え? でも……」
今更だが、クリスは王族に対してなれなれしく話すことに抵抗を覚えた。かといって、そもそも王族などと今まで会ったことがなかったので、どうすればいいのかは分からないが。
「別にいいじゃないか。女王である私のことだって呼び捨てにしてるんだし」
アリシアもれっきとした王族で、容姿も人並み外れており、性格も清廉潔白で一見敬遠されがちだが、どことなく気さくで親しみやすい雰囲気を与えるのも確かである。しかし、エレミアはまさに良家のお嬢様といった可憐で繊細な高嶺の花という印象を受け、いきなり砕けた言葉で話せと言われても気後れしてしまう。クリスがそんなことを思い、エレミアのほうを見ると、なぜか目に涙を浮かべながら上目づかいで見つめてくる。
「わ、わかったよ。よろしくなエレミア」
クリスがそう言うと、エレミアはうつむきながらコクリと頷く。アリシアはその光景を満足そうに見つめていた。
「っ~~~~~~~!」
その時のことを思い出し、エレミアは悶絶する。いきなり名前を呼んでなどと言って、変な子だと思われなかったかな、はしたない子だと思われなかったかななど永遠に答えの出ないことを悩み続ける。でも……そう、あの時確かに私はお姉様に嫉妬したのだ。あの方と親しげに話すお姉様に……。そう思うと、エレミアは姉に対して申し訳のない気持ちとこの気持ちをどうすればいいのかという気持ちと、心の中がぐちゃぐちゃになってどうすればいいのか分からなくなっていた。
「はぁ~」
エレミアは月を見上げながら大きなため息をつく。眠れない日々が続いていた。




