プロローグ
一人の女が森の中を走っていた。年齢は十八歳くらい、身長は百六十センチ前後、手入れをすればかがやくだろうくすんだ金髪は無造作に後ろでひとまとめにされ、顔も砂埃で汚れている。しかし、その翠色の目からは強い意志が感じられ、薄汚れてはいるが全身を覆う鎧や身に着けている剣とマントを見ても、その女が只者ではない雰囲気を推し量ることができる。
「はぁ、はぁ」
女は疲れてふらふらと歩くようなペースだったが、ついに走るのをやめ、近くにあった木に寄り掛かって座り込んだ。荒い呼吸を落ち着かせるように深呼吸をする。その場には女の荒い呼吸の音だけが響いていた。三分ほどが経ち、ようやく呼吸が落ち着いてくる。
「ふぅ……、とりあえずここまでくれば大丈夫か……。まぁ、魔の森にいる時点で大丈夫ではないんだが……」
女は自嘲するように言うとすぐに表情を引き締め、何事かに考えを巡らせていた。その顔には焦燥感が滲み出ており、手は血のにじむほど強く握りしめられていた。
「私はどうすればいい……母上、エレミア……父上」
女のすぐ近くで何かが木立の中を動く音がした。女が考え事をしていて接近に気付かなかったことを後悔しても遅い。すぐに息をひそめ、やり過ごそうとするが、木立の中の何かと目が合ってしまった。
「……っまずい!」
その木立の中のモンスターはゆっくりと木立から這い出してきた。木立に隠れていたその姿が白日の下に晒される。針金のような銀色の毛、地面を掻き毟る爪、開けられた口の中から覗く鋭い牙、全身を覆う体毛におおわれているが隠しきれていない強靭な筋肉。そのモンスターの名前はエンペラーウルフ、大きさは体長が三メートル、体高が二メートルほど、レベルは六十六、その女にとってはまさに死神にも似た存在であった。
「……くそっ!」
姿には似合わない悪態が口をついて出る。立ち上がろうとするが足は竦んでうまく動かない。剣を構えようとするが手が震えてなかなか鞘から引き抜くことが出来ない。ようやく剣を構え、狼のほうを見るが、女の前方五メートルほどのところで立ち止まりじっと女を見下ろしている。口角を吊り上げ、まるで、自らに恐れを抱いている弱者をせせら笑っているようだ。
「……あまり私を嘗めるなよ」
女は剣を構える。左足を前に、右足を後ろにし、相手に対して半身になる。剣の柄を肩の位置にまで持ち上げ、切っ先を敵のほうに向け、右の頬の横で剣を構える。
女は、一撃にすべてを込めるべく、集中する。狼は油断しており、こちらに攻撃を仕掛けてくる様子はない。二度目はない。相手が油断しているうちに一撃で葬り去る。女が生き残るにはその道しか残されてはいなかった。
「……ハァッ!」
一気に敵に向かって飛び出すとそのまま突きを繰り出すのではなく、剣を横に寝かせ薙ぎ払うように水平に切りつける。
狼は大きな咆哮を上げた。
「……くそっ……」
女の剣は狼の体に食い込むことはなく、狼の体の表面を滑るように駆けていった。表皮は浅く切り裂かれているが、その体は健在だ。狼はそれでも怒りの表情を浮かべている。もはや油断などは微塵もないだろう。
女が諦めかけたその時、すさまじい悪寒が女を襲った。目の前の狼とは比べ物にならない恐怖に、ただ地に伏せることしかできない。次の瞬間、何かが地に伏せた女の体の上を通過していった。静寂の中、恐る恐る女は頭を上げる。そこにあったのは相変わらずの狼の巨体。
再びあきらめかけたその瞬間、なにか大きなものが地面に落ちるどさりという音が聞こえた。狼をよく見ると、腹の部分が地面に落ち、内臓がばらまかれている。女の理解が追い付かないうちに、狼が崩れ落ちた。その死体は、腹の部分以外にも四肢も切断されており、地面から八十センチほどの高さから真っ直ぐ水平に一直線に切られたようであった。
「……えっ?」
その声とともに周りの木々も音を立てて倒れ始めた。何が起きているのか理解できず女が呆然としているが、その女を避けるように木々が倒れていく。木々の倒れる轟音が鳴りやむと、森の中から場違いのような声が聞こえてきた。
「さーて、どうかなー。アッタリかなー、ハッズレかなー」
「あぶないからやめましょうよ、もしだれかいたらどうするんですか」
「えー、大丈夫でしょ」
遠くから場に似合わない少女たちの声が聞こえてきており、その声はだんだん女のほうに近づいてきた。女がどうすればいいのか決めかねているうちに胸当てをつけ、剣を持った二人の少女が現れた。十歳ほどの少女が胸当てをつけ、剣を持っている状況に、女の思考は一瞬停止してしまった。
「おー、アッタリー!。エンペラーウルフ討ばー……つ……。おわぁっ!人間だ!」
中黄色の髪でロングヘアの天使かと見まごうばかりの可愛らしい少女が女を見つけ、驚いた様子で言った。
「大丈夫でしたか!けがはありませんか!?」
深褐色の髪をおさげにした同じく人間とは思えないほど可愛らしい少女が心配そうに女に尋ねる。
「……あ、あぁ大丈夫だ、なんとかな。……それよりこれは君たちがやったのか? それなら助かった、礼が言いたい、ありがとう」
女は動揺を隠して少女たちに言った。常識的に考えれば、剣を持ち、鎧を着けているとは言うものの、こんな可愛らしい子たちがこんな惨状をもたらすことなどできそうにないが、なぜかこの子たちがやったのだろうという確信めいたものがあった。そして、自身の暗雲の立ち込めていた未来にかすかな光が差し込んできたことも感じていた。
「これって、エンペラーウルフ倒したこと? それとも木を切ったこと? まあどっちも私がやったんだけどね」
金髪の少女は自慢げに言う。そんな金髪の少女に対して、黒髪の少女は冷静に言い放つ。
「なんで自慢げにしているんですか、ケレス。このことはお姉さまに報告しますから」
「そんな! 助けてあげたじゃん! ……ね、そうだよね?そこの人」
ケレスと呼ばれた金髪の少女は助けを求めるように女に言うが、黒髪の少女はまったく取り合わなかった。
「問答無用です」
「そんな~ユノ~頼むよ~」
ケレスはユノと呼ばれた少女に縋り付き、子供が駄々をこねるように、胸当ての下についている、前の開いたスカートのような部分を引っ張っている。その子供らしい姿に女は張りつめていた緊張を解き、かすかに微笑んだ。
すると再び木立の中から音がした。黒髪の少女が女をかばうように前に立つ。木立の中から出てきたのは再びエンペラーウルフだった。エンペラーウルフはすぐ近くに転がっている死体を見てから、こちらを向いた。どうやら仲間を殺されて怒っているらしい、……もしかしたらつがいだったのかもしれない。
「また、あたしが倒すね」
金髪の少女は縋るような目つきで黒髪の少女を見る。このモンスターを倒すから報告はやめてもらいたい。そんな無言の懇願が見え隠れする顔であった。そのまま少女は剣を構える。左足を前に、右足を後ろにして半身に構える。剣を地面のほうに向け、自分の後ろの方に切っ先を向ける。一瞬の間の後、少女の剣が閃き、エンペラーウルフが再び横に両断される。その光景を女は畏敬の念をもって、目に焼き付けていた。
「あのー、それでこんなところでいったい何をしていたんでしょうか? お父様に会いに来られたんでしょうか?」
黒髪の少女は多少警戒感を出しながら、女にそう尋ねた。
「お父様? 君たちの父親がいるのか? ならばぜひお会いしたいんだが」
女は見つけたかすかな希望を見失わないように食いつく。この少女たちを味方にできれば……。とりあえず焦りは禁物だと思い、少女の言う父親に会って助力を乞うことにした。
「……そうですか。なら少し待っていてくださいね」
そう言って黒髪の少女は虚空を見つめたまま動かない。女も、黒髪の少女が何をしているのかは分からないが、できるだけ気分を損ねるようなことはしたくなかったので、大人しく待っていた。ちなみに金髪の少女も、黒髪の少女の気分を損ねないように静かにしていた。そしてそのまま三分が経過した頃、黒髪の少女は再び女の方を向いて話し始めた。
「お父様がお会いになるそうです。それでは行きましょうか」
そう言って黒髪の少女はさっさと歩き出してしまった。女は遅れないように慌てて歩き出す。金髪の少女も足取りは重いがついてきた。女はさっきの黒髪の少女の行動が気になったので直接尋ねてみた。
「なあ、さっきは何をしていたんだ?」
「私たちはお父様とは連絡を取る方法がありませんが、姉妹同士なら遠距離でも連絡が取れます。さっきのは姉に連絡を取っていたのです」
「……そうなのか」
その後は、女が驚くほど大きく立派な屋敷につくまで一切会話がなかった。




