プロローグ
男が眠っていた。その男は年齢がニ十歳前後だろうか、黒い髪に中肉中背の体。決して不細工というわけではないが、美男子というには少々冴えない容姿をしている。
一方、凡庸な容姿の男とは対照的にその部屋はとても絢爛豪華であった。広さは三十畳ほど、天井からは大きなシャンデリアが吊り下げられ、男が眠るベッドは人が三人は優に眠れるほど大きく、床に敷かれた赤い絨毯は幾何学文様なデザインが編み込まれている。壁紙と家具は黒を基本にところどころ金色がちりばめられ、部屋全体の印象としては、黒・金・赤でまとめられた、調度品まで含めるとどれほどの値段がするのかわからないほど豪華な部屋である。
「……うぅん?」
その男は目を覚まし起き上がると、しばらくボンヤリとしていたが、おもむろにベットから立ち上がり、金で縁取られた黒く丸い木のテーブルの前まで歩いていった。テーブルの上にあった銀色の水差しからコップに水を汲んで飲み干し、一息ついてから呟いた。
「……どこだよここ」
男がキョロキョロと周囲を見渡してもあるのは豪華な調度品の数々。窓の外から差し込む朝の光に照らされた部屋の中は、どこかで見たことがあるような気もするのだが、寝起きの回転の悪い頭では思い出せない。男はなぜ自分がこんなところにいるのか、まったくわからなかった。
「……少し落ち着こう。まずは俺の名前は……?」
その男はベッドに戻り、座ったまま頭を掻きながら、自らの名前を思い出そうとしたが、どうしても思い出せなかった。家族や友人のことは名前も顔も思い出せるのに自分の名前だけが思い出せないのだ。
「いや待て、落ち着け、落ち着け。まずは、俺が住んでいたところは……そう、こんなどこぞの貴族の寝室みたいな立派な部屋じゃなかったはずだ。俺が住んでいたのは1LDKのアパートで家賃は五万円だった……。それから昨日は……昼まで大学に行って、その後ずっとゲームをして寝たんだったな」
そのほか自分に関するいろいろなことを思い出すことができたものの、どうしても自分の名前だけは思い出すことができない。その代わりに思い出せるのは、「クリス・ピグマリオン」という名前だけだ。
「クリス……、クリス・ピグマリオン。……そうだ、その名前は『エイジオブドラゴン』でのプレーヤーキャラにつけた名前じゃないか。じゃあここは……」
そう思い、周囲を見回すとその部屋は『エイジオブドラゴン』という、昨日就寝するまでやっていたゲームでの自分の家、マイホームの寝室であった。ベッドもシャンデリアも絨毯も、内装はすべて自分で決め、ゲームの中で作り上げた部屋である。いつもは画面の中でしか見ていなかったので気が付くのが遅れたのだった。
「どうなってんだよ……」
自分が今いる状況が理解できず、その男がしばし呆然としていると、ノックの音がして、誰かが部屋の中へと入ってきた。
「おはようございますお父様。もう起きていたんですね」
その少女は年齢が十二歳くらい、身長が百四十センチ前後で、艶やかな黒髪を腰のあたりまで真っ直ぐにのばし、透き通るような白い肌に赤い目をした、とても可愛らしい少女であった。黒の生地に白いフリルのついたメイド服のような服も、少し背伸びをして着ているようで、愛らしさを引き立てている。戸惑う男に対してやさしく天使のように微笑みかけていた。
「……お父様?」
その少女の言ったことが理解できず、男はおうむ返しのようにつぶやいてしまった。すると少女は首をわずかに傾げ、不思議そうな顔を浮かべる。
「……? どうしたんですかお父様。もう朝食の準備はできていますが、どうしますか」
「いや大丈夫、食べるよ。……ありがとう、イヴ」
男は感謝の言葉を述べ、少女に向かって微笑んだ。
「そ、それでは、朝食を用意しますね。準備が出来たら食堂まで来てください」
そう言うと、くるりと背を向け少女はパタパタと駆け足で部屋を出ていった。その足取りは軽く、喜びを隠しきれていなかったが、残念ながら男はそれに気が付くほどの精神的な余裕を持っていなかった。
「……どうなってんだよ」
再び一人になった部屋で、男はベッドに倒れこみながら呟く。どうやらその男はゲームの世界に来てしまった上に、父親になってしまったようであった。