改札と転倒
「ふあっ!?」
目覚まし時計が突然けたたましく響き、驚いてベッドから転がり落ちた。
「……いってー」
しかも寒い。ベッドから毛布を剥ぎ取って体に巻き付ける。
そのまま、のそのそ床を這って机に近づき、床に這いつくばったまま机の上に置いてある目覚まし時計に手を伸ばす。正確な位置がわからず、机をバシバシ叩いていたら、運良く目覚まし時計を止めることに成功した。
「……」
朝だ。朝。昨日の朝から寝続けて、目覚まし時計が鳴ったということは睡眠時間は約22時間か。おかげで体調も随分良くなった。頭痛も顔の痛みもない。
昨日に比べて軽くなった体を動かし制服に着替える。昨日と変わらず寒い。今日はマフラーを忘れずに行こう。
あれ?そういえば目覚まし時計はいつセットしたんだ?……まあ、無意識のうちにセットしたか、母さんがセットしたんだろう。
……制服も昨日、帰ってから脱ぎ散らかしたはずだけど。きっちり畳んでいつもの場所に片付けてあったし、母さんだろう。
「ソークール。プリーズ…ぬくもり〜」
つまらないことを考えている間にすっかり体が冷えてしまった。
ぬくもりって英語でなんて言うんだっけ?とか考えながら部屋を出て階段を下りる。リビングに行けば、先に起きた母さんが部屋を暖めているはずだ。
「珍しいことも、あるもんだね」
リビングは寒かった。理由は母さんの寝坊。一日でも珍しいのに二日連続なんて珍しいどころの話じゃない。僕の記憶の限り、二日連続の寝坊は初めてだ。
朝食を作ろうと思ったけど、昨日は朝食を作って時間ギリギリになったことを思い出してコーヒーを飲むだけに抑えた。行きのコンビニで昼飯を買わねばなるまい。
ちなみに僕はコーヒーにはミルクと砂糖を入れる派だ。ブラックで飲むと舌が痺れて頭が痛くなる。どういう原理かは不明。単純に苦い物は苦手だし。
今日も砂糖たっぷりコーヒーで体温を上げて準備万端。その他の準備も終えてマフラーを巻いた。
「いざ、出立」
支度の間、母さんが起きてたら絶対に言えないような一人言全開だった。母さんじゃなくても知られたくないから割愛するけど。
玄関を開けると外の空気が流れ込んで来て寒い。でも今日はマフラーをしてるから平気!なわけない。寒いものは寒い。
昨日と同じで石畳はバリバリ音を立て、国道に出るまで誰とも出会わない。
国道を駅に向かっていても昨日見た赤い高級車とはスレ違わなかった。まあ、そう続けて会えるもんでも
「おっ!」
と思ったところで例の高級車に追い抜かれた。
そうか、昨日より家を出た時間が早いから高級車が後から来たのか。ってことはあの車に乗ってるシャチョさんは昨日と全く同じ時間にこの道を通ってるってことになる。……たまたまか。
また高級車に見とれそうになり、昨日の二の舞にはなるまいと歩を進める。まあ、今日は電車の時間まで余裕がある。
悠々と駅のホームに入る必要はないから、とぼとぼといつも通りに駅に入った。
階段を降りて、ここを右に曲がったら改札なわけだけど、今日は油断しない。昨日はひどい目にあったからな。
ソワソワと我ながら気持ち悪い動きで四方八方に警戒していると、トイレから離れれば十分じゃね?と気付き、通路のトイレと反対側を歩いた。
そこで、二日連続であんな悲劇に見回れることなんてないんだから気にする必要なくね?って気づいたけど、今更わざわざトイレ側を歩く必要もないからそのまま歩いた。
ソワソワするのは止めたけど、なんとなく居たたまれない気持ちになった。
現実から目を反らすように前を向くと、「きゃあっ」って改札手前で転けてる人が見えた。ホント、アニメやマンガみたいな転び方で、すってんって効果音が聞こえてきそうだった。
人間、あんな転び方する方が難しいだろ。受け身とれ。
突然転けた人間に周囲の人は、歩くのに迷惑だと言わんばかりの視線を向けている。
転げたのはどうやら女性のようで、黄色いコートとピンクの手袋が目立つ。
……どこか見覚えのある感じの服装だと思いませんか?そうです。アミバ様です。アミバ様が無様に地面に這いつくばって道行く人に無視されています。
クソ女ことアミバ様を見た途端、僕の頭の中には様々な考えが巡った。その中でも、ファミレスで食い逃げしやがったことが一番だった。
「クソ女、五百円返せ」
顔面に膝蹴り入れやがったことはこの際、事故だったと不問にしてやろう。
無様に地面に座り込み、コートの泥を払い除けているクソ女にずんずんと歩み寄る。このまま蹴り倒してやろうか、とか考えていたけど、周りに無視され続けるアミバ様があまりにも不憫だった。そう思ってしまった。だから、僕は余計にも「大丈夫か?」とか言って手を差し出してしまったのである。
アミバ様…もう様付けやめよう。アミバは初め驚いた顔で僕をまじまじと見つめ、やがて僕の腕を掴んで立ち上がった。
「やっぱり、こうやって出会うと優しいのにね」
「はい?」
何の話?『やっぱり』?
「あ〜、ありがとね。じゃあ、またいつか〜」
アミバが手を振ってさっさと去ろうとする。ちょっと待て。
「おい、待てコラ。五百円返せよ」
「……は?五百円?」
すっとぼけやがってこんにゃろーめ。
「昨日ファミレスで僕が立て替えた分だ。ドリンクバー百五十円、チョコレートパフェ三百五十円、計五百円也!」
ちなみにドリンクバーの単品は二百円。何か他の商品と合わせると百五十円に値引きされる。
「き、昨日の、ファミレス……」
「忘れたとは言わせんぞ」
本当は忘れてしまいたい過去だけど。金を徴収するまで忘れるわけにはいかない。徴収が済んだら五歩歩く間に忘れてみせよう。
「お、覚えてんの?」
だから言ってんだろ。
なんだ?実はガムシロップに記憶を消す薬でも混ぜて飲ませてましたってか?
「今日、何月何日?」
なぜ今それを聞く。自分のケータイなり、電工掲示板見れば一発でわかんだろ。
「二月…三日」
それでもわざわざポケットからケータイを取り出して、確認して、アミバに教える僕はなんなんだ。
っていうか、あれ?昨日が三日だった気がするけど。まあ、気のせいだろ。じゃないと困る。
「二月、三日?本当に、三日?」
「ファイナルアンサー」
「……………嘘………」
少しはノってくれてもよかったのに、スルーとは。まあ、わざわざ掘り返したりしないけど。
「そう思うならあっちの掲示板とか確認しろ。僕のケータイが狂ったんじゃない限り、今日は二月三日だ」
「先に聞くけど、あんたは昨日、のこと全部覚えてんの?」
アミバが僕の両肩を掴んで、前後に揺さぶってきた。首がガクガク揺れて気持ち悪い。
「そりゃあもう。膝蹴りから食い逃げまで、アミバの悪行は全て記憶に残っております」
むしろあれを一日で忘れる方が難しいだろ。もし忘れられる奴がいたらそいつは本物の馬鹿だ。記憶力に関して鶏頭の異名を差し上げたい。間違っても聖人じゃないぞ。
いないだろうけど。こんな経験する奴は滅多に。
「じゃあ、レイジも……」
「えっ?……おい?」
アミバが僕を揺らす速度がゆっくりになり、やがて止まった。その時のアミバは本当に、本当に心底これでもかって程似合わないことに、目に涙が浮かんでいた。ただ、涙は浮かんでいるけど、少し嬉しそうな表情にも見えた。
でもなぜだ。僕が泣かせたみたいじゃないか。
「えっと……あ〜、……五百円は?」
うん。我ながら空気読めてないな。でも、今日が二月三日だからって泣き笑いするようなアミバにかける言葉なんて思いつかない。
せいぜい「なにがお前をそこまで変えたのだ!?」くらい。そっちの方がダメだろ。今はふざける場面じゃありませんよ。
「嘘……嘘……嘘!」
「おい!?」
叫んで、アミバが突然、外に繋がる階段に向かって駆け出した。
「五百円は!?」は場面にそぐわないから絶対に言わない。ただ、言わないだけで思ってるから後を追いかける。
このままほったらかしにするのも後味悪いし。
だって、泣いてる女の子だぞ。いくらアミバでもほっとけない。
アミバは振り向きもせず階段を駆け登って行った。
「おい!待てって!」
『一番乗り場に電車が入ります。危険ですので黄色い線までお下がりください』
僕も階段を上がろうとしたところで聞き慣れたアナウンスが響いた。
アナウンスに気を取られ、アミバを追うか学校に行くかを少し悩んだ。悩む間に電車が入り、アミバは階段を登り切った。
「やっぱり追うよな」
結局、階段を登り始めた。
追いかけたら電車は間に合わない。でもまあ、どうせ昨日は無断欠席したし、今日の遅刻くらいなら平気だろ。
五百円返して欲しいし。
階段を急いで駆け上がりアミバを探す。視界に写った黄色いコートはちょうど、ホームの入り口を出て行くところだった。
……なんで、あの人は走ってるんですか?今日が二月三日だから?どんな理由だよ。
本意はわかり兼ねますね。
「かーねかえせ〜」
小走りで追いかける。
入り口にたどり着き、辺りを見回す。黄色いコートが国道を真っ直ぐ走り去って行く。「何であんなに元気なんすか……」
流石はアミバ。似非神拳を使うだけのことはある。それでも所詮は自称天才の落ちこぼれ人間。空は飛べないようだ。
まだまだ、ヤムチャへの道のりは遠いな。
「でも、速いな……」
ぼんやり見てたらあっという間に距離が開いてしまった。この距離を詰めるのはめんどくさいな。
「もう………いっか」
五百円、もったいないけど。ここは五百円玉を自販機の下に落としてしまったんだと諦めよう。ほら、そう考えると割と諦めつき易いよ。
国道に出て来て思い出したけど、コンビニで昼食買ってかないといけない。朝昼抜きは結構ツラい。昨日も寝ていたとはいえ朝食しか摂ってないし。
「おにぎりかパンかはたまた弁当か……」
ゴミがあまり出ないパンが良いかな。美味しそうなのがなかったらおにぎり。弁当は美味しそうなのがあったらで。
次の電車まで十五分弱。乗り遅れるわけにはいかないな。昨日は無断欠席したから、今日の遅刻が遅れすぎると担任の逆鱗に触れる可能性がある。今日くらい真面目に登校するのが理想だったが、まあ仕方ない。過ぎたことをいつまでも考えるだけ無駄だ。やり直しが効くなら別だけど。
やり直しの効く生活なんて、僕は生憎と送っていない。だから僕は過ぎたことに固執しない。できない、とも言うけど。