第5話
「見覚えがある? あはは――そんなわけないでしょ。あはは……人違いだよ、だって人間なんてみんな似たようなものでしょ? 腕が二本あって足が二本、あはは……」
私は慌てて手を伸ばし、人形を奪い返した。
「そうか……ただの小さな人形だしな。私が気にしすぎただけね……」
紗月は小さく息を吐いた。
「会長、先ほどのダンジョン攻略に問題が発生したようです。至急、現地での対応が必要とのことです」
黒いスーツ姿の部下が足早に駆け寄り、焦りを滲ませた声で紗月に報告する。
「今か?」紗月はわずかに眉をひそめた。「私は今、ようやく本部に戻ったばかりだ。まだ諸々の手配も済んでいない」
「緊急事態とのことです。A班のリーダーの判断では、会長ご自身に即時ダンジョンへ入っていただく必要があると。また、人数制限の関係で、単独での突入が望ましいとのことです」
「私が、ダンジョンに……?」
紗月は私へ一瞬だけ視線を向けると、すぐに傍らの女性へと命じた。
「七瀬。彼女を本部へ連れて行け。私の部屋に寝具を一式用意しておけ」
「承知しました」
――ちょっと待って。
紗月の部屋!?
寝具を追加って……それってつまり……
「いいか、部屋は必ず封鎖しろ。決して誰も彼女に接触させるな。極めて危険な存在だ」
紗月は秘書を脇へ呼び、低い声で厳しく言い含める。
秘書はわずかに眉をひそめた。
「失礼ながら、会長。彼女がそこまで危険とは思えません。契約対象について、再考の余地があるのでは」
「第一魔王は擬態に長けている。油断した瞬間から、精神を侵されると思え……警戒は一切緩めるな」
「ですが、彼女は魅惑を使えないように見えました。先ほど会長が命令を使った際も……成功していたようには、とても」
「相手は伝説の最強魔王だ。命令が通じなかった可能性もある。外見に惑わされた結果、支配されたあとで悔やんでも遅い」
「……承知しました」
私は、何も聞いていないふりをした。
こんなときに「実は耳が良すぎて全部聞こえてました!」なんて言ったら、余計に警戒されるだけだよね……
ああ、もう。困ったな。
「魔王様。会長は急用のため離席されます。こちらへどうぞ」
秘書のお姉さんが、軽く頭を下げて私を促す。
紗月はそのまま車で去っていった。
……なんだろう。
少しだけ、ほっとした。
今の紗月は、どこか圧がある。
昔の記憶の中の彼女は、もっと穏やかで――本を読むのが好きで、挨拶するだけでも照れてしまうような、そんな女の子だったのに。
それが今は、私に他人を魅了しろなんて命じるなんて……
「へえ、本当に置いていったのね。あの子」
不意に、遠くから声が届いた。
「っ……!」
秘書――七瀬の表情が一変し、即座に腰の刀へ手をかける。
石畳に、ヒールの音が響く。
コツ、
コツ、
コツ――
その一歩一歩が、まるで心臓を踏み鳴らすみたいに重く、鋭い。
「七瀬……凛、だったかしら。その刀、しまいなさい。あなたたちの会長でさえ、正面から私と戦う気はないみたいね。だから、そこの可愛い子に魅了させようとしたのでしょう?」
女は一歩、ゆっくりと踏み出す。
「あなた……どこからそんな勇気が湧いたの?
私の前で――刀を抜くなんて。」
その瞬間。
空気が、凍りついたみたいに固まった。
見えない圧が、七瀬の手を刀の柄へと縫い付ける。
抜こうと力を込めても、指先ひとつ動かない。
幻覚の中で、毒牙が喉元に迫っていた。
一瞬でも動けば、即座に貫かれる――そんな確信だけが、脳を支配する。
動けない。
動けるはずがない。
「え? なんでみんな動かないの?」
私はきょとんと周囲を見回した。
コツ、
コツ、
コツ――
ヒールの音は、なおも近づいてくる。
すぐそこは人の集まる区画のはずなのに、その喧騒すら、この気配をかき消せない。
そして。
ゆっくりと、私の前へ歩み寄ってきたのは――
黒巳冥華。
「小狐ちゃん~~」
冥華は舌先で唇をなぞった。
その視線は、隠しようもないほど貪欲に、私へと絡みつく。
「言ったでしょう? また会えるって~」
まずい!
あの毒蛇だ!
何をする気か分からないけど――
この状況で取れる行動は、一つしかない!
逃げるんだよ!
私は踵を返して走り出した。
――けど。
「うっ――!」
首筋に、じわりとした痺れが走る。
それは瞬く間に全身へと広がっていく。
やばい。
前に捕まったときの……あの場所だ。
毒……?
視界がぐらりと揺れる。
足に力が入らない。
そのまま、私は後ろへと倒れ込んだ。
「――ッ」
耳元で、蛇が舌を鳴らすような音がした気がした。
すぐ近くで。
ふわりと。
ありえないほど柔らかい感触が、私の体を受け止める。
甘くて、けれどどこか危険な香りが鼻をくすぐる。
指先が、頬をなぞる。
そして――身体が浮いた。
抵抗なんて、できるはずもない。
私はそのまま、抱き上げられる。
「どうやら~」
「……もう逃げられないわね。」
「あなたは――私のもの。」
「ねえ、小狐ちゃん♡」




