第1話
――かつて、彼女は十の国を滅ぼした。
――神界は彼女を巡る争いによって廃墟と化した。
――その姿を一目でも見た者は魂を奪われ、忠実な僕となる。恋人も、家族も捨て、いつでも彼女のために命を差し出す。
それが、その魔王にまつわる伝説。
究極の美、究極の災厄――。
「魔王様! また勇者が一人、失踪しました! 残された手紙には、あなた様の魅惑を受けたと……さすがでございます!」
「魔王様! 聖光帝国が財政破綻しました! 国王があなた様に魅了され、ご機嫌取りのために奇妙な建造物を次々と建てさせたとか……さすが史上最強の魔王様!」
「………………」
部下たちの報告を聞きながら、私はいつも通り、感情の読めない無表情を保っていた。
まるで全部お見通しだと言わんばかりの顔で、じっと報告に耳を傾ける。
もしこの世界に転生したばかりの頃に、こんな意味不明な濡れ衣を着せられていたなら、多少は腹も立ったかもしれない。
でも今は――もう完全に慣れてしまった。
どれだけ完璧なアリバイを提示したところで、誰も信じないのだ。あの伝説の「傾国の狐姫」が、実は自分の巣に引きこもってるただのオタク狐で、日々の最大運動が猫じゃらしで遊んだりハムスターの回し車を回したりするくらいだなんて。
魅惑スキル? 一応あるけど――
生まれてから今まで、一度も使ったことないんだけど!
本当に、一度もないんだからね!?
「魔王様、もう一件……」
「ん?」
「最近、失踪者が増えています。光明帝国の大祭司が占術で調べたところ、勇者と同様に“別の世界”へ召喚された可能性が高いと……その世界の名は――」
「地球、だそうです」
「ぶっ!?」
地球。
まさか、異世界でこの単語を聞くことになるなんて。
ぼんやりと、あの日のことを思い出す。
私は、ずっと片想いしていた女の子を助けて――そのまま、犯人に殺された。
運が良かったのか、それとも最悪だったのか。
転生自体は成功したけれど、待っていたのは異世界ハーレムなんて甘い展開じゃなかった。
代わりに私は――
「文明崩壊級の災厄」と呼ばれる存在へと、TSしてしまった。
狐姫に。
この世界に来てからもう長い。地球の記憶のほとんどは、霧のように薄れてしまった。
でも、あの子の顔だけは、消えない。
死の間際、彼女は私を抱きしめて、泣いていた。
あのとき、やっと知った。
――彼女も、私のことが好きだったんだって。
もっと早く言ってくれればよかったのに。
……いや、いいや。もう考えるのはやめよう。
どうせ今の私じゃ、外にも出られないし。
外に出れば、連絡先を聞かれるか、勇者に討伐されるかのどっちかだし。
狐生……これ、詰んでない?
「魔王……魔王様?!」
耳元で、驚いた声が弾けた。
まださっきの話の衝撃から抜け出せていないのに、気づけば足元に、きらびやかな光が浮かび上がっていた。
この紋様……召喚陣。それも、“契約”を伴うタイプ。
陣の向こうに、別の世界の輪郭が揺らぐ。
見覚えのある高層ビル。見慣れた街並み。
そして――
その向こうにいる、召喚者の顔を見た瞬間。
呼吸が止まった。
……紗月?!
まさか。
神代紗月。
あのとき、彼女を助けた瞬間に、すべては終わったはずだったのに。
それなのに――
私は今、彼女に呼び戻されている。
胸がぐちゃぐちゃになる。
嬉しいのか、怖いのか、わからない。
でも、紗月はあの頃のままだった。
どうやら時間の流れは違うらしい。地球では、まだ三年しか経っていない。
目の前の大型スクリーンが、それを示していた。
……三年。
たった三年?!
でも、雰囲気は少し変わっていた。
冷たいというか、鋭いというか……なんというか、妙に洗練されている。
まるで裏社会の女王みたいな。
……いや待って。
まさか本当にそっちに行ってないよね?!
それはダメなやつだから! 後でちゃんと説得しないと!
まあ、今の私の姿じゃ、たぶん気づかれないだろうけど。
でも、帰れるのは悪くない。
少なくとも、地球なら魔王扱いはされないはず……たぶん。
ジジジジ――ン……
浮遊感。
転移の光が、極限まで高まる。
やばい、早い。
心の準備、まったくできてないんだけど?!
正体を明かす?
信じてもらえる?
異世界転生して、しかも狐姫魔王になりました、って……どう考えても頭おかしい話でしょ。
しかもその魔王、評判最悪だし。
それに――
もしかして、もう彼氏とかいるかもしれないし。
そうなったら契約関係とか、絶対気まずいし。
どうしようどうしようどうしよう――!
◇
「我が召喚に応えよ! 第一魔王――エイヴェリア! その真なる姿を現せ――!」
ブゥン――!
光が、妖しく形を成していく。
まず顕現したのは、完全に揃った九本の尾。
白蛇のようにしなやかに、絶対的な曲線を描きながら絡みつくそれは、まだ完全に降臨していないにもかかわらず、周囲の者の心拍を乱し、抗いようのない所有欲を抱かせていく。
次に――
純白の、汚れなき足先が、空中にそっと現れる。
地面に触れることなく、わずか数センチ上で、静かに聖なる波紋を広げた。
そして、細く、儚く、誰もが守りたくなるような腰のライン。
風に揺れるドレスがふわりと舞い、ゆっくりと落ちる。
最後に現れたのは――
傾国にして、災厄そのものと称される、完璧な容貌だった。
「……綺麗」
同じ女性である神代紗月でさえ、思わず見とれて呟いてしまう。
それは、息を呑むほどの圧倒的な美ではない。
むしろ逆。
嫉妬も拒絶も生まれない。
空気のように、世界に溶け込む美。
最初からそこにあったかのように、人の心と夢の中に住んでいた存在が、今、形を得たかのような――そんな美だった。
この姿を見れば、誰もが噂を信じるだろう。
見た瞬間に、すべてを奪われる――その伝説を。
ただし――
その「最強の災厄」は――
なぜか、ひどく戸惑っていた。
◇
どうしようどうしようどうしようどうしよう!?!?!
紗月とどう向き合えばいいのか、全然考えてないんだけど!!
急すぎるって!
全部急すぎるって!!
ていうか、なんで地球に召喚陣あるの!?
地球どうなってるの!?!?
「……無垢な表情で擬態するとは。さすが第一魔王。人の庇護欲を煽る術に長けているな」
え?
なに?
誰の話――って、えええ!? 私!?!?
ぽかんとして数秒。
やっと気づいた。
今の、紗月の声だ。
「ち、違うよ!? その、紗月――」
「召喚は成功した。ならば、始めよう」
始める?
何を?
きょろきょろと周囲を見渡して、ようやく気づいた。
黒スーツの男たちが、ずらりと並んでいる。
完全に、物騒な空気。
その向こう。
一人の女が立っていた。
同じ黒スーツ。でも、明らかに“格”が違う。
首元の蛇のタトゥーをなぞりながら、愉しげに、そして獲物を見るような目で、私を見ている。
……いや、怖い怖い怖い。
「第一魔王、エイヴェリア。契約者――神代紗月の名において命じる」
!?
額が熱い。
魔力回路が高速で走ってる感じ……これ、契約の強制!?
「……魅惑を発動しろ」
え?
「目の前の女――黒巳冥華を、堕とせ」




