読書について
その日は、人がまったく来なかった。
普段であれば、一晩に一人か二人くらいは来るのだが、天候に恵まれていながら、喫煙所の男は無聊を持て余していたのである。
来客がなくとも、時が立てば体が煙草を求めるのが愛煙家の性である。男はコートのポケットから赤いフィリップモリスの箱を取り出して一本咥えると、マッチを走らせて軽妙な音を立てた。
赤い火が灯り、煙草の先から白煙を上げると、再び喫煙所の男はコートのポケットに手を伸ばす。文庫本を取り出して、喫煙所の端にある外套の光を頼りに文字を追った。
煙草を半分ほど吸い終え、頁をめくりかけた時に、折り悪く来客があった。
「なんだ、読書中かい?」
青デニムのズボンに黒いシャツ。その上から、シャツよりもさらに濃い黒の革ジャンを羽織った女性である。喫煙所の男には馴染みのある、常連客であった。
といって、喫煙所の男はこの女性のことなどほとんど知らない。分かっていることといえば、おそらく飲み屋の店員らしいということと、未婚で、男日照りであるらしいという程度である。
齢の頃は、見た目だけで判断するのであれば三十路くらいだが、女の齢を見た目で判断するというのは、腕のいい贋作師が作った宝石を見抜くことよりも難しい、というのが喫煙所の男の考えである。
そもそも、特に詮索するつもりもないので、革ジャンの女は、時折やってきては客の愚痴を零していく人、というくらいの認識であった。
「まあね。今日は暇なんだ。煙草が値上がればやめるなんてのは、喫煙者が多用するジョークだと思ってたんだが、こうまで高騰激しいと、実現に移す奴もいるらしい」
わざとらしく肩を竦めながら、喫煙所の男は紫煙を吐く。話しながらも、本を読む手は止まっていなかった。
「しかし意外だな。アンタが読書家だったとは」
「いいや、別にそんなことはないさ」
「わざわざこんな薄暗いところで本なんか読んでるくせにか?」
「本を読むのは、創作を楽しむ手段の一つに過ぎないよ」
吸い終えた煙草を灰皿に落とすと、喫煙所の男は左手で本を開きながら、右手一本で煙草の箱を取り出した。口で迎えにいき、一旦箱をしまうと、取り出したジッポライターで火をつける。
「なんだよアンタ、マッチに拘りがあるんじゃなかったのか?」
革ジャンの女性にとって、喫煙所の男が火をつける手段は、いつもマッチであった。読書と並んで既に二つも、珍しいものを見たことになる。
「確かにマッチの火は好きだが、絶対じゃない。マッチも所詮、火をつける手段の一つだからな。マッチはいずれ尽きるものだが、体が煙を欲したら、吸わないという選択肢なんてないのが私たちだろう?」
「断言してやるよ。アンタ絶対、飛行機とか新幹線乗れないだろ?」
「誰があんな鋼の牢獄になど乗るものか」
喫煙所の男は、語気を強めて言い切った。きっとこよ男にとって令和という時代はさぞ生きにくいことだろうなどと考えてから、革ジャンの女は話を戻す。
「それで、さっきの話はなんなんだよ?」
「さっきの話?」
「ほら、アンタが読書好きじゃないってやつだよ」
ああそれか、と、男は文庫本を閉じて顔をあげる。どうやらきりのいいところまで読み終えたらしい。
「この小説は、映像化されていない」
「は?」
「そのままだよ。つまりこの物語を楽しむには、活字を拾うしかないんだ。無論、映像化されていたなら読まないということではないがね」
「なる、ほど……?」
一応、意味を理解しながら、革ジャンの女の歯切れは悪い。
「読書家というのは、言い換えるなら活字愛好家だ。私はそんな高尚な人間じゃないさ。ただその時々の気分で、好きなように物語を楽しんでいる。その数ある選択肢の一つに活字がある、というだけのことだよ」
「そういうもんなのか?」
「ああ、そういうものさ」
軽く笑って、喫煙所の男は灰皿に吸い殻を投げる。そして、次の一本を吸い始めた。自前の煙草である。
「さて、珍しく私の話を聞いてもらったからな。常連割引で、一本はまけておこう。どうせいつもの、酔っ払い客の愚痴だろう? 一本では終わるまい?」
「決めつけるなよ」
革ジャンの女は、声に少しだけ苛立ちを込めた。
「おや、違うのか? まあなんでもいいが、早く話し出さないと、折角のサービスタイムが終わってしまうぞ?」
そう急かされて革ジャンの女は、いつも通り、客の愚痴をこぼし始めた。




