後編
来ない土日は、静かだった。静かなのに、音はいつも通りにある。
バイタミックスの低い唸り。スチームの短い叫び。氷が砕ける乾いた音。
いつも通りに聴こえるはずの音が、その日だけ少しだけ遠い。
私は作る。拭く。並べる。呼ぶ。渡す。笑う。やることは同じだ。
同じなのにバーの目の前の席だけが、ずっと空いている。
空席は見ないようにしても見える。見えてしまうから、見ない振りが下手になる。
下手になると余計に自分が嫌になる。
──来ない日もある。
──たまたまだ。
──忙しいだけ。
──次は来る。
私は頭の中で勝手に台本を並べる。
並べた台本の最後には、いつも同じ言葉が残る。
――『もう来ない』。
その言葉を先に言っておけば来なかったときに衝撃が減る気がする。
衝撃は減らない。減らないのにやめられない。
「澪ちゃん、今日静かじゃない?」
お団子頭の栞さんが言う。
栞さんは、いつも軽い。軽いから助かる。
私は笑う。
「眠いだけです」
『眠い』は便利だ。理由が要らない。責められない。掘られない。
栞さんは不思議そうに首を傾げて──それ以上は踏み込まず、カウンタのダスタを取り直した。
その仕草が胸に残る。首を傾げられると私の中の何かが輪郭を持ってしまう。
──やだな。
──ラベルが増える。
「そっか」
栞さんは、いつも通りの声で言った。軽いのに、雑じゃない。
「じゃ、今日は私がうるさめ担当するね」
私は咄嗟に目を逸らす。
思い出す。誰かに言われた言葉。澪の話を聞いていると、こっちまで暗くなる──って。
その日、閉店作業の途中で私はゴミ袋の口をぎゅっと結ぶ。
結び目が固くなる。固い結び目は解き難い。
それがちょっとだけ自分の心に似ている。
次の土日。
乾いた風が混ざって、鈴が小さく鳴る。
ドアが開いた瞬間、私は反射で顔を上げた。
上げたことに自分で気付いて、直ぐ目線を戻す。
戻したのに、胸の奥だけが先に解ける。
来ると決まっていた訳じゃない。
決まっていないからこそ、来た瞬間に息が漏れる。
私はいつも通りの笑顔を作るのが一拍だけ遅れそうになって、直ぐに作る。
作った笑顔はパートナーの笑顔だ。
でも、その下にあるものは……今日は少しだけ熱い。
来た。
同じ注文。
同じ席。
同じ『ありがとー』。
私は楽になる。楽になる分だけ怖くなる。来ることが当たり前になりそうで怖い。
当たり前になったら、来ないことが痛くなる。
彼が、少しだけ言い難そうに言う。
「先週、来れなくて。ごめんね」
言い方が優しい。謝る必要なんて無い。
でも、謝ったという事実だけが私の胸の奥を熱くする。
私が待っていたことを見抜かれたみたいに感じる。
私は直ぐパートナーの言葉で受け取る。
「全然です。忙しかったんですか?」
「忙しいって言うか……」
彼は一瞬だけ躊躇い、打ち消し、応えた。
「友達と会ってた」
その言葉は、ただの説明のはずなのに。私の中で変に響く。
私は──彼の目と口元が、何かを求めていることに気付いてしまった。
求めている、というより、確認している。
自分の言葉がこちらにどう落ちるか。刺さらないか。変な影を落とさないか。
私は、その確認を受け止める。受け止めて、正解を返してしまう。
「友達、居るんですね」
言葉尻だけで聞けば、意地悪だ。第三者に聴こえたら怖い。
でも私は確信している。これは彼になら言える。言って構わない。
そして、彼の言葉が私の心を掴まえた。
「そんな、友達居ないみたいな言い方しないでくださいよ」
──それは私がいつか、彼に言った台詞、そのままだった。
彼は私の言葉を覚えている。覚えているのに押し付けない。揶揄わない。
ただ、そのまま返す。
その瞬間、私は気付く。
彼がやっていたことを、私もやろうとしている。
事実を、そのまま受け止める。
来ない土日があったことも。
友達が居ないことも。
私が気にしていたことも。
受け止めると、少しだけ呼吸が楽になる。楽になる分だけ、怖くなる。
怖いのに、楽になる方へ寄ってしまう。
その日の閉店前。
彼が出口に向かう前に、レジの横で一度止まる。
でも、止まり方が、いつもと同じじゃない。
いつもと同じじゃないのに慌てない。
慌てないまま言葉を置く。
「この前の『今度』……さ。具体的に決めると、お互いしんどいでしょ」
落ち着いた声で続ける。
「だから、時間合うとき。ふらっと行こーよ」
ふらっと。しゃーぷじゃない。そして具体的でもない。
でも、未来が残る言い方。
私はうなずく。
「……はい。ふらっと」
私の返事も彼みたいに『事実を置くだけ』になる。
余計な飾りを足さない。足さない方が、守れるものがある。
彼は手を軽く上げて、帰ろうとして──そこで一度だけ振り返る。
「そういえば」
置いていくみたいな声。引き止める声じゃない。
覚えていたことを、今ここで置く声。
「僕、ゆうきって言うよ」
名前を言われただけで、世界が少しだけ変わる。
知らない人が、知ってしまった人になる。
私は胸の奥で、ラベルが貼られる音を聞く。
「友達になるなら、名前を覚えておいて。僕が嫌になったら、悪魔祓い出来る様にさ」
冗談みたいで、冗談じゃない距離。
近付き過ぎないための冗談。
近付きたい気持ちを、冗談に逃がす冗談。
私は笑ってしまう。その笑いには仕事の笑いじゃないやつが混ざる。
「はい、分かりました。神父さんに伝えておきますね、ゆうきさん」
ゆうきさんは、嬉しそうに笑う。
その笑い方が、今日初めて見たものみたいで、少し戸惑う。
私は──言おうとする。
「私は──」
でも、言うより前に、ゆうきさんの言葉が遮る。
「じゃあね、みおちゃん」
みおちゃん。
呼ばれた瞬間、胸の内側が静かに跳ねた。跳ねたのに、声が出ない。
頭の中が一瞬だけ真っ白になる。
──なんで?
彼は私の名札を見たことがある。見ていない振りをしていた。私も見られていない振りをしていた。
思い出す。最初の『ありがとー』の時。受け取りの時に、彼の目線が一瞬だけ下がったこと。
目線が私の顔じゃなくて、胸の辺りに落ちたこと。私は『見ないで』と思って、同時に『見ないでくれて助かる』と思ったこと。
あれは、名札だった。
ゆうきさんは最初から、私の名前を知っていた。知っていたのに、呼ばなかった。呼ばないで、距離を守っていた。
必要なところまで来たら、必要な言葉だけ置いた。
それが優しいのか、残酷なのか。私はまだ分からない。
ドアが閉まって、外の音が薄くなる。
店はまた、いつものテンポに戻る。氷。スチーム。レシート。水の音。普通が押し寄せてくる。
普通の中で、私の胸の中だけが熱い。熱いのに、冷える。
その矛盾が、一番現実だった。
休憩室の隅で、私はメモ帳を取り出す。
仕事のメモに見せかけた、誰にも見せないやつ。
私はペンを走らせる。書き終わって、心臓がいつもの様に動き出す。
私はラベルが怖い。ラベルが付くと、その人は生活の中の人になる。
生活の中の人になると、居なくなった時が怖い。
だから私は、貼りたくないのに貼ってしまう自分を、先に受け止める練習をする。
来ない日が来る方角を、出会いの時点で見てしまう練習をする。
バーの目の前の席が埋まる度毎に、少しだけ呼吸が楽になる。楽になる分だけ、怖くなる。
怖くなる分だけ、また練習が必要になる。
そして私は気付く。彼がずっとやっていたことを、私もやり始めている。
事実を、そのまま置く。余計な意味を盛らない。
盛らない代わりに、ちゃんと怖がる。
怖がる代わりに、ちゃんと呼吸する。
メモ帳を開き、もう一度その文字を眺める。
もしもの時に、悪魔祓いが出来るように。
──さよならの練習を今から始めよう。誰にも見えないところで。
出会いの瞬間に、ほんの少しだけ──さよならの方角を確認しながら。
※10分後(同日 23:10)にあとがきを公開します。




