007 夜も語れた
「危ない!!!」
「ーーーッ!!!」
椎名は静止の声より早く動いていた。
咄嗟に動く事が出来ず悲鳴を上げるミリアに、巨大な獣の爪が振りかざされる寸前、いち早く気づいて行動に出ていた椎名は、巨大な獣の横っ腹に全身で肩から押し除けた。
「雄っ哉、さん!!!」
椎名の呼び掛けに応える寿雄哉も既に動いてはいた。
少し離れた立ち位置だったとは言え、寿雄哉の曇らせた表情は後悔に囚われたようだった。
「アアウウウ!!」
「ミリア様!離れて」
「ご、ごめん。ごめんなさい」
血相を変えた緊迫した掛け声にミリアは動揺を隠せない。
臆病ではあるはずのツキノワグマが三人に立ちはだかった。
ツキノワグマにとっては餌を横取りされたと勘違いしたのだろう。
人間と戦う理由が出来たのだ。
「雄哉さん僕の腰にナイフがあります!」
「分かった!!」
ミリアは、幸い怪我はしていない。
服が爪で抉られかけた形跡がある。
雄哉は安堵の息が漏れた。
平静を保っている椎名はすかさず指示を出す。
「借ります!!」
寿雄哉は取っ組み合った椎名の腰のナイフを引き抜く。
「アアアゥウアアア!!!」
ツキノワグマが低く濁った唸り声をあげる。
雄哉はツキノワグマの横から腹にひと刺しした。
「アアゥオ!!!ルゥゥァ!!!ァア!!ルォアゥ!!」
「チッ!急に思いっきり、暴れやがって!うわッ!!」
「椎名さん!!!」
刃先が短いせいで致命傷には至らなかった。
ツキノワグマが大暴れした拍子に椎名は大きな平手を喰らい横凪に大きく弾かれた。
咄嗟に両腕を身体に丸めて横へステップする様に回避し衝撃の緩和を試みるが近くの木に衝突した。
「ぐッ!…ぅ、ごほ!ごほ!くそが…っ」
「血が、大丈夫ですか!」
「血?イツッ…それよりも前!」
「ルォオアア!!」
「うっくっ!」
体重だけでも力負けしそうな体格差に圧倒されて、よろけそうになっている。
椎名の顔から出血していた。
爪が顔に引っ掛かって裂傷してしまったのだ。
無事とは言え、感染症にやられる可能性もある。
状況は明らかに良く無い。
ツキノワグマも寿雄哉も息が荒い。
だが寿雄哉は単純なスタミナ切れだ。
二人の横から光が一瞬漏れた。
「グォ!」
視界に捉えたのか驚いたツキノワグマは取っ組み合いから離れて光った先から少し離れた。
寿雄哉がハッとして見た先。
ミリアの手が微かに緑色の光を宿していた。
その緑光の意図に気付いた雄哉が小さく頭を左右に振る。
ミリアの開けた口は言葉を失い、悲しみを浮かべて手の緑光は消えてしまった。
その様子を見ていた椎名は、立ちすくんでいた。
その視線の先はミリアを捉えて。
「ウウゥ…」
ツキノワグマも相当消耗しているようで身体がよろけている。
刺された右の腹側を庇うように四足で歩く。
口からは唾液が溢れている。
寿雄哉はツキノワグマの右脇腹を狙うように間合いを取っている。
そこに椎名が加わった。
「大丈夫ですか椎名さん、傷が」
「はい、一人で任せてられないです」
「…助かります」
標的の動きを見逃すまいと瞳を鋭くする椎名。
椎名の鋭い視線に気付いたツキノワグマは間に挟まれた状況から避けるように後ろへ後ずさった。
「こいつ賢いな。ぅ、痛てぇ…」
「ルヴォオォォ…」
「トドメをさせそうですが、何をしでかすか分からないです。気長くいきましょう」
「貴方の怪我からして気長に消耗戦をするのは…」
椎名の提案に虚をつかれた雄哉が、流石に得策ではないと否定の意を唱える。
ミリアの護衛役とは言え、椎名の怪我の度合いは無視できない程だった。
「動けるうちに一気に仕留めるべきです、私がやります」
「出来るならそうしたいです。でもクマの爪の脅威を侮れないのは明白だ。お互いが危険になる。僕は大丈夫です。今はあまり痛みが気にならないので。熊も生物です。体力には自信あるんで根競べした方が確実です。これ以上誰も傷つかない。」
「…分かりました。ですが私が先導します」
「了解」
人の命を奪える力を持つツキノワグマに油断はならない。
椎名の指摘を基に、端的に雄哉がツキノワグマの気を張らせるよう立ち回りを意識して指示を促しながら、二人でツキノワグマを前後に挟む形で移動していく。
必然的にツキノワグマに動かさせて体力の消耗を図る魂胆だろう。
雄哉ばかりが動く事を察すると、ツキノワグマは雄哉の方ばかりを意識する様になる。
その時に決まって後ろから足音をわざとらしく立てる。
ツキノワグマは足音に反応し、再び椎名も姿を捉える様に距離を取った。
ツキノワグマの威嚇唸り声が辺りに響く。
ミリアの手には汗が握られた。
風が枯葉を運ぶ音。
集中を途切れさす環境音はついに行動に変化をもたらす。
「ヴォォォ!ヴォ!ヴォゥ!ヴルル…」
猛り声を上げながら後ろに距離を取ると、ツキノワグマは腹を土につけた。
肩から息をするように荒いが威嚇の唸り声はなくなり、椎名達と視線も合わなくなり静かになった。
「なんでしょうか、死んだふり?」
「いえ消耗し切ったのでしょう、諦めた様です。あの怪我ですし、急激な行動は取れないはずですが、一応近づくのはやめて下さい。」
椎名はツキノワグマの行動に理解を示して深く息を吐いた。
ツキノワグマは、まだ息はあるが力尽きたようだ。
グッタリとしている。
「終わったの?」
「そのようです」
隅に潜んでいたミリアが恐る恐る言葉を発した。
そして少し居た堪れない様子だ。
きっと本来ならこの場から離れるのが正解だったはずだ。
だが二人はそうしなかった。
意図は恐らく人への恐怖を植え付ける事。
そうすれば活動する二人への、いや、ミリアを含めてツキノワグマが無闇に襲ってくるリスクを減らすためだ。
「うっ」
「椎名くん!?」
急に尻餅ついた椎名にミリアが驚き咄嗟に背中を支えた。
「大丈夫」と言うが、息はとても荒かった。
緊張が解れて急に脱力したのだろう。
足が震えていた。
「私も、どうなる事かと思いましたよ…」
余裕のある行動に見えていたが決死の覚悟だったのだ。
怪我も負ってなお、巨大な獣に立ち向かう事は恐らく、並の神経では無い。
「これは、ハァハァ、どうしますか?」
「ふぅ。そうですね、どうしましょうか」
死闘の末ではあるが、脅威は完全に消え去ったわけでは無い。
二人の疑問は、まだツキノワグマの処分をどうするか。
難題が残っている。
「ぁ… … …」
ミリアが意見を言おうと挙げようとした右手が空中で泳いでしまい、そのまま左手で甲を掴んで胸元で静止する。
その様子を椎名は横目に入った。
「肉は既に取れましたし勿体無いですが。解放しましょうか」
「解放、ですか。」
椎名の一言に寿雄哉は多少に疑問を漏らし、ミリアは目を見開いて驚いた様子だ。
きっと殺処分するのだと思ったのだろう。
そもそも人襲ったのに解放する理由が分からない。
「そうですか。でもこのままじゃ出血死しますね。」
「うーん」
椎名はツキノワグマを見つめながら腕を組んで首を傾げる。
二人とも息が上がっていて、考えているのか呼吸を整えてるだけなのかが判別付けにくい。
寿雄哉が仕方ないと一呼吸着いて呟いた。
「応急用の携帯医療セットを使うか。」
腰袋を漁ると縫合テープと傷薬を取り出した。
「携帯医療セット?」
「何かあった時のために、携帯してるんです」
椎名は起き上がり、寿雄哉の手元にある医療セットをまじまじと眺めた。
自分も揃えておこう、と便利そうに呟く。
「私たちの治療を優先しましょう、ミリア様、椎名さんの治療を先にお願いします」
「分かった。」
「有難う御座います」
続いて雄哉の治療を行い、その様子を椎名が見ていた。
やり方を一通り聞きながら椎名が話しを切り出す。
「クマの治療は僕がやります。」
「いえ危険です、一緒にやりましょう。」
「じゃぁ、見張をお願いします」
「…分かりました。」
「まぁ、治療の練習相手になってもらおうかと」
椎名の真意に、苦笑いの寿雄哉。
椎名は堂々とツキノワグマに近づき、傷のついた脇腹の付近に立った。
ツキノワグマは依然として倒れているが、近づいてきた椎名に気づいてか、少しもがいてみせた。
「落ち着け、今治療してやる」
一言を添えながらツキノワグマの腹部をポンポンと叩いてさすった。
まるで言葉が伝わらない代わりに、行動で安心を促す様に。
「くっ…」
椎名はナイフを取り出してツキノワグマの傷口の周りの毛を切り落とそうとしたが、その手は少し震えていた。
「はは、震える」
椎名の状態に心配の様子を浮かべる寿雄哉とミリアだが、何も言わずに見守っている。
椎名は先ほど見た流れをほぼそのままに、ツキノワグマの傷口の手当てをしていく。
「消毒液は後からつけて、傷そのものは拭いすぎない方が跡が残りにくいです。」
「了解です」
寿雄哉の助言を聞いて、脱脂綿に消毒液を垂らして傷周りの汚れを取る。
「ヴォゥ!!ヴォ!」
「暴れるな」
「椎名さん、気をつけてくださいね…」
「大丈夫です、動きは鈍いので」
傷口に染みて痛かったのだろう、ツキノワグマは駄々こねた様に身体を揺らして痛みを主張しているようだ。
椎名がまた腹部を叩いてさすった。
落ち着いたのを見て、縫合テープを貼り付ける。
更に縫合テープに貼り付けるように身体が大きく巻く事が出来なかったが、テーピングで補強した。
「良さそうですね」
「よし、終わったぞ」
傷口があったとこにポンポンと叩いた。
痛がる様子もなかった為、うまく出来たのだろう。
ツキノワグマは、まだ起き上がる様子もない。
寿雄哉にツキノワグマの監視を引き続き頼み、椎名は鹿の解体を始めた。
ミリアは椎名の手伝いとして観ていたが、ずっと両手で口を押さえながら「ヒェッ」とか「ヒィィィ」とか眉間が吊り上がってしまい、見なきゃ良かったと後悔しながら放心状態だった。
その様子に椎名は揶揄う様に見せびらかしながら反応を楽しんだ。
その間大人しかったツキノワグマは自分の脇腹の様子が気になるのか自分の体を見渡すなど落ち着かない様子だ。
椎名はツキノワグマに鹿肉の一部を渡すと、ツキノワグマは警戒して匂いを嗅いでみるが無害と判断して頬張った。
幾つか食べたのを確認してからツキノワグマを後にして、三人は警戒しつつその場を後にする。
人間の行動を察したのか。
ツキノワグマは、のそのそと様子を伺いながら野に帰って行った。
また襲って来るかもしれないと言う一同の不安もあった。
「またあの熊、襲ってきたりしないかな…」
「次にまた襲ってきたら熊鍋にするよ」
「あはは。椎名くんそういう事サラッと言うのが面白いよ」
「もう私はあんな目に遭うのは懲り懲りですよ」
椎名の余裕はきっと、ミリアの失敗の気遣いなのだろう。
寿雄哉は椎名の発言に対して、勘弁して欲しそうに苦笑いしている。
椎名も雄哉の返しに笑みを浮かべた。
ミリアは安堵する様に笑った。
ミリアの笑みの内側には、何も出来なかったという後悔を含みながら。
この日は鹿肉を肴に今日の出来事を振り返りながら夜を過ごした。
三人の頭にはまだツキノワグマの呻き声が聞こえてくるという共通認識が不安の笑いとなって。
きっと三人にとって忘れられない思い出となっただろう。
⌘⌒ ⌘⌒ ⌘⌒