Memories No.7
読み取り開始(ID:No 7)
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寿雄哉です。
今回は近況報告じゃなく出自の記録という事で。
あまり良い話はないですが私の家庭の話です。
私の家庭はとても貧相なものでした。
トタンで出来たボロ家に家族三人で暮らしていました。
小学校の帰りにはよく同級生にいびられたものです。
ここだけスラム街とか、地震がなくても揺れてるだとか、当時は言われてる意味すら分かってませんでしたね、ハハ。
ですが『家』と言うワードで他の家を見た時に見比べた時、何故うちは皆と違う家なのかと、聞いた事がありました。
その時はただの興味本位でしたが、親は申し訳なさそうに謝るばかりでした。
小学時代に殆どの同級生が持っていたゲームやスマートフォンが羨ましいと感じたことがあります。
親に背がっては結局どれもお金が無いからと買ってもらう事はありませんでした。
どうしたら買えるのかと聞いたのです。
親の答えは。
一杯勉強して頭が良くなれば買える。
そう答えられました。
どうやったら頭が良くなれるのかと聞き返しました。
その答えに対しては「自分で考えなさい」と。
当時の私はよく偏見を持っていましたので、勉強は頭が良いから出来るのだと思い込み宿題も疎かにする子供でした。
親はその事を咎める事はしませんでしたが、何かしてくれる事もありませんでした。
家庭というのはその程度が当たり前だと思っていました。
私は運動が出来たり勉強が出来る事を全て才能がものを言うのだと、才能とは何かするでもなく、なんでも出来ると信じて疑いませんでした。
例え話についていけないような語学力。
計算の説明を受けても理解のできない読解力。
逃げ足で培っただけの運動能力。
スポーツに加わる事も、会話に混ざる事も出来ない。
才能のない自分だから、才能ある人達に虐められても仕方ないと感じていましたし、何処かそういう才能ある人間から相手にしてくれる事が嬉しいとまで勘違いをしていたのです。
努力するという事も思い浮かばずに。
中学生となったある日、君はスマートフォンを持っていないのかと私に尋ねて来た者がいました。
その子はただ、連絡先の交換を申し出てくれただけみたいでしたが、なんとなく嫌な気持ちになってしまいました。
原因は今となればわかっています。
ふとした時に他の誰かが私の噂をしていたのです。
あいつは貧乏で物を買ってもらえもしない奴だと。
その事がたまたま耳に入ってしまった時、なぜ今まで平気な顔をして来れたかが自分でも不思議に思ったくらいに嫌な気持ちに感じとってしまったのです。
何故自分はみんなが当たり前のように持っている物を持っていないのか。
因みにスマートフォンの件は、言葉に詰まりかけた時に以前他の者が言ってたのを思い出して、私も同じ事を言ってみました。
自分で稼げるようになるまで禁止されていると返しました。
相手の顔はどこか考えるように間があったが、君も厳しい家庭だねと平常を装うように去っていきました。
その時の相手は何を思ったのかは分かりませんでしたが、嘘でもそれっぽい事が言えれば場が凌げるのだと、学びました。
それから私はもっと他人の知恵を求めるように探して学年を回ることが増え、自分と同じ境遇の人を無意識に探すようになりました。
その人物が発した一言で、馬鹿にされてる言葉を言わなければ良い、うまく取り繕っているならそれを使おう、と考えていました。
気付けば自分の境遇に存在しない逸話ばかりを言う自分に嫌気がさしてきました。
何せ矛盾が生まれてくる逸話が重ならないように考えるのが面倒になってきたからです。
場が凌げる事は出来たけど、次第に周りの人間は私の作り話が分かったんでしょうね。
避けられるようになり友人を作る事は出来ませんでした。
寧ろ出来なくて良かったのかもしれません。
それに、いじめられる事がなくなった事は進展だったでしょうかね。
中学三年の頃、静岡の三島ムーンウォークに一人で散歩をしていたのですが、当時は700円でした。
快晴で紅葉の綺麗な山岳に跨る底まで数百メートル位の橋でした。
平日で人はあんまり歩いていませんでしいたね。
この清々しい空気に触れ、何も考えずに飛び降りたらきっと気持ちが良いだろうなと、考えていた気がします。
その時たまたま両親も休日だったらしく、たまたま私を見掛けたのだと声を掛けてくれて、帰りに途中にあった食堂でデザートを食べたくらいで何する事もなく帰宅しましたね。
それからずっと、途方に暮れてました。
紅葉の日に私が一人で三島に居たから自然好きだと思ったのでしょう。
キャンプしてみてはどうかと薦められ、ちょっとしたセットを買ってくれました。
その時は少し気が乗らなかったのですが、当時両親は流石に見かねたのですかね。
普段お金が無いという両親が、突然買ってくれたのですから、無碍には出来ず適当に始める事にしました。
それから私は大した高校には行けなかったが、人付き合いも面倒だと感じるよりも先に、一人で自然の中にいる事が当たり前になって早3年と言った感じでした。
高校生活は殆ど思い出はなかったですね。
ですが、そこそこキャンプに慣れてきた頃でした。
暑くなってきた時期、静岡にあるふもとの平原から離れた自然の中で、姉妹の方々が植物観察をしている姿を目にしたのです。
容姿は場違いな雰囲気で、いや恐らくどこにいたとしても場違いと言われるでしょうね。
東京のグレートサイトくらいじゃ無いでしょうか。
御仁の目が合った瞬間、私は時が止まった感覚を味わいました。
これが希里江様とミリア様との出会いでした。
私は居心地悪くなったので謝罪して出て行こうと思ったんですが、気遣ってくれたんですかね。
一緒にどうかと希里江お嬢様に誘われたのです。
決まって土日に同じ場所でキャンプをして、彼女達は植木の研究と言って趣味などを共有していました。
その際は恐らくミリア様からは警戒されていたので、殆どはお嬢様が話されてましたけどね。
その時からロングケープのフードを被っていた気がします。
そして数ヶ月経った頃ですが。
唐突に私達の助手になってくれないかと勧誘されました。
私は当然のように、能力のない自分に自信はなかったので断りました。
ですが、お嬢様からきついお言葉を頂きましたね。
信じられる人を探す前に、自分が一人で生きる術を身につけないといけないでしょと。
以前キャンプで生い立ち話をする事がありまして、その事で一言言われてしまいました。
ですが、子供の頃に感じた『どうすれば頭が良くなるのか』
と言う疑問が頭に残っていました。
希里江様の一言が私に今までの人生を見透かされた気がして、心が崩れる思いでした。
何も出来ない自分に誰が信用してくれるのかと。
貧困による強奪事件は比較的多いよくある話です。
自分は今、悪に思われても仕方ない立場なのかもしれないと思い知る事になりました。
ただそんなきついお言葉を下さったお嬢様も受け売りなんだそうです。
小学時代の同級生の男の子から色々教わり、そこから考えが深まったと。
それから私は、希里江様のお付きとして雇われました。
これが人生の『分岐点』だったと思います。
ただ、まだ最初に使用人として雇われてから、お嬢さまに向けて放ったその人物の言葉の重みに、本当の意味で気づけていませんでした。
お嬢様方の付き添いになってから、後ろ姿を見ながら『学びかた』を学び。
護衛という仕事の役割を教わりながら、体力と精神的な消耗の激しさを知りました。
やる事は彼女たちの日課です。
現場への同行、外出での護衛、植物研究、研究考察、会議、記録、ようやくの解放、そして一連のメモを取った。
ひたすら日課の経験を経て、日課ごとの先をメモを頼りに考え準備をすると次第に肉体的にも精神的にも余裕の出来る日々が増えてきました。
一人前として自分のために生きる。
その重さにかれこれ一年をすぎて思い知りました。
少年期から出来る発言ではない異常な言葉です。
私にはそう思いました。
どんな人生を送った方なのか。
私も今では、頂いた言葉を糧にしています。
その方に会ってみたいとも思いました。
もうかれこれ、3年ほど前の話ですかね。
当時お嬢様方は中学3年と言っていました。
卒業と同時に数ヶ月アフリカに行くと言う事でしたので、使用人になったと同時に私ももう学生は終わる身だったので、ついて行く事になるのですが、先ほどの日課ですから、死に物狂いでした。
外国語とかわかるわけもなく。
要約などは実際殆どが希里江様自身がやってました。
それのまとめをやりながら学んでた感じですね。
私は現在、このスヴァンバル世界種子貯蔵庫日本支社に所属している事になっておりますが、私の所属はスヴァンバルではなく個人で雇われた使用人と言う形になります。
まぁ何故かと言えば、この国は会社で雇われてるよりも個人で働いた方が税金が浮く事もあるんですよ。
それに、命懸けの仕事でもありますから、そういう仕事をしている個人事業だという体にしないと、彼女の企業が政府に咎められてしまいますので、それを回避する為でもありました。
自責にして彼女に被害がないようにと言う私のエゴですね。
ユグドラシルの種が目当てに、襲われる危険のある護衛として。
見ぬ彼の言葉を糧にして。
いつ死ぬか分からない、その日暮らしを堪能しています。
それでもまだ私は生きています。
私は彼女に利用される為に生かされた。
私は生きる為に彼女を生かします。
生きると言うのは、きっと。
死ぬまで変わらないのでしょうね。
あ。
そんな風に思ってたんだねぇ。
出自記録と仰っていたので、つい。
ウソウソ詩人さん、あはh ーー
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