第6話:夜明けへの準備
蘭花は懐中時計を胸に抱きながら、長い夜を過ごした。
外の嵐は次第に収まり、激しかった雨音も小さくなっている。窓の向こうに、ほんのりと夜明けの気配が漂い始めていた。
(父さん……あなたは一体、どこにいるの?)
暗号の解読結果が、蘭花の心を大きく揺さぶっていた。
十三年前、父は故郷オランダへの帰国を告げて、この長崎を去った。それが最後だった。しかし、今回の座礁船は明らかに父宛ての荷物を運んでいた。
しかも、緊急時の連絡先として蘭月庵が指定されている。
つまり、父は帰国後も、何らかの形でこの長崎と繋がりを保っていたということになる。
(でも、なぜ私には何も知らせてくれなかったの?)
複雑な感情が、蘭花の胸の内で渦巻いていた。
父への愛情、寂しさ、そして……少しの怒り。
蘭花は立ち上がり、父の医学書が並ぶ書棚を見つめた。西洋医学の最新知識が詰まった、貴重な書物たち。父が残してくれた、大切な財産だった。
(でも、本当の財産は、この暗号だったのかもしれない)
彼女は懐中時計を見つめながら、そっと呟いた。
「お父さん、私はあなたの娘として、この謎を必ず解きます」
窓の外が、ようやく明るくなり始めていた。
蘭花は身支度を整え、現場へ向かう準備を始める。いつもの茶屋の女主人としての優雅な着物ではなく、動きやすい袴姿に着替えた。
懐には、例の懐中時計。そして、父の医学書を一冊。
現場で何が起きているか分からない以上、可能な限りの準備をしておく必要があった。
奥の部屋では、お吉がまだ深い眠りについている。昨夜の疲れが相当だったのだろう。
蘭花は彼女を起こさないよう、静かに店を出る準備をした。
(お吉には、もう少し休んでもらいましょう。私一人で、まずは状況確認を)
店を出る前に、蘭花は鏡の前に立った。
鏡に映る自分の顔を見つめながら、彼女は自分に言い聞かせる。
「蘭花、あなたは調停人よ。感情に流されてはいけない。冷静に、論理的に、そして何より、関係者全員が納得できる解決策を見つけるの」
しかし、その一方で、胸の奥では別の感情が燃えていた。
父の謎を解きたいという、個人的な想い。
(この二つを、上手く両立させなければ)
蘭花は深く息を吸い、静かに息を吐いた。
準備は整った。
彼女は戸口で振り返り、静かに眠るお吉の部屋の方を見つめた。
「お吉、ありがとう。あなたのおかげで、大切なことに気づけた」
そして、夜明けの街へと歩き出した。
長崎の港は、すでに人の動きが活発になっている。嵐の後の片付けと、座礁船の騒ぎで、普段以上に慌ただしい朝を迎えていた。
蘭花の足取りは確かだった。
複雑な利害関係の「方程式」を解くという使命。そして、父の謎を明らかにするという個人的な願い。
その二つを胸に、彼女は港へと向かう。
朝日が、長崎の海を金色に染め始めていた。
新たな一日の始まり。そして、蘭花にとっては、人生を大きく変えるかもしれない一日の始まりでもあった。
【次回予告】
ついに現場へ向かう蘭花!
港では、三つの勢力が火花を散らしていた。
そして、蘭花の前に現れる意外な人物とは?




