第5話:父の形見の暗号
夜が更けても、蘭花の眠りは浅かった。
お吉を奥の部屋で休ませた後、彼女は一人、父の遺品が収められた小部屋にいた。行灯の明かりの下で、あの懐中時計を手に取り、じっと見つめている。
オランダ製の精巧な銀時計。表面には繊細な装飾が施され、針は正確に時を刻んでいる。
だが、蘭花の関心は時計そのものにはなかった。
問題は、裏蓋に刻まれた暗号だ。
(お吉の話を聞いてから、なぜかこの暗号が気になって仕方がない)
彼女は再び裏蓋を開いた。
複雑な数字と文字の組み合わせ。アルファベットと数字が交互に並び、一見すると意味不明な記号の羅列にしか見えない。
しかし、蘭花には分かっていた。これは確実に、何かの意味を持つ暗号だということが。
父は医師であると同時に、学者でもあった。そして、時として危険な情報を扱うこともあった。この暗号は、そんな父が万が一の時に備えて残したものに違いない。
蘭花は父の医学書を取り出し、暗号表を探した。
(確か、この本の最後のページに……)
ページをめくると、そこには簡単な対照表が挟み込まれていた。数字とアルファベットの対応関係を示す、暗号解読のための鍵だった。
蘭花は小さな紙に、暗号を一つずつ解読していく。
「M-A-R-I-A……」
マリア。
女性の名前だろうか。いや、船の名前かもしれない。
さらに解読を続けると、次の文字列が現れた。
「L-U-I-Z-A」
マリア・ルイーザ。
その瞬間、蘭花の背筋に電流が走った。
(まさか……お吉が言っていた座礁船の名前が、この暗号に?)
慌てて解読を続ける。すると、さらに驚くべき文字列が現れた。
「医学実験用薬品・器具一式」
「受取人:ヨハネス・ファン・デル・ベルク」
「緊急時連絡先:長崎蘭月庵」
蘭花の手が震えた。
ヨハネス・ファン・デル・ベルク——それは、父の名前だった。
そして、緊急時の連絡先として、この蘭月庵の名前が記されている。
つまり、座礁したあの船「マリア・ルイーザ号」は、父宛ての荷物を運んでいたということなのか。
しかし、父は十三年前に故郷オランダへ帰ったはず。なぜ今頃、父宛ての荷物が?
蘭花の頭の中で、様々な疑問が渦巻いた。
(父は本当にオランダに帰ったのか?)
(それとも、帰る途中で何かが起きたのか?)
(この荷物は、一体誰が、なぜ送ったのか?)
そして、最も重要な疑問。
(なぜ、緊急時の連絡先が蘭月庵になっているのか?)
蘭花は震える手で、解読した文字を何度も読み返した。
これは、単なる偶然ではない。父の失踪と、今回の座礁事件は、何らかの形で繋がっている。
そして、この蘭月庵も、その謎の中に巻き込まれているのだ。
外の嵐は、ようやく静まり始めていた。しかし、蘭花の心の中では、新たな嵐が吹き荒れていた。
(明日、現場に行ったら、必ずこの謎を解かなければ)
彼女は懐中時計を胸に抱き、窓の外を見つめた。
夜明けまで、あと数時間。
本当の真実が明らかになるのは、これからだった。
【次回予告】
父宛ての荷物だった座礁船!
しかし、十三年前に帰国したはずの父の行方は?
蘭花の前に現れる、新たな謎の人物とは?




