第1話:嵐の夜の静寂
亥の刻(午後9時)もとうに過ぎた長崎の夜。
空が裂け、海が吠える。そんな夜だった。
分厚い雨雲が月も星も覆い隠し、天地の境さえ曖昧になっている。時折、稲妻が奔ると、一瞬だけ荒れ狂う波頭が白く浮かび上がり、すぐにまた闇へと消える。そのたびに、遅れて届く轟音が家々の屋根を激しく揺らした。
まるで、天の巨人が怒りに任せて太鼓を叩きつけているかのようだ。
そんな世界の終わりのごとき夜にあって、出島にもほど近い一角に佇む茶屋だけが、この世に取り残されたように温かい光を灯していた。
「蘭月庵」
軒先に掲げられた看板が、風に激しく揺れている。
店の奥、普段は客の目に触れない静かな空間で、一人の女性が薬草の仕分けをしていた。
蘭花——今年で二十八になる、この茶屋の主人だった。
艶やかな黒髪を一本の簡素な簪でまとめ、白い肌は行灯の光を受けて陶器のように滑らかに見える。そして何より印象的なのは、その青みがかった瞳だった。
この国の者ではない血が流れていることを、その瞳は静かに物語っている。
「……ふぅ」
蘭花は静かに息をついた。
彼女の指が、乾燥した当帰と芍薬を丁寧に選り分けていく。その手つきは水が流れるように滑らかで、一切の迷いがない。
オランダ商館の医師だった父から受け継いだ西洋の合理的な薬学知識。そして、薬師の家系に生まれた母から学んだ、東洋の心に寄り添う和漢の知恵。
その二つが融合した独自の薬学こそが、この蘭月庵の、そして蘭花という女の真髄だった。
昼間の賑わいが嘘のように、店内は静寂に包まれている。雨音と風の唸りだけが、遠い世界の出来事のように聞こえていた。
誰にも邪魔されず、薬草と向き合う時間。
それは、複雑な出自を持つ彼女が、唯一、ありのままの自分でいられる安らぎのひとときだった。
外では嵐が荒れ狂っている。だが、この小さな茶屋の中だけは、まるで別の世界のように穏やかだった。
行灯の炎が、薬草の匂いに包まれて、ゆらゆらと踊っている。
(今夜はもう誰も来ないでしょう。明日の仕込みを済ませて、早く休むとしますか)
蘭花はそう考えながら、立ち上がろうとした。
その時だった——
【次回予告】
嵐の夜の静寂を破る、激しい扉の音。
一体誰が、こんな夜に?
蘭花の運命を変える、重大な知らせとは?