第6話「加奈の違和感」
その朝、咲良は制服の袖を下ろすのに、ほんの少しだけ時間がかかった。
右手首の内側――
昨日、結依がそっとカッターで描いた、細い赤い線。
「“私のもの”って、印が欲しいの。お姉ちゃんの中に、わたしだけを残したいの」
あの言葉と共に肌をなぞられた感覚は、もう痛みを伴っていない。
けれど、触れるたびに胸の奥が鈍く響く。
(……加奈には、見られたくない)
結依の存在を隠すことに、罪悪感と安堵が同時に混じっていた。
まるで、隠し通すことで結依を守れると、思ってしまったのかもしれない。
教室に入ると、加奈がいつも通り手を振ってくれた。
でもその笑顔は、どこかいつもと違って見えた。
「咲良ちゃん、おはよ……あれ? ちょっと顔色、悪くない?」
「あ、うん、寝不足かも……」
曖昧に笑うと、加奈は少し眉をひそめた。
「昨日さ、結依ちゃんに廊下で呼び止められて、ちょっと話したの」
「えっ……?」
「“咲良には近づかないで”って。すごく静かな声だったのに、すごく、怖かった」
咲良は息を詰めた。
加奈は続ける。
「ねえ……言いにくいんだけどさ、最近の咲良ちゃん、ちょっと変。すごく無理してる感じがして……」
咲良は、何かを言い返そうとして言葉を失った。
(“変”なのは、わたしじゃない。――でも、何が“普通”なのか、もうわからない)
加奈の目は、まっすぐに咲良を見ていた。
優しさと、疑念と――少しの怒りが、入り混じった眼差しだった。
「もし、結依ちゃんから何かされてるなら……教えて。助けたいの」
その言葉は真っ直ぐで、優しくて。
なのに咲良は、ただうつむくことしかできなかった。
(だって、結依に“助けられてる”のは、わたしのほうかもしれない)
そう思ってしまった自分が、いちばん怖かった。