第28話「名前を呼ばない約束」
その日、咲良は誰にも言わず、旧館の図書室へ向かった。
もう使われていないその部屋は、今や誰の記憶にも残っていない“密室”だった。
埃っぽい空気の中、本棚の間に差し込む光だけが、時間の流れを知らせてくれる。
彼女がここへ来たのは――ある“記憶”を確かめるためだった。
(この部屋で……結依と最初に“手を繋いだ”)
まだ中学生だった頃。
お互いに感情の扱い方がわからず、ぶつけ合い、泣いて、黙って、ようやく手を伸ばしたあの日。
“ただ手を繋いでいるだけの関係”。
名前も呼ばず、言葉も交わさず。
でも、それだけが当時のふたりに許された「つながり」だった。
(結依はあの日から、何も変わってなかったのかもしれない)
不意に、足音がした。
「……来てたんだね」
振り向かなくてもわかる。
その声は、もう何百回も自分の鼓膜に響いたものだった。
結依が本棚の影から現れた。
今日は制服じゃない。私服の、シンプルな黒のワンピース。
けれど、その色が妙に彼女の肌の白さを際立たせていた。
咲良は問わなかった。
なぜ来たのか、何をしにきたのか――そんなことはどうでもよかった。
結依はふたりの間に残された机を挟んで、ゆっくりと座る。
「覚えてる? ここで、最初にルールを決めたよね」
「……うん」
「“名前を呼ばない”っていうルール。
“言葉も交わさない”っていうルール。
“手を繋ぐ時間だけが、ふたりの世界”だって」
咲良は、そっと手を伸ばす。
結依も、何も言わずに手を差し出した。
指先が、静かに触れる。
ぬくもりが伝わる。
何の意味も、何の名も持たないただの「接触」。
けれど、それだけで胸の奥に熱が灯る。
「……いまだけ、このルールに戻ってもいい?」
咲良の言葉に、結依は目を細めて微笑んだ。
「もちろん」
ふたりは、手を繋いだまま、本の影の中で黙って座っていた。
名前を呼ばない。
言葉を交わさない。
ただ、静かに――“存在だけ”を確かめるように。
その時間が、いまこの世界でいちばん正直な、彼女たちの“関係”だった。




