第26話「空白」
「愛さなくていいよ」
その言葉が落ちた瞬間、空気が止まった。
教室の時計が、ゆっくりと針を刻む音だけが響いている。
まるで咲良の言葉が、世界そのものを一瞬で静止させたかのようだった。
加奈は唇を噛んだ。
その目に、苦しげな光が差していた。
「……それでも、咲良ちゃんが“わたしを捨てた”って思ってくれてもいい。わたしは、あなたの後ろ姿を見てるから」
静かな言葉だった。
けれどその声には、もう縋るような感情はなかった。
そして加奈は、静かにドアへ向かう。
「でも、忘れないで。
“自分を守るために誰も愛さない”っていうのは、
“誰かに救われることを拒絶する”のと同じだよ」
咲良は何も答えなかった。
加奈の足音が遠ざかっていく。
教室に残されたのは、咲良と――結依。
「……お姉ちゃん」
結依は笑っていた。
その笑顔には、かつての甘さも、狂気も、もうなかった。
ただ、抜け殻のようだった。
「それ、ほんと?」
「……え?」
「“愛さなくていい”って言ったけど……それ、ほんとの気持ち?」
咲良は答えられなかった。
それが本音なのか、自分でももうわからなかった。
結依は、咲良の隣にしゃがみ込み、顔を覗き込んだ。
「お姉ちゃん。わたしはね、たぶんもう“愛してる”とか“好き”とかじゃなくて……」
指先が咲良の頬に触れる。
「“あなた”じゃないと生きられないだけなんだと思うの」
その言葉に、咲良の心が震えた。
哀しさも、恐怖も、何もかもを通り越して――ただ、胸が痛んだ。
結依はそのまま、咲良の肩に額を預けて、ぽつりと呟いた。
「ねえ、お姉ちゃん。わたしのこと、ぜんぶ忘れさせてよ。そしたら楽になれるのに」
咲良は、そっと目を閉じた。
(わたしは――何を忘れて、何を抱えて、生きていけばいい?)
その問いに、誰も答えなかった。




