第23話「くちづけ未遂」
放課後の音楽室。
窓から差し込む陽の光が、ピアノの鍵盤にやわらかく落ちていた。
咲良は、指先で静かに一音だけ鳴らす。
深く、優しい、単音。
それはまるで、自分自身をなだめるような音だった。
(何も起きない、静かな放課後……そう思いたいだけ)
背後の扉が軋む音。
振り返らなくてもわかった。
その気配は、あまりに馴染んでしまっている。
「お姉ちゃん、まだ学校にいたんだ」
結依の声は、ほんの少しだけ甘さを含んでいた。
だが、その奥にあるものは、もはや咲良の耳が覚えてしまっている“静かな狂気”だった。
「……今日は、早く帰るつもりだったんだけどね」
咲良はそう言って笑おうとしたが、顔はうまく作れなかった。
「そっか。でも、見つけられてよかった」
そう言って結依は、静かに歩み寄ってきた。
ふたりの距離が、日常の中にあるはずの「安全圏」を軽く踏み越えていく。
机と机の間に、音もなく滑り込むようにして、結依は咲良の横に立った。
そして――
その顔を、咲良の頬のすぐ近くまで寄せた。
「……今、ここでキスしたら、どうする?」
その声は、優しすぎるほどに優しかった。
まるで愛の告白のような、でも同時に呪いのような囁きだった。
咲良は、答えなかった。
いや――答えられなかった。
「“だめ”って言うなら、止めて。お姉ちゃんが、自分で」
結依の唇が、ほんのわずかに触れる距離まで近づいた。
咲良の心臓が、悲鳴のように脈打つ。
でも――その瞬間、
ガチャン!
扉が勢いよく開いた。
「……っ!」
ふたりが同時に振り返る。
そこに立っていたのは――加奈だった。
制服の裾を揺らし、無言で立ち尽くす彼女の目が、ふたりの距離を正確に測っていた。
結依は、まるで舞台の幕を引かれた役者のように、静かに咲良から距離を取った。
「……邪魔、入っちゃったね」
その囁きは、どこまでも軽やかで――
どこまでも、こわかった。




