プロローグ
食糧難を理由に、国境近くに住まう少数民族が、攻め込んできた。迎え撃つのは、少数民族の住む場所から最も近い、ノエル子爵家である。
ノエル子爵家はここ最近、飛躍的に食料自給率が向上している豊かな土地だ。王国内でも有数の豊かな農耕地は、少数民族にとって、どんな危険を冒してでも手に入れたい、宝の山であった。
「おとうさまー!!!」
戦場と化した子爵領。突如響いた幼い少女の声は、何故か戦争の喧騒の中でも、周囲に届き、皆が声の方へ目を向けた。
そこにいたのは、声色の通り、幼い少女。えぐっ…ぐすっと泣いている少女は、地に倒れ伏している自身の父に縋っていた。
「おとうさまっおとうさま…っ!!」
「お嬢様、お早くお戻りください!!おい、はやく子爵様をお運びするんだ!!」
「お嬢様、大丈夫ですよ!子爵様は気を失われているだけですから、ね!ね!」
世話役らしき男女が、少女を宥めているのを、皆が手を止めて見ていた。敵味方関係なく、男どもが幼い少女を凝視するその光景は、異様としか言いようがない。
しかし、当の本人は何も気づいておらず、自分の父親のことだけ見ていた。
「なんでっ…なんで戦争なんてするのっ!おとうさま、なにも悪いこと、してないのにっ!!」
少女のその言葉は、周囲の男どもに強く突き刺さった。攻め込んできた部族の長には、特にダイレクトアタックだったため、「ぐふっ」と胸を押さえる。物理攻撃など受けていないが、精神にクリティカルヒットした。
大柄で毛むくじゃら。部族の者からは漢の中の漢と崇められている男は、この場に少女の敵としていることを恥じた。
「さあ!行きましょうお嬢様!」
「大丈夫ですよ、子爵様はお嬢様を残していったりしませんよ!」
グスグス泣いている少女が世話役たちに連れられ、父親とともに戦場を去ってからも、その場を奇妙な間が支配していた。
誰もが静かに、あの少女のことを思い浮かべ、手を、体を動かせないでいる。
「………おい」
そんな中、部族の長は、つい先程まで自身と斬り合っていた子爵家の兵長に重苦しく声をかけた。
「…あの少女の名は?」
その重圧たるや、流石は荒くれ者が集う部族を治めているだけある。部族長の言葉を聞いて、部族の者や子爵家の末端兵たちが兵長をジロッと凝視した。
そんな部族長の圧や周囲の視線に少々気圧されながらも、兵長は神聖な言葉を口にするかのような面持ちで、口を開く。
「ノエル子爵家の、マリアお嬢様だ」
その名前が、皆に染み渡る。
しばらく目を閉じて、皆がその余韻に酔いしれた。そして、部族長は空を見上げて頷くと、低い声で周囲に告げる。
「撤退する」
その言葉に、部族の者はもちろん、子爵家の兵たちも、部族長を見た。
「…よろしいのですか?」
「いい」
側近の言葉にそう返す。そして、分厚い唇を開いて、部族長は自身の決定を再び告げた。
「このまま戦争をしていたら、マリアたんに嫌われる。撤退だ!」
通常ならば、そんな理由での撤退など、部族の者たちから反対される。マリアたんって何だ。
しかし、皆が頷いた。マリアたんって何だ。
「そうだな」
「マリアたんを泣かせるわけにはいかない」
「撤退し、別途話し合いの場を設けたい。マリアたんと言葉を交わす機会だ!!」
「そのときは俺が参加する!マリアたんと会える!!」
「馬鹿っお前よりも俺のほうが強いんだから、俺が行くんだよ!マリアたん!」
「マリアたんマリアたん」
「ああ…マリアたん!!」
部族の者たちは口々にそう言い、子爵領を撤退していった。マリアたんって何だ。後日、部族長と数人が話し合いに来る、と告げて。マリアたんって何だ。
その事態を、マリアを知っていた面々はさもありなんと訳知り顔で頷く。
マリア・ノエル子爵令嬢の類まれなる美貌とその伝説が国中に轟く、はじまりの出来事だった。
マリアたんって何だ。