第43話 偽れぬ願い
次の日の朝は、かなり憂鬱な気分でホテルを出た。
昨日のことで、寝不足だったこともあるし。
また船に乗るから、船酔いするのが嫌なのもある。
小山は、先にチェックアウトしたらしく。出会わなかった。
つっても、これから乗る船は同じなんだけれども。
実際、船では普通に顔を合わせた。
「優人さん、昨日は。その……」
青い顔をしている小山は、別に船酔いからそういう顔色になっているわけではあるまい。
しかし。
「小山。その話、後にしよう」
「はい?」
「俺は、多分今からそれどころじゃなくなる」
「な、なにがっすか?」
酔い止めが効くとは限らないという話だ。
結局、全く薬が効かなかったわけではないが。
小山より俺の方がよっぽど青い顔にはなった。
ま、寝不足だったしな。
船から降りて、グロッキーになっている俺の背中を。小山が後ろからさすってくれる。
「あー、悪い……」
「いえ。優人さん、船酔いするんっすね」
「あぁ。これでも去年よかましなんだけどな」
逆に小山は全く酔わないらしい。
三半規管の性能の差か。
「昨日の話しだけど」
俺の言葉に、背中をさする小山の手が。一瞬びくりと止まる。
「俺さ、約束したんだ。最高に幸せだって言って死ぬって。もう、人生満足なんだって。あいつと」
あいつが。俺の傍にいてくれる条件。
それは、あいつが消えた後も。俺が幸せでいることだった。
「だから淡々と暮らしていこうと思った。もう十分だから。できると思ってたんだ」
だって。あんなに。
あんな風に、誰かを好きになれるなんて。
愛することが、できるなんて。思ってなかったから。
それだけで、十分満足なはずなんだ。
「俺は……約束、破っちまってるかな?」
小山は、今度はさする手を止めることなく。
答えた。
「わかりません。わからないっすけど。優人さんは、例え満足してたって、幸せだって。凪音ちゃんが隣にいないのに、平凡に生きることなんてできっこないんです」
あいつが、いないと。
俺は……。
「きっと、凪音ちゃんが優人さんに望んでいたのは。そーいったものじゃなくて。もっとシンプルなやつです」
シンプルな、望み?
あいつは確かに、シンプルな奴ではあったけど。
「ただ、泣いて。笑って。最後の最後まで、泣いて笑って。それだけだと思うっすよ」
……あぁ。
たしかに。全くもって、あいつの言いそうな事かもしれない。
「――そっか。まぁ、死ぬ時には少なくとも笑えそうだし。なら、いいのか」
俺が、人生に満足しているのは。嘘じゃない。
だから、それまでは。
「いいんです。人間、素直が一番っす」
そういうこと、なんだろうな。
「ありがとな小山。そろそろ時間だし、行こうか」
「はいっ」
立ち上がった俺は、去年と同じカヤックに。
小山は、ダイビングにとそれぞれ出発した。
今回は、二人乗り用を強要する必要はない。
正真正銘、一人だから。
マングローブの林の中、カヤックを漕いでゆっくり川を下る。
「そういや去年は、水着が見たいんでしょー? とか言われたんだっけなぁ」
思えば、あのあたりから。
俺はもう、あいつのことが気に入ってた。
幽霊のわりにお気楽で、明るくて。
一緒にいるこっちまで、つられて楽しくなった。
自分一人では、行かないような場所も。
俺だけでは、やらないようなことも。
あいつがいると、行ってもいいかと。やってみてもいいかと思えた。
「まぁ、あいつがいなくなって。それでも、あいつがいた頃みたいに過ごすなんて。そりゃ無理だよなぁ……」
かと言って。
もうあいつと出会う前には戻れないし。
戻りたくもない。
川を下り終えて、今度は海に漕ぎだした。
相変わらず、シーカヤックは人が少ない。
まぁ、こんだけくそ暑いのだ。
どうせ海に行くのなら、潜るほうを皆選ぶってことか。
あの時と同じく。
見渡す限りの、海と青空。
振り返って見えるのは、島と砂浜だけ。
そんな中を、小さな小舟でばっちゃばっちゃと波に揺られる。
去年は、ここに。あいつもいたんだ……。
途轍もない開放感と、孤独感。
世界に、自分一人だけになったみたいで。
「凪音が、いればなぁ」
――とうとう。口に出してしまった。
凪音にいて欲しい。
凪音と、一緒に居たかった。
「きっと、二度目だって大はしゃぎしたんだろうなぁあいつ」
凪音の顔は、もう殆ど思い出せないけれど。
『こんな所にきてまでしけた顔すんな!』
きっと、最高に楽しそうな笑顔で。
「沖縄で買い物だって。飯食うんだって」
隣に、凪音がいたら。
それだけで楽しくて。
「だいたい、おまえがいないと毎回の飯にも困るんだよ」
作るモチベーションも上がらないし。
食べる飯も味気ない。
『美味しい物食べたら、美味しいって思っておけばいいんだっつーの』
心底、呆れた顔で言われるんだろうな。
「映画一つ観るんだって、ちょっと散歩をするんだって」
このやたらと綺麗な景色だって。
俺一人じゃ、なんにもならないじゃないか。
「凪音に……会いたい……」
気が付けば。
太陽に焦がされた頬に、海水とは違う。濡れた感触を感じて。
あぁ、俺はやっと泣いているのかと思った。
そうしたら、もう殆ど覚えていないはずの。凪音の泣き顔が一瞬思い出されて。
凪音の泣き顔につられるように、うっとおしい程に涙がこぼれる。
涙を止める事ができなくなった俺は。
たまらず海へと飛び込んだ。
海の水で、涙を押し流しながら。
救命胴衣の力でぷかぷか浮いて。
耳元では、波で水音がちゃぷんちゃぷんと鳴る。
見上げた空は遠く。太陽の光が目を焼いて、俺は思わず瞼を閉じた。
「あー。そういや、凪音の水着姿も可愛かったなぁ」
嘘だ。可愛かったという記憶はあっても。
今の俺には、凪音の姿がはっきり思い出せない。
「凪音が、今の俺見たら怒るだろうなぁ……」
その怒った声だって、殆ど思い出せない。
「でもさ。嘘じゃないんだ、幸せなのは」
心を縛り付ける。凪音との日々。
凪音に、会いたい。
声を、聴きたい。
姿も思い出せないのに消えることのない。幸せだった瞬間。
それは、この先もずっと。今までよりももっと。
俺を、苦しめて。幸せにする欠片。
「きっと、これ以上に人生で幸せなことってそうそうないもんな」
寂しい。会いたい。傍にいて欲しい。
こんなにも、辛い。
でも。
出会えたことが、嬉しい。
これからの人生で味わう、彼女の残した苦痛も悲しみも。
何もかもが、出会えた喜びの裏返しだから。
願いも痛みもなく、ただ溶けて消えゆく蝋燭を眺めている様な人生より。ずっと。
ずっといい。
いい、けれど。
「――でも。やっぱり、凪音に会いたい」
凪音はきっと。
『ばーか』
とか。言うんだろうけれど。
海から引き上げて、去年も泊まった民宿に向かうと。
小山が先に待っていた。
今日も、泊まる宿は同じだ。部屋は違うけれど。
「おかえりなさい」
「ただいま……って別にお前の家じゃねーだろ」
「あははっ、まーそうなんっすけどね」
随分お疲れの様子に見える。
どうやら、ダイビングというのは思った以上に体力を使うものらしい。
「もうすぐご飯だそうっすよ」
「おー、それはありがたいね。腹ペコなんだ」
「私もっす」
嬉しそうに、小山は笑った。
飯も食い終えて。
さっさと風呂にも入った俺達は、自分の部屋へと向かう。
「って! なんでお前まで一緒に来るんだよっ。お前の部屋あっちだろ」
なぜか、普通に小山が俺と一緒に俺の部屋に入ってきた。
しかも、なんか両手にビニール袋を満載してる。
これって……。
「折角、沖縄限定のお酒とかおつまみ買ったんっすから。一緒にのみましょーよぉ!」
「えぇ……」
どうやら、すぐに寝ることはできないらしい。
結局、小山に言われるままに。ベッドの上でビールのフタを開けていた。
そんな俺を、隣のベッドに座る小山が正面からジッと見ている。
手にはビールを持っているが、フタすら開けていない。
「……なんだ?」
だから、ビールを口にしつつ。小山に問いかけた。
「今日は、どうでしたか?」
ま、そうだよな。
こいつのことだ。
俺の心情の変化くらいはお見通しか。
「楽しくはなかった。凪音がいないのが辛くて、寂しくて。泣いた」
「そっすか」
小山は、笑顔でそう答えると。
やっとビールのフタを開けた。
「ありがとな、小山」
「あははっ。私はただ大騒ぎしてただけっすけどねぇ」
いいや。
人の内面に踏みこむ怖さを誰よりわかっている小山が、それでも震えを抑えて……。
本当に、俺には勿体ないと思う程の友人だ。
「あ、そうだ。感謝してくれるなら報酬もらってもいいっすか?」
「報酬? 別にいいけど、何を?」
小山が俺に欲しがりそうなものって、なんだ?
あ、まさか。
「いい加減、名前で呼んでください」
……なんだろう、既視感。
「凪音にもそんな風に言われたっけなぁ」
「ははぁ。凪音ちゃんのことっすからね。きっと相当、名前を呼ばれるの待ってたんでしょうねぇ」
耳が痛い。
「あー。……楓も。待ってたわけ?」
「いえ、別に私はそこまでは」
おい、こら。
俺の緊張を返せ。
「私の場合、単純に小山より楓のほうが、響きが可愛いなぁってだけっすよ」
「さようで。ったく、ますます付き合ってると勘違いされそうだなぁ」
まぁ、会社で名前呼びしなければいいんだろうが。
こういうのは習慣だから、咄嗟にでるしなぁ。
「付き合うっすかぁ。前も言った通り、優人さんは好みじゃないんですよねぇ。そもそも、凪音ちゃん以外に興味ないでしょーし」
だから、告白もしてないのに勝手に振るな。でも。
「そーだなぁ。俺が凪音を好き過ぎるのは認めるよ。やっぱ、いないのはきついな」
「慰めてあげましょーか?」
なんだかイイ笑顔で小山……楓が言ってくる。
やかましい。
と、言いたいが。
「……ま、実際お前がいるお陰で、かなり助かってるよ。ありがとな楓」
本当に。
「おぉぉ……ついに、ついに優人さんがデレたっすね!」
お前もそれを言うのか……。
だから、デレるってなんやねん。
「デレついでに、凪音ちゃんの思い出ばなしとか聞いてあげるっすよ?」
「いや、絶対寝るだろお前」
「まだ元気っすよー! 素直になった所で全部吐き出しといた方がいいんじゃないっすか~?」
素直ねぇ。
実際、楓は素直になった俺の話を少しばかり聞いた後。
すぐにそのまま寝てしまった。
ま、わかってたけどね。
そういう俺も、あっという間に意識を失ったのだった。