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タイチは家に帰ると、まず自分の部屋に鞄を置いた。
次に台所を抜けて、ベランダを覗く。そこには姉のアキが立っていた。
高校二年生のアキは、帰宅するとすぐ家事に取りかかるため、大抵この時間は制服のままだ。
「ただいま」
「おかえり。……どうしたの? わざわざベランダまで来て」
「姉ちゃん、洗濯、手伝おうか?」
「今ちょうど終わったとこ」
そう言いながら、アキはタイチのシャツを最後に干し終える。
「タイチ」
「ん? なに?」
「そこ、邪魔」
「ごめん」
タイチがよけると、アキは洗濯かごを抱えて部屋の中に入った。
「……じゃあ、買い物は?」
「いつも通り、学校の帰りに済ませたけど」
「そっか。じゃあ、えっと……晩ご飯! 俺が作るよ」
「アンタ、料理できたっけ?」
タイチにとって家庭科は苦手科目だ。
他の成績もあまり良くはなかったが、中でも家庭科は特にひどかった。
「どうしたの、急に?」
アキは冷蔵庫から1.5リットルのコーラを取り出し、戸棚からコップを二つ用意して注ぐ。
「いや、あの、前から手伝おうと思ってたんだよ」
「ふ~ん。……誰かに言われたの?」
アキはコーラを一気に飲み干す。
コップが小さいとはいえ、あまりに気持ちのいい飲みっぷりだ。
タイチには真似できない。炭酸が胸のあたりで詰まる感じがして、気分が悪くなるのだ。
「違うって。俺は俺なりに……」
「女の子に言われたんでしょ? “家事くらい手伝いなさい”とか、そんな感じで」
女ってのはエスパーなのか?
それともどこかに監視カメラでもあるのか?
「まぁ、動機はどうあれ心意気はよしとしよう」
アキは自分の空いたコップに、もう一杯分のコーラを注ぐ。
「今日は全部終わったから、明日から洗濯担当を任命します。がんばりたまえ、タイチ君。以上」
言い終えると、アキはタイチの背中を軽く叩いて、コップを持ったまま自室へ戻っていった。
明日からずっと洗濯担当なのか。
そう思うと少しだけ気が重くなったが、タイチは後悔しないようにと自分に言い聞かせた。
クミに言われたからやろうと思ったんだ。
それは確かだ。でも、それが悪いことだとは思わない。
タイチは残ったコーラを飲み干し、自室へと戻った。
部屋に戻ると、タイチは押し入れを開ける。
中には、父親が残したという映画のビデオテープが、ダンボール箱に詰められていた。
その中から、一本を取り出す。
『時と砂』。
──クミと話していた、あの映画のビデオだ。
晩ご飯まで、まだ時間はある。もう一度観てみよう。
翌日の放課後。
タイチとクミは、音響係として再び二人で打ち合わせをしていた。
九月中旬とはいえ、やるべきことの半分も終わっていない。
本来なら宇野と上牧にも手伝ってほしいところだったが、二人はさっさと帰ってしまっていた。
「勝手だよな、あの二人」
「でも、あんまり早く決めすぎても、舞台進行との調整までやること無くなっちゃうし」
「そうやって甘やかすから、のうのうと帰るんだよ」
「射場君だって、強く引き止めなかったでしょ?」
タイチは言葉に詰まった。
「それは……その……」
「なによ、それ」
パワーバランスが、いつも決まっている気がする。
それが少しだけ、情けなかった。
でも、それを覆すにはどうしたらいい?
そもそも、覆すべきなんだろうか?
いや、もし覆したら……そのあと、どうなる?
誰か、答えをくれ。
そう願っても、そんな都合のいいやつが現れたためしなんて、ないのだけど。
「もう、二人で決めちゃおうぜ。あの二人はあてにせずに」
「うん、それがいいね」
クミがはっきりとそう言ったのが、少しだけおかしくて、タイチは笑った。
誰にでも好かれるタイプの彼女は、別に優等生然とした“いい子”というわけではない。
言うときはちゃんと言う。毒を吐くときはしっかり毒を吐く。
たぶん、だからこそ、人に好かれるのかもしれない。
「昨日、『時と砂』、もう一度観直したんだ」
「すごい。私も観直したの」
「高塚もビデオ持ってるの?」
「最近DVDが出たから、それを買ったんだ」
DVDか。いいな、それ。
タイチの持っているビデオは、何度も観すぎて映像がすっかり劣化していた。
「やっぱ、いいよね。残酷な話なのに、どこか儚くて、美しいっていうか」
「“淋しげで愛しい”でも合ってると思うな」
「お、それもいい表現だね。射場君、詩的だね」
日常に紛れた悪意。
味気なく、淡々とした透明な殺意。
乾いた、素っ気ない罪悪感。
終わりのない孤独感。
「改めて観ると、カメラワークとか、そういう感情を引き立ててるよな。あと音楽も、やっぱすごく空気感出してる」
「語るねぇ、射場君」
「高塚、こういう話好きだろ?」
「うん」と頷いたクミが可愛くて、つい頭を撫でたくなったが、タイチはその手を引っ込めた。
今日もまた、机二つ分の距離が、タイチを抑えつける。
その距離は、いつか縮まるのだろうか。
それとも、永遠にこのままなのだろうか。
──簡単に持ち上げられるはずの机が、まるで動かない壁のように思えた。