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「俺は、この曲がいいな」
タイチが指差したのは映画のサウンドトラックだった。
クミが目を見開く。
「どうしたの?」
タイチは、咄嗟に何か変なことでも言ったかと焦りながら聞き返した。
「射場君、この映画観たことあるの?」
サウンドトラックを手に取ったクミが、今度はぱっと嬉しそうに笑った。
タイチは即座にうなずく。
映画好きの父の影響で、同年代の誰より映画を観ているという自負がある。
「話が似てるからさ。曲も合うと思ったんだ」 「そうだよね! よかった、持ってきて」
クミが小さく頷いて、また笑った。
嬉しそうなその顔に、タイチは小さくガッツポーズを決める。
予想が当たった上に、あの笑顔まで見られた。
二重の喜びだった。
よく笑う子だが、何度見てもその笑顔は格別だ。
昔は長かった髪も、今は肩にかかるかどうかくらい。
短くなったぶん、軽やかで明るい雰囲気が増した気がする。
細く白い指がサウンドトラックのケースを支え、その腕はまるで折れそうなほど華奢だった。
肌もきめ細かくて、何度か触れてみたい衝動を堪えたことがある。
机ふたつ分の距離が、やけに近く感じる。
手を伸ばせば、届いてしまいそうだ。
落ち着け。
落ち着け。
そう繰り返して自分を律する。
――小学校の頃のクミは、静かというよりも“存在が薄い”タイプだった。
いじめられていたわけではない。
ただ、口数が極端に少なくて、友達もいなかった。
いないと言い切っても差し支えないくらいに。
四年生の夏、あの事件が起きた。
団地内での出来事だったから、タイチの耳にもすぐ入った。
学校でも噂はあっという間に広まった。
あれ以降、クミの存在感はさらに希薄になった。
教師とも、ほとんど会話を交わさなくなった。
誰もいじめているわけではない。
ただ、誰もが口をきかなかったし、クミも話しかけなかった。
存在だけが宙に浮いたような状態だった。
いじめだったのか、ただ周囲が気を遣い、クミもまたそれに合わせただけなのか。
今となってはよくわからない。
ただ、タイチだけは、その“半透明な感じ”に心を惹かれていた。
綺麗だとか儚いとか、そんな言葉が頭に浮かぶような存在だった。
何かしようとはしなかったけれど、遠くからずっと目を離さずにいた。
自分にできるのは、それだけだった。
変化が訪れたのは中学に入ってからだ。
新しい生徒も入ってきたけど、小学校時代の顔ぶれも多く、大きな変化はなかった。
けれど、クミだけはまるで別人だった。
そのギャップにみんな驚いた。
あれは“中学デビュー”だって笑う声もあったけれど、すぐに彼女はクラスに溶け込んで、友達を増やしていった。
男子に人気がありながら、女子からも好かれているという、なかなかのバランス型。
ちょっとしたアイドル、なんてアツシが言っていた。
タイチは内心不安になった。
クミが誰かに取られてしまいそうで。
でも、誰よりも早く彼女の魅力に気づいていたという奇妙な自負もあった。
そんなことを言ったら、アツシに「お前、キモいアイドルオタクかよ」と笑われたけれど。
今、その“アイドル”が目の前にいる。
クミはサウンドトラックについて何か話している。
でも、タイチの視線は彼女の口元に吸い寄せられていた。
小さく整った唇。
淡いピンク色で、やわらかそう。
いや、絶対やわらかい。
少しだけ触れてみたら、どんな感触だろう。
手を伸ばせば、きっと届く距離だ。
「ちょっと、聞いてる? 射場君」
名前を呼ばれた瞬間、裏返った声で「ハイ!」と返してしまった。
教室に響いたその間抜けな声に、生徒たちがこっちを見てクスクス笑う。
最悪……とクミを見ると、彼女も笑いを必死にこらえていた。
肩が小刻みに震え、つり上がった目の端にうっすら涙が浮かんでいる。
「何よ、その声」
「いや……その、ごめん」
言い訳も思いつかず、とりあえず謝る。
しばらく笑いが続き、周囲の笑い声が収まるころ、クミも無理やり笑いを飲み込んだ。
「何の話してたか忘れちゃったじゃん」
平静を装うその様子が、タイチにはなんだか面白く感じられた。
でもここで笑ったら本当に最悪なので、どうにか耐える。
「劇のシーンと、映画の話」
「あ、そう、それ! で、聞いてた?」
タイチは素直に首を横に振る。
「もう……」と呆れたように言って、クミは話を戻した。
今度こそ真面目に聞こうとタイチは彼女の顔をまっすぐ見る――が、また視線は唇に引き寄せられる。
やっぱり柔らかそうで、頭に入ってくるはずの話は、まるで風のように通り過ぎていった。