チェカとオルガンテ
とある国で、一人の老婆がその命の火を絶やしかけていた。おそらく長くてもって数日だろう。彼女はもう七十。この世界のこの時代に生きるにしては長生きした方だ。
彼女は娘夫婦の屋敷の一室、窓際のベッドで微睡んでいた。自分の死期を悟り、思い出に浸る。数日前まで思い出せなかった昔の思い出が鮮やかに色づく。
義理の子供たちにその夫や妻、孫、ひ孫達。死んでしまった愛する人に、記憶の彼方で微笑む母。
そして一番鮮やかに残っているのは、
ーーチャリ。
小さな音がした。
ああ、彼の音だ。彼が歩くたびに鳴る小さなこの音が大好きだった。とうとう幻聴が聞こえ始めた。それでも、この音を聞きながら緩やかに死んでゆくのは、悪くないかもしれないわね。
彼女はそう思った。カーテンが風で捲れ、庭にいるひ孫が見える。ひ孫はすぐ近くの木の上のあたりを見ていた。
はて、面白いものでもあったかしら。このひ孫は木や空といったものをぼーっと眺めることは少なかった。五歳の彼は周りと比べとても活発だ。ぼんやりするときは大抵眠い時などに限られるが、今はそのような時間でもない。
身を起こして窓から顔を出し、木を見てみる。
ーーハッとした。
ああ、幻聴ではなかったのね。
太めの枝に腰掛けている人がいる。光を七色に反射させる濃紺の長い髪に、蒼くて淡い目。白いシャツの上に黒いローブ。ピアスやチェーンが少し動くたびに、チャリ、とあの音が鳴る。無駄に装飾が多いその格好が懐かしい。
昔と一寸も変わらぬ姿で彼はいた。
「オルガンテ」
「やぁ、チェカ」
彼は木から音もなく降りた。着地の足音も一切しない。そのままひ孫を抱きかかえ窓際までやってきた。
「こんなに来るのが遅くなってすまない」
「いや、私は、貴方が来てくれただけで嬉しい」
彼と喋っているとどうしても昔の喋り方に戻ってしまう。ああ、まるで自分があの時の少女のようだ。
「今の貴方の答えを聞かせるために来たの?」
「まさか。重要な人物が死に瀕しているんだぜ。来ないわけないだろ」
「意地悪。本当はそうじゃないくせに」
「悪いな。そう拗ねるなよ。チェカは変わらないな、最後にあってからもう何十年も経っているのに」
「なら会いに来てくれても良かった。それに普段はこんなじゃない、貴方の前だけ」
「おお、特別扱いしてくれているのか、ありがたいな」
彼と軽口を叩き合う。それだけで幸せに感じる。
「でも、本当に貴方のことが好き。恋ではない、親愛ではない、友情でも、ましてや尊敬でもない。それと同時にその全てでもある。貴方の歩く時の音が、声が、見た目が、性格が、貴方と一緒にいてやることの全てが好き」
「…照れるだろ」
「で?答えは見つかったの?」
「いや、これからも考え続けるさ。むしろ答えが見つかった方が問題さ」
「そうね。ーー結局、書くという行為、については?」
「ふふ、俺の持論だが聞いてくれるかい?」
「うん、勿論聞く」
「いいかチェカ、俺が思うに、書くというのはーー
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ーー歴史を作ること、だと思うんだ」
「なんで?オルガンテ。文字を書いても歴史は変わんないよ」
「んーそうだな、普通の人間は過去にあった出来事を直接知ることが出来ないだろう。いつも歴史を知る手がかりは本だ。稀に口伝とか、証拠品が見つかったりもするけどな。つまり、その時代の人間が、この国が勝ちました!っていう事実と違うことを書いても、それを読んだ後世の人間は嘘であることが分からないだろう。それをさらに読んだ奴らが本に書く。それを改変する奴らも居る。人間が本をどう書くかで歴史なんていくらでも変わるのさ」
「ふーん…。オルガンテ、それいらないなら貰っていい?」
「ああいいぞ」
私はオルガンテが手をつけていないデザートを食べ始めた。美味しい。食べる私をオルガンテがじっと見てくる。
「…なに?」
「いやぁ〜?チェカは可愛いなって」
「急になんで?でも、ありがと」
「いや、なんとなく。食べ終わったなら帰るか」
オルガンテが店員を呼び、お会計をし始めた。オルガンテは慣れた様子で店員のお姉さんと話しているが、お姉さんは頬を赤らめてちょっとどもりながら話してる。
オルガンテはたくさんある冒険者のランクの中でも結構強いランクだ。それでこの店によく来るのでちょっとした有名人みたいに扱われている。実際有名人らしいけど。
それにオルガンテはそこら辺の女の人よりずっと綺麗。時々オルガンテのこと知らない人に美人なお姉さんだって思われるくらい。でも本人は嫌がってる。髪が長いせいもあるだろうけど、切りたくないらしい。私もオルガンテの髪が好きだから切ってほしくない。オルガンテの髪は私のと違ってサラサラだから、肩に垂らした髪型がよく似合ってる。
お会計が済んだらしく、「チェカ、帰ろう」といっていつもの黒いローブをかぶった。
お店の外に出ると、まだ青くて明るい空が広がってる。まだ暑さの残るなか、つないだオルガンテの手はひんやりしてて気持ちい。
黒いローブをかぶっているのに、暑くなさそう。それにオルガンテの近くにいると水の近くにいるみたいな感じがする。
私はオルガンテと手を繋いだまま帰り道を歩いていった。