61 令嬢の帰還【前篇】
──そして私は半年ぶりに、エリシャとして目覚めました。
寝転んだまま、見上げた青空。どこからか聞こえる喧噪が耳障りだけれど、寝心地はとてもよかった。
それは、たくさんの柔らかな羽根の上に寝かされていたから。それらがレイジョーガーと魔鎧龍の戦いで生まれたものだと、経験はしていないけれど知っています。
宿っていた仄かな白光はすでに消えて、ただの羽根になってはいたけれど、これ自体は私や聖女の魔力とは独立して存在できるらしい。
「おねえちゃん、おきたのー?」
「だいじょうぶ? 痛いとこない?」
青空を背景に覗き込んできたのは、心配そうに眉を寄せた子供たちの顔。それぞれの額や、頬や、あるいは瞳のなかに、皇太子と同じ蒼い蜘蛛の魔紋がうっすら刻印されています。
「ええ。だいじょうぶ。──ありがとう」
ゆっくりと上体を起こしながら、するりと唇からこぼれた感謝の言葉。驚くくらい当たり前のように発することができるそれを、かたくなに拒んでいた半年前の自分は、なんと幼かったのでしょう。
まずは、自分の置かれた状況を理解しなくてはと思うのだけれど。
衿沙の世界で「オーエル」として必死にお仕事をこなす日々から、目覚めたら唐突にパラディオン王国に戻されていて、混乱しないわけがない。
確かに、その間に衿沙が経験したことは記憶としては残っています。でも、衿沙の中にはエリシャと衿沙がいて、エリシャの中には衿沙とエリシャがいた。主人格が入れ替わろうと、どこかで繋がってはいたのです。
おかげで、私は知らない世界でも生きることができた。そして、本当にたくさん成長できたと自負しています。
──今。その繋がりを感じられなくなったことが、不安となって私の胸を苛むのでした。
「はい、これ! キツネさんが、おねえちゃんにって」
ふと鼻腔をくすぐるのは、なつかしい香り。帝国の小さな少女が慎重に運んできてくれたのは、琥珀色の液体が注がれたティーカップでした。口元に運べば、拡がるのは向こうの世界でどんなに探しても得られなかった、華やかで芳醇なあの香りと味。
もうほとんど冷めてしまっていたけれど、間違いなくそれは、ミオリが毎朝欠かさず淹れてくれた紅茶そのものでした。
なぜかこぼれそうになる涙を必死に堰き止めつつ。紅茶のおかげで安らぐ胸と、同時に冴え渡ってゆく思考のなかで、私は周囲に視線をめぐらせます。
荒れた庭園、不安げに私を見ている帝国の子供たち、そして私の傍らで静かに寝息を立てるのは聖女マリカ。どうやらまだあの決戦の直後、時間はそれほど経っていないことがわかります。
──ありがとうマリカ。いまはゆっくり体を休めて。あとでたくさん、二人でお話ししましょうね。
しかし、なぜ私たちは庭園に放置されているのか? その答えは、ずっと聞こえていた喧噪の先にありました。
めちゃくちゃに破壊された式典舞台の残骸のなかで、衿沙が私に贈ってくれた頼れる仲間たちが、こちらに背を向けて戦っています。私と聖女と子供たちを、守るかのように。
敵は、剥き出しの上半身で隆々たる肉体を晒す一人の巨漢です。おそらく、彼が上空の転移門から着地した際に舞台が破壊されたのでしょう。
オールバックの白髪は鬣のようで、獰猛な目つきに精悍な顔立ち、その顔全体に、アズライルたちの疑神化魔紋を拡大したような蒼い蜘蛛が大きく紋様を拡げています。
そして首から下の、鍛え上げられていながら生気を感じさせない青白い肌のすべてに、小さな魔紋が隈なく刻まれているのでした。
「あれは……」
「こうていへいかだよ」
答えてくれたのは、私の傍らにちょこんと正座した先ほどの少女。
「わたしたちのおとうさん。だけど、みんなをいじめる悪いやつなの」
「でも、ライルにいさまがやっつけてくるって」
別の少年が言葉を継ぎます。
その視線の先では、当のアズライルが蒼く装甲された右腕で渾身の拳撃を皇帝陛下──すなわちアスラフェル大帝国の頂点に君臨するアズライル帝に叩き込もうとして、その腕を無造作に掴まれ上空に放り捨てられたところ。
「……ライルにいさま、かてるかな?」
「……かな?」
不安そうな子供たち。私は、傍らの少女の頭を左腕で包み込むように抱きよせます。うっすらとしか残っていない記憶だけれど、泣いているといつもお母様はそうしてくれたものです。
「大丈夫、安心なさい」
囁くように口にしてから、私はゆっくり立ち上がります。背をさらりと流れる長い髪の感触が、なつかしい。
「悪いやつは、おねえちゃんがこらしめて来るからね」
そうして、アズライル帝の姿をまっすぐ見据え言い放つのです。自分自身を奮い立たせるため、それ以上に、誰より守るべき子供達を安心させるため。
しかし、なぜこの皇帝は上半身裸なんだろう。下半身のレザー素材らしきロングパンツも筋肉ではち切れそうだ。こんなのが治める国、ぜったいに嫌なのですが……。
『──お目覚めになられたのですね!』
そんな思考を遮って、ミオリの風話が耳元に響きます。
そういえば、世界と世界の境界を跨ぐなかで混線したのか、衿沙の記憶にまぎれて、ミオリの記憶の断片らしきものもちらりと見えてしまった気がするけど──本人には、内緒にしておきましょう。
「ええ、ただいま戻りました。──ミオリ、いつもお紅茶ありがとう」
『……エリシャ……さま? おからだ、どこか痛みますか? どうか、どうかご無理なさらず……』
怪訝な反応は、私の変化を感じ取ったのでしょうか。本当に、いつも私のことを一番に考えてくれる彼女には、感謝しかありません。けどそれを伝えるのは、また改めて。
「大丈夫。だから、状況を教えて」
『はい。エリシャさまが、気を失われたあと──』
──そして彼女は、手短に解説してくれました。
さすがに、アズライル帝その人が転移門を使い単身で攻め込んで来ようとは、誰も想像すらできなかった。
けれどもしそこまでが、王国を攻める上での障害である「絶聖の加護」を排するための、彼の策だったとしたら?
そして、その恐ろしく用意周到な男が、単身で一国を制圧できる凄まじい力の持ち主だったとしたら。
そんな事態に直面しても、誰も諦めはしなかった。それはきっと全員の胸に、衿沙が点していった炎が燃えているからなのでしょう。
魔刀黒逸を手にした影狐と、劃式纏装で右腕を覆う皇太子に加え、四鎧将の死神型だけでなく残り三人も、ユーリイの策略によって参戦させられている。
……それに、赤黒い魔瘴装甲をまとったリヒト先輩……いいえ、ミハイル王子……。
神遺物の力を直接・間接に受け継ぐ七人の波状攻撃によって、生身のアズライル帝をどうにか足止めしていた。だが、それも限界に近付きつつある。
それでも戦う彼らの方へ、ドレスの裾を翻して歩を進める私。
頭上を、四鎧将の誰かでしょう、紅い鎧姿が吹き飛ばされていきます。──でも大丈夫、あの勢いなら子供たちの頭上も越えていくはず。
「……眠り姫はようやくお目覚めか」
さきほど放り投げられたアズライルが、ちょうど私が真横を通るタイミングを狙ったように立ち上がる。
「あら、もっとゆっくり休んでいてもよくてよ」
彼はその返しに苦笑しながら肩をすくめて、歩を緩めない私の後ろに従います。
「あいつが帝国の現皇帝にして初代皇帝、アズライル・アスラフェルⅠ世。大災厄前に封印された、あのジジイ自身が疑神化のオリジナルを刻まれた神遺物──不老不死の人間兵器だ。それでも、お前は」
「──ええ、もちろん。私は、諦めない」
彼の問いかけに即答したそのとき、真正面から凄まじい濃度の魔力を伴った威圧感が吹き付けるのでした。
「おまえが魔鎧龍を退けた、魔戦士の裔か」
それは鼓膜を揺るがすアズライル帝の重低音。まだ十歩以上の距離があるのに、目の前に奈落へと続く崖が出現したように竦んでしまう足を、それでも前に踏み出す。
「わかっているぞ。こやつらが絶望せぬは、おまえがこの国の精神的支柱だから。ゆえにこの国を陥とすなら、まずおまえを絶望で塗り潰さねばならぬ」
同時に、皇帝の全身の魔紋が蒼く輝く。瞬間、対峙していた影狐たち全員が不可視の衝撃波に弾き飛ばされ、地面に叩きつけられます。
生身でも、まったく歯が立たない。にも関わらず、彼は自身の言葉通りに絶望を──右腕に嵌められた黄金の腕輪を天に掲げるのでした。
「纏装──」
そして厳かに言い放つ。全身の魔紋が放つ蒼い輝きと、腕輪から溢れた金色の炎が絡み合い、蒼と黄金の重装甲を形成してゆきます。
威圧感が増大する。巨漢を覆う重装甲は、私の身長の倍近くあるでしょう。
獣とも蟲ともつかない異形の仮面の額には、第三の目どころか六つの紅く丸い柘榴石が並んで、両目と合わせて計八つの輝きを放っています。
「見るがいい! そして絶望せよ! これぞ魔鎧神、その名も──」
両腕を拡げ、まさに魔神のごとき威容を誇示しながら皇帝が名乗る──
「アスラデウス、だったかしら?」
──のを遮って、私はその名を言い当てるのでした。
「……あ……?」
いましがた神を名乗ったばかりの皇帝が、事態を呑み込めずに固まる。実に申しわけないけれど、私はそんなもので絶望などしないのです。
なぜならば、つい先日発売された分厚い「パラディン★パラダイス究極設定資料集」を、隅々まで読み込んできたのだから──!
その巻末にモノクロで載っていたゲーム未実装のボスキャラこそ、いま目の前に立つ魔鎧神アスラデウス。
それは同じく未実装の攻略対象キャラ「エリオット・ダンピール」、つまり男装した私の専用イベントに登場する隠しボスなのです。
そう。私はすべて知っています。だからなにひとつ恐れることなどない。
──右の手首の黒い輪具と、右腕に抱えた魔黒手甲。
魔鎧神を倒すための力も、この手にあるのだから。




