56 舞い上がる邪悪
転移門から出現し、ジブリールを守った黒い巨掌は、奪われた我が家の神遺物──魔黒手甲に酷似している。
そのサイズだけが、何十倍にも巨大化していた。
呆然とする私の全身の装甲からは、紫の粒子がたちのぼっている。魔力はほぼ尽きていた。アスライザーとの戦いで負った損傷もある。魔鎧は装甲としての実体を、もう長くは維持できないだろう。
「……そん……な……」
駄目なのか。やはり私は修正力にねじ伏せられてしまう側なのか。
その間にも、黒い掌は転移門の端に爪を立て鷲掴み、内側から押し拡げはじめた。巨大な本体を、無理やりこちら側に押し出そうとするかのように。
「こんなこともあろうかと、転送準備をしていたのですよ。あわよくば実戦テストも出来るかと思ってね」
勝者側の決まり文句を放つジブリールが、庭園の中央に陣取って動かなかったのは、これを呼び出す準備をしていたからなのだろう。
ともあれ、奴のいやらしい笑みに歪んでいるだろう表情が、紅い兜に隠され見えないのはありがたい。おかげでどうにか冷静さを保てる。
「……ジブリール、きさま……それは、作らない約束だったはず……」
そのとき耳に微かに届いた、怒りを込め絞り出される言葉は、私の視界の端で必死に立ち上がる──途中で膝を突く──を繰り返している蒼髪の皇太子だった。
しかし、ジブリールには聞こえていないのか無視しているだけか、無言で転移門の中央にしゃがみ込むと、片手を足元に突き入れて何やら操作しはじめた。
「あれは一体、何なの?」
あまり答えは期待せずアズライルに問いかけながら、私は聖女の姿を探す。
彼女の直感は、この存在をどう見ているのか。
レーダーは更新されなくなっているが、兜内側の視覚補助機能は正常に動いていた。
迷宮口の方では、アリオスが変幻自在の攻防で獣人型を翻弄している。
そして王妃様の手を引くリヒト──いや、ミハイル王子は眼帯を剥ぎ取って、その手にした赤黒い槍で、巨大なハンマーを振り回す重装型に食らいついている。
ドリルのように、あるいは巨大な顎のように変形するその魔槍は、アリオスが自身の一部から創り出した特殊な武器だ。
アリオスが迷宮の主として得た古の知識によれば、ミハイルの目の周囲にも燃えるように拡がっている魔瘴斑──それは凶兆どころか、魔瘴に対する抵抗力の高さを顕す徴なのだという。
だから、王子にその気があれば。高潔な聖騎士の誇りよりも、守りたいものがあるのなら、魔瘴の力を分け与えることができるかも知れない、とアリオスは語っていた。
ミハイルは、その提案を受け入れたのだろう。彼は未だ守ることを諦めていない。その姿に勇気をもらいつつ、私は視線を巡らせる。
ジブリールの足元の転移門からは、もうひとつの黒い巨掌が出現して、地面に開く黒穴をさらにメリメリとこじ拡げていた。
驚くことはない、腕が二本あっても不思議じゃない。そう自分に言い聞かせながら、マリカを探す。
……いた。
影狐の傍らで、拡大された映像に映る彼女は──泣いていた。
涙を流しながら口元を両手で覆い、それは慟哭しているようにさえ見える。
影狐が背中をさすりながら寄り添って、理由を聞き出そうとしてくれているようだが、あの様子では難しいだろう。
私の知る彼女──どんな危険の前でも明るく笑ってみせたマリカの姿は、そこにはなかった。彼女さえ絶望するほどの存在だというのか。
「……あれの核は、おまえから奪った魔黒手甲……」
代わりに私の疑問に答えてくれたのは、アズライルだった。おぼつかない足取りで、しかし立ち上がった彼は、続く言葉を絞り出す。
「それと、俺の異母弟妹たちだ」
黒い両腕で転移門を無理矢理に拡げ、地の底から這い出るように姿を現す、全身を漆黒の鎧で覆われた巨大なそれを見詰めながら。
「……なんですって……」
「言っただろう。疑神化の刻印には成功しても、使いこなせなかった子供たちが沢山いる」
そして彼は、まるで汚物を吐き捨てるように表情を歪めながら、青空の下にそびえ立ったそれの実体を明かした。
「その子たち──俺の異母弟妹たちを部品みたいに組み込んで、疑神化の魔力だけを抽出し、俺の魔鎧と同じように、資格を無視して魔黒手甲を強制的に起動させている」
──それは魔戦士ダンケルハイトの残した「誰かを守るための力」への、度し難い冒涜だった。誰よりも私の中のエリシャが、怒りに震えている。
同時に私は理解していた。聖女の涙は、子供たちのために流されたものだと。
「それを更に何重にも増幅し、歪め、塗り固めたのがあの怪物だ。俺は彼奴に計画書を破棄させたはずだが──きっと、皇帝が許可したんだろうな」
最後に彼が付け足した言葉には、どこか自嘲の匂いがした。
その間にも、腕の数倍も逞しい後ろ脚と、長大な尻尾で支えられた黒い巨体は、二人の視線の先で悠然と立ち上がっていた。
爬虫類的な頭部には、左右にねじくれた角が並ぶ。その中央の広い額にジブリールが立っていた。彼の背丈と比較して、頭頂高はおよそ五倍超。
「ところで、あれには名前とかないの?」
「それを知って、どうする」
ジブリールの体が、足元の広い額にずぶずぶと沈み込んで、呑み込まれていく。やがて奴の紅い魔鎧の顔面が、ちょうど第三の目のように額の中央に嵌る。
──瞬間、左右三個ずつ並ぶ計六個の瞳に、禍々しく深紅の光が灯った。
そして巨体をぶるりと震わせると、背に畳まれた巨大な黒翼を、広げる。風圧とともに、どろりと濃密な魔力が、吹き抜けていった。
「呼び名がないと不便でしょう。これから、戦う相手に」
「ほう。何かあれに有効な策でもあるのか?」
「ええ、よく聞きなさい皇太子殿下。私の策はね──」
それは私がこれまで、数多のヒーローたちから学んだこと。
「──諦めないこと」
その言葉に、アズライルはしばし虚頓として……やがて自嘲ではなく、彼らしい不遜さの漂う笑みを、微かに浮かべた。
そう、まだ諦めるわけにはいかない。私には守るべきものがある。あなたも、そうでしょう?
「……たしか、彼奴はこう呼んでいたな」
巨翼を羽ばたかせ、庭園全体を突風に巻き込んで上空に舞い上がる、その名は──
「魔鎧龍……ファヴニール……」
かつてこの地を支配した魔物の王の名を冠されし、漆黒のドラゴン。天空より放たれたその咆哮は──どこか、子供たちの慟哭のようにも聞こえた。




