39 そびえ立つ絶望
──光壁に無数のひびが走り、次の瞬間には粉々に砕け散っていた。
「マリカ!!」
ぎりぎりに手をつかんだ魔術士の女生徒を通路の方角に押し出すように退避させながら、聖女の名を呼ぶ。
見れば瘴牛鬼も、さすがに激突の衝撃は大きかったようで、抱えた頭を左右に振っている。
その足元、雪のように降り注ぐ光壁の欠片のなか──
「だいじょうぶ」
マリカの声が聞こえた。
そこには、右手の聖剣を掲げてリヒトが立っていた。
首にしがみつくマリカを、盾を捨てた左腕で抱き寄せながら。
──ああ。エリシャ様にはとてもお見せできない。
「やってやりましょう、リヒト先輩!」
「──聖伐!」
応える彼の声と共に、降り注いでいた光の欠片のすべてが渦を成して聖剣の刃に集約し──瘴牛鬼の背丈にも及ぶ光の大剣と化して、一閃する。
光刃は左側の角を切り落として肩を通り、心臓のあるべき位置まで深々と斬り裂くと、粒子になって霧散していった。
深手を負った瘴牛鬼はよろよろと広間の奥へと退いてゆく。
その先にたゆたう魔瘴槽へと、盛大な赤黒い飛沫をあげて落下した巨体は、ぼこりと大きな泡をひとつ残して沈んでいった。
「たお……した……?」
信じがたい現実を確かめるように、私は思わず口に出す。
通路の方からパーティの面々の歓声が上がった。
同時に力尽きたように倒れ込むリヒトを、流れるように体勢を入れ替えたマリカが支えて立つ。
「いいえ、まだみたい」
そして彼女は少し困ったように、言うのだった。
「逃げて、影狐ちゃん」
同時に私の全身を襲った震えは、忍びとしての修行で身につけた本能的な「生命の危機」に対する警告だった。
魔瘴槽の赤黒い水面が盛り上がって、尖った巨大な角のようなものが一本、にょきりと生える。
その高さは、ちょうどいまそこに落ちた瘴牛鬼の背丈と同じぐらい。
──迷宮の主には、絶対に勝てない。
私はアリオスの言葉を思い出していた。
巨大すぎる角に続いて、水面を割りながら姿を現した角の持ち主──上半身だけで広間の天井に達しそうな、片角の超巨大瘴牛鬼を、呆然と見上げながら。
ヴヴォオオォォォォ──!!
咆哮はもはや兵器だ。
嵐のように吹き付ける音圧から、聴覚を守るため咄嗟に両耳をふさぐ私の視界の中、騎士と聖女に向けてゆっくりと振り下ろされる瘴牛鬼の拳。
巨大さゆえの錯覚で遅く見えるけれど、実際は凄まじい速度を伴った破滅の一撃だろう。
もう、私にできることはない。
一刻も早く通路に退いて、残る四人を確実に退避させることこそが、最善の選択だろう。
それはわかっている。わかっているけれど足が動かないのは、どうやら恐怖のせいだけではなくて、彼女を助けることを諦めたくないらしい。
エリシャ様以外の人間にそんな感情を抱いている自分が、意外だった。
そのとき。唐突に通路の方角から近付いてきた気配と足音が、傍らを駆け抜けていった。
パーティの四人のうちの誰かだろうか? 命を無駄にしてはいけないと、後ろ姿を呼び止めようとした私の目の前で──
「纏装──!」
その細身の後姿が銀のボブカットを揺らし、そこだけ黒い鎧で覆われた右腕を天に掲げ、高らかに叫んでいた。
「──レイジョーガー!」
全身を包み紫炎の中で、実体化してゆく兇々しくも美しき漆黒の鎧──!
そして上空から迫りくる超巨大瘴牛鬼の拳に向かい、黒の魔戦士は跳躍する。
振りかぶった右腕から紫光の尾を引き、リヒトとマリカの頭上を飛び越えて。
自身を余裕で握りつぶせるサイズの巨拳に真正面から、黒の魔戦士──レイジョーガーは、まばゆい紫光まとう拳を叩き込んでいた。
凄まじい衝撃音が轟き、瘴牛鬼の巨拳は上空へと弾き返されていく。
対するレイジョーガーは反動で後方に一回転しつつ、マリカたちの前方に片手を突いて着地していた。
忍びの体術においても最も洗練された着地法とされる、三点着地である。
──私は我を忘れ、エリシャ様の勇姿にただただ見惚れるのだった。
(※次回よりエリシャ視点です)




