Lost Bay
「べーっだ!」
何かの媒体で見た威嚇の方法をしてしまった。謝るべきは私なのに、まるで旦那様が悪いかのようではないか。
罪悪感に苛まれ、思わず顔を背けて走り出す。幼子の癇癪を想起させる自分の行動に苦しくなりながら。
私は自分のことが分からない。気が付いた時には旦那様――ベイに拾われていた。彼にその恩義を返したいと仕えていたが、どうしてこうしてしまったのだろう。
彼がどんなにちゃらんぽらん――映像媒体を見ながら、彼が自称していた。何を指すのか分からない――な行動を取っても、意図が不明瞭な行為をしていても、多少嗜めることはしたが、威嚇態度を取ったことはなかった。
それだけ私は今回のことを気にしていて、根に持っているということかもしれない。だとしても、私は彼が話を聞いてくれる人だと知っている。わざわざ彼の気を害する必要などなかったはずだ。
擬音で形容するなら、ふらふら、と、行く当てもなく彷徨い続ける。込み上げてくる後悔の念と、もしかしたら彼に捨てられてしまうのではないかという絶望が歩みを止めさせなかった。
建物が複雑に入り込む街は人が少なく、どこか寂しさを思わせる。日が当たって橙色の塗料が輝いているというのに。
まだ心の整理ができてないから、旦那様には会いたくなかった。街の外周に当たる道を、人目を忍ぶようにして歩き続ける。
□□□
機械人形。そう自己紹介されても俺は納得してしまいそうだった。
依頼を受けて調査に入った地下遺跡の中、床へ座り込んで一切動かない彼女を見つけた時のことだ。
古代兵器があるかもしれないから調査してくれ、と老体に鞭を打たせたわりには女の子が一人見つかるのみ。この子が古代兵器だとでもいうのだろうか。
「君」
目の前で手を振って呼びかけてみるが反応がない。ただ、自分の声が土で囲まれた部屋に響くばかり。
「もう亡くなっているのか……?」
失礼、と一声かけて動脈を確認しようと首に手を伸ばす。しかし、手首を突如彼女に掴まれた。
「私に触れようとした個体は何ですか」
どこも向いていなかった視線がこちらへと向けられる。その声は無機質としか言い表しようがなかった。
□□□
中央にある城は一見の価値があると誰かが言っていた。ふと、私はそのことを思い出した。
行き場もなく彷徨いつづけるよりも、どこか目的地を決めたほうがいいかもしれない。街の中央にそびえ立つ厳かな建物を目指して進む。
少ないと感じていた人影が増えてきた気がしてきた。名所であるという城は観光地として有名なのかもしれない。
暖かな橙色のみだった道が鮮やかな花々に彩られ、色彩の統一感が消えていく。空の色を映したワンピースをまとった女性が目の前を横切った。思い思いに好きな色を持ち合わせた人々が、穏やかな足取りで行き通う。
旦那様が度々やっていらした、眉間の僅か下を揉む動作を真似してみた。しかし、景色に大きな変化は訪れることなく、どの色も自らを主張し続ける。期待していた結果を得られなかったためか、口からため息が漏れた。
ふと、火を通した芋の香りを感じる。香りの元へ足を向けると、窯から芋を取り出す女性の姿が見えた。
何をしているのか遠くから見守っていると、芋に切れ目を入れて黄色い欠片を挟む様子を見ることが出来る。柔らかな塩気を感じる香りが漂ってきた。おそらくバターなのだろう。更に光を時折反射させる小粒を降りかけ、薄灰色の紙で芋を包むと台に並べていった。
台の前を通った男性が、女性に一声かけて芋と何かを交換する。ようやく彼女が屋台で食品を売っていたのだと理解ができた。
自分の腹部から小さく音が聞こえる。私もあれが食べたいのだろうか。気になって仕方ないが、一先ずは目標に決めていた城を目指すべきだ。
芋とバターの香りから逃げるようにその場を後にした。
□□□
地下遺跡で保護した少女は俺の家についてきてもらった。
「名前は?」
「誰にも呼ばれたことがありません」
埃を被って薄汚かった格好を綺麗にしてもらい、食卓を挟んで向き合う。
「……自分についての説明は?」
「私は、」
開かれた口がそのまま止まった。まるで歯車が噛み合わなくなった機械のように。
「いくらか記憶を失っている、と考えたほうがいいか……知っていることは何かあるかい」
「……必要最低限の言語機能を有していることのみです」
幼い容姿からは想像がつかない硬い言葉選び。人間と言われるには違和感しか抱けない。
「何かしたいこと、やらないといけないことはある?」
「使命に関する命令は現在受けておりません」
この様子だと研究所に送られることを素直に受けてしまいそうだ。本人が拒否しない限り、地下遺跡で見つけた人物及び物体を送らなければならない、という規則を少し恨むことになるだろう。
このことは一応説明しないといけない。口を開こうとしたが、目の前の人物に遮られた。
「しかし、私はあなたに仕えたいと思っております」
本人にも何故そう思ったのか分からないのだろうか、首を横へ傾けている。
感情や自分の考えを持たない何かだと思っていたが、自分の考えを述べて疑問を浮かべることができるらしい。今は人間らしさから少し離れているが、いつかこの子が人間らしくなるかもしれない。ならその手助けをしよう。
立ち上がって彼女の頭を撫でた。
「では、君の名前を決めよう。希望は何かあるかい?」
「あなたが呼びやすいと思うものであれば、何でも構いません」
「……ああ、そう言われる気はしていたよ」
□□□
城の一階は文字に埋め尽くされていた。私の知っている言葉だけでなく、知らない言葉が大量にある。読める限りの内容は城の内部と周辺の地図、城の歴史、他にも観光地の案内など。読めない言語も、恐らくは同じことが書かれているのだろう。
仲間と共に城を見て回る人々の中、一人だけただ歩き回る。目的としていた城にたどり着いたのは良いものの、だからといって城で何かやりたいことがあったわけではない。手持無沙汰になってしまったのだ。
城の内部は人の密度が場所によってまばらだった。ベランダは上の階に行くほど混んでおり、城から街を見渡したい人で多いことが分かる。
人が滅多にやってこない静かな場所を見つけた。周りに物はほとんど無く、城の情報をまとめた紙のスタンドが一つあるのみだ。ここに一人でいれば、自分の心を鎮めて考えをまとめられるかもしれない。
壁に背中を預け、膝を腕で抱え込む。
「ごめんなさい」
くぐもった声を聞いて、ここで零しても無意味と知りながら。
□□□
名前を呼ぶと、彼女はどこに居ても最短経路で俺の元へやってきた。そろそろ、窓は道じゃないということを覚えさせないといけない。
しかし、自分に名前がついたことを喜んでいる可能性もある。その喜びを奪ってしまうことは気を引けたが、
「いえ、仕える主人がお呼びであれば、早急に向かう必要があると判断しているからです」
彼女は、名前に喜んでいるといった感情を覚えていないらしい。
「用事がないのに呼んでいたらどうするんだい?」
呆れからか思わず意地悪な質問をしてしまう。人の行動に時々理解できないといった様子を見せる彼女には答えにくそうな質問だ。
「では、私が用事を作ります」
「用事を作る?」
「旦那様の睡眠時間は、健康を害するほどに短くなる傾向が度々あります。なので、それに対する対策を共に考えることを提案します」
ウエストバッグから紙の束と筆記具を取り出した。彼女が冗談を言わないことは知っていたが、本気で考えられるほど睡眠時間は短かっただろうか……。
「俺は良い年齢だから短くなっちゃうだけ。健康に影響は出ていないから心配しないで」
紙の束を押し返すようにすれば、彼女は唇を尖らせてこちらを見てきた。これは親切を無駄にされたことに対する抵抗を感じていると見ていいのだろうか。
「確かに旦那様の年齢を加味することを失念していました。また調べてきます」
自分の調査に対する失態を悔いているだけのようだ。少し寂しさを覚えてしまう。
「健康を気にしすぎてしまうことが不健康に繋がるとも言われるから気にしなくていいよ」
「ですが、私は旦那様に健康で長生きしてほしく、」
「それはなんで?」
彼女の瞼が距離を取った。間から見える瞳が右往左往として定まる様子が無い。
「――そ、れは」
やってしまった、と気付いたのはその声を聞いてから。自分のことを見てくれていないのでは、と思わず冷たい反応をしてしまった。自分で良い歳だと言っておきながら、なんと青臭いことをしてしまったのだろうか。
「ごめん。今のは聞かなかったことにしてくれると助かる」
「かしこまりました……」
静寂。どちらから動くこともなく、何か音が聞こえることは無い。
最近調査を行った地下遺跡の報告書に関して、質問が届いていたことを思い出す。あれに返答をして報告書を纏めなおさないとならない。
引き出しから封筒を取り出してペーパーナイフで開封する。中身に目を向けていると、扉が閉まる音がした。彼女が退出したのだろう。あの子には申し訳ないが、何と声をかければいいのか思い浮かばなかった。
ため息が手紙の端を揺らす。
ペン立てで待っていた万年筆を手に取り、窓は経路じゃないと伝え忘れたことを思い出した。
□□□
私の目から溢れようとする涙を、床へ零さないように堪える。喉が渇いてきて、息が少し苦しい。
突然、隣に何かが置かれた。人というには軽すぎる音だ。恐る恐るそちらを見ると何かが詰め込まれた袋が確認できる。
誰が置いたのだろう。もしかしたら落としたのかもしれない。辺りを見渡そうとした時、すぐにその姿を見つけることができた。
「旦那様……」
涙が一粒落ちていく。零れていった筋を指で拭ってからまた彼を見上げた。しかし、その顔には影がさしていてどのような表情を浮かべているのか分からない。
謝っても許されないかもしれない。恐怖が心を支配して、胸部を冷やしていく。その冷気が口元にも伝わったのか、唇が震えて「ごめんなさい」の言葉が出てこない。
何も言わずに背を向けられる。置いていかれるのが怖くて、隣に置かれた袋を持って追いかけた。
□□□
「旦那様」
朝日と共に俺が執務室から出ると、丁度やってきた彼女に呼ばれた。
人に睡眠不足を指摘するわりには、自分も睡眠を十分に取っていないのではないだろうか。そう思っても胸中に仕舞っておくことにした。
「おはよう、丁度良かった。これから少し出かけてくるから留守を頼めるかい?」
報告書の訂正版を郵便に頼んだら、ついでに息抜きでもしてこよう。あまりこの子の前では酒を飲みたくはないが、今は頭を一度すっきりさせてしまいたい。
「かしこまりました。その前にお時間少しよろしいでしょうか」
「ああ、構わないよ。どうかしたかい?」
何か足りない物でもあっただろうか。店で必要だと謳われていたものは買ってみたが、そうとも限らなかったか。それとも意外と怪力な彼女が何かを壊してしまったか。あとは、睡眠不足に関して何か言われるか。
……一番候補として正解に近そうなものは三番目だろう。
「前回の問いについてなのですが」
「前回の問い?」
「旦那様に長生きをしてほしいと思った理由です」
「もしかして、それを考えて今まで起きて……?」
「恥ずかしながら、考えているうちに夜を明かしてしまいまして」
恥ずかしいという割には頬が赤く色づくことはなく、真っ直ぐと目を見ながら話してくる。こちらの方が恥ずかしくなってしまいそうだ。
「旦那様が居なくなったらと考えた時、胸部に強い痛みを覚えて呼吸が困難になったような錯覚を覚えました」
朝日に照らされた彼女の瞳が、輝いたようかのように見えた。
「何故このように苦しくなるのか説明を要求されても、私に不明なので説明は不可能です。ですが、苦しくなることは避けたいです」
彼女の背に腕を回す。片手で掴めてしまう頭には手を優しく添えるだけでとどめた。彼女の表情は分からない。けれど、いつもと変わらぬ表情をしているのだろう。
「俺は君に酷いことを聞いてしまったようだ。ごめん、ごめん……俺は君から離れたりしないから。居なくならないから」
□□□
見失った。私がいつも見ている背中が、見知らぬ桃色のワンピースに消されてしまった。
行こうとしていた方向を推測して進んでも、いつまでも落ち着いた灰色が見えてこない。
私は、旦那様に捨てられてしまったのかもしれない。足が震えて歩けない。喉が苦しくて息ができない。
でも、仕方ないことだ。私は彼を侮辱するような行為をしてしまった。私は彼に謝罪をすることができなかった。私は彼の元から去ってしまった。私が彼にとっていらないものとなったのだ。
これ以上彼を探しても見つからないだろう。震える足を動かして、壁際へと移動する。深呼吸を繰り返して、体に酸素を送り込む。
これからどうすべきか。そうだ、遠くへ行こう。旦那様の目に映らぬように。
ウエストバッグには路銀が入っていたはずだ。他にも入っているものはあるが、いつ使えるか分からない。分からないと言えば、彼が置いていった袋には何が入っているのだろうか。開けてみると、屋台で売っていた芋が七個も入っていた。……彼なりの選別かもしれない。
人が多く居るのなら、乗り合いの車が出ているだろう。まずはそれに乗って街から離れたい。
人の波に流されながら乗り合い所を探す。それらしき場所はすぐ発見できた。しかし、まだ昼にもならない頃だからか、乗り合い所からやってくる人に押されてたどり着くまで時間がかかった。
乗り合い所で車を待つ人数は少ない。黄色のシャツを着崩している男性、汚れが見当たらない白いスカートを穿いた女性、夜のように髪が暗い女性、そして私が増えた。髪が暗い女性は私と同じ程度の身長に見える。
一列に座らせるよう並んだ長椅子へ腰をかけた。ウエストバッグへ入りそうにない芋の袋を膝の上で抱え込む。微かに芋とバターの香りが袋から漂ってきた。
ぐぎゅるる。
突然聞こえた音に驚いて隣を見ると、暗い髪の女性が腹部を抱えてこちらを見ていた。
「あの」
「ひゃ!? な、ななにゃんでしょうか!?」
噛んだことに気付いたのか、女性の手が腹部から口元へと移動する。
「空腹なのでしょうか?」
「あう……ち、違うの。いや、何も違わないんだけど……」
顔の前で手を必死に振り、彼女は視線を右往左往した。随分とせわしない人物だ。
「空腹ということですね」
「そうです……で、でもあなたのじゃがバターが食べたいわけではなくて……!」
また腹部を抱えて目を逸らされた。旦那様がこのような反応をしたことがないため、正しい応答が分からずに困ってしまう。
「そうですか」
「そうでs」
ぐぎゅるる。
「……一つあげます」
□□□
俺は地下遺跡の調査を仕事として託されている。
地下遺跡は大昔にあった戦争の際に作られた砦だと言われている。そのためか、地下遺跡は場所によって頑丈さを重視したものなのか、ただ早急に作られてものなのか、振り幅が大分異なっていた。しかし、共通して特殊な素材の壁でできている。その素材は岩に似ているが少し違っていた。
何故遺跡が地下にあるのか、この推測は至極簡単なもので、砦も含めて戦場まるごと土の下へと埋められてしまったから、というものだ。この説は非常に強く押されており、その根拠として上げられるものが近くにある火山である。現在では活動の兆しを見せないが、この地の戦場が埋もれる頃には活動があったと計測されているらしい。
しかし、昔の人々は砦にいくつか優秀な技術を残しながら、火山の活動に負けてしまった、とは……人類が自然に打ち勝てる日など来ないということの示唆だろうか。
執務室の窓から見える火山は、草木が覆う自然豊かな山にしか見えない。だが、その草木は地上で見るものとは姿が異なるものばかりなのだと聞く。自然とは想像だけではどうなっているのか理解できない物ばかりだ。
……話でも考え事でも、すぐに脱線してしまうのは若い頃からの嫌な癖だ。
煙草をふかして室内を煙まみれにしてしまいたい。煙の流れを眺めると落ち着いて考え事ができるからだ。しかし、彼女に悪影響を与えてしまう可能性を考慮すると、避けるべきなのだろう。
彼女についても調べなければならない。この付近では最大規模と推測されている地下遺跡だ。何か情報の取り逃しがあるかもしれない。また調査に出向かなければならないが、彼女を一人で留守番させたくない。このこともどうするか考えなければ……ああ、国は随分と老体を無茶させる。
□□□
「すいません、これで乗れますか?」
車に乗るのは初めてで相場が分からない。以前、旦那様――いや、ベイに貰った綺麗な路銀を何枚か運転手に手渡す。何度か運転手に私の顔と路銀を見比べられた。
「ああ。少し多いから今お釣りを返すよ。ついでにこれもサービスだ」
「ありがとうございます」
印字された紙と路銀を手に握らされる。それらを仕舞う前に夜空の髪の女性に隣へ座るよう促された。
隣に座らせてもらい路銀をさっさと仕舞う。次いで紙を仕舞う前に何が書かれているのか開いてみた。文章と絵を交えて地域の紹介がされているものだった。
「観光パンフレット熱心に眺めてるけど、あなたもしかして、この辺りの子じゃないの?」
パンフレットと呼ばれた紙から目を放し、首を傾けながら隣の女性を見る。
「……この辺りがどの辺りを指すのかによって変わります」
「ええと……あの街から歩いて日が沈まないならこの辺り、かな?」
彼女はしばらく指を杖のように振り回した。
屋敷から街までならそれほどかからない。彼女が示した条件としては、十分『この辺り』に含まれているだろう。
「であれば、『この辺り』ではあります」
「んー、もしかしてちょっと街から離れてるのかな。どこに住んでる子?」
パンフレットを広げられ、指で示すよう無言の指示。
「火山と街を挟むことが出来る位置です」
口でも説明をしながら指差す。しかし、彼女からの反応はない。何か間違えたのだろうか。
「……誰と一緒に暮らしてるの?」
「何か変なことを言ってしまいました?」
「あ、いや、そんなことはないよ! も、もし答えられなかったりしたら、何も言わなくて大丈夫なので!」
彼女は自分の顔の前で手を振る癖があるらしい。この仕草を見るのは二度目だ。
「ベイ、という旦那様と共に住んでおりました」
「やっぱり、……」
手で若干隠されてしまったせいか、彼女が何と口にしたのか途中から聞こえなかった。彼女は旦那様と知り合いなのだろうか。
「待って? 今、『住んでた』って言った? 今は住んでないの?」
「私は、旦那様に向かってイケないことをしてしまいましたので……」
「何をされたの!?」
何をしたのか、と聞く方が正しいのでは。
□□□
地下遺跡の調査には国から選ばれた者しか行けないことになっている。例え、調査する者にどれほど親しくても、どれほど必要な人物でも入ることは非推奨とされている。――俺が地下遺跡で見つけた少女だとしても、上は微妙な顔をするだろう。
自分が選ばれたことは未だに不思議でたまらないが、不自由の無い生活を送るためには仕方ない。長いものには適宜に巻かれてしまおう。
ギリギリまで引き延ばしても意味がない。彼女に調査でしばらく留守を頼むことになる旨を伝えよう。
朝食に並べられていたメープルシロップの香りが自分の体中から香る。そりゃそうだ、彼女に遠慮なくかけられたのだから。
「べーっだ!」
年相応に思える仕草を置き土産に少女が泣きそうな顔のまま背を向けた。
――もう少し早く伝えていればよかったのだろうか。それとも遅く? 伝え方を間違えてしまったのだろうか。
走り去っていく彼女を呼び止めることができずにいた。
□□□
「なるほどねえ……うーん、多分大丈夫」
私の目の前で、夜空が瞼で月を欠けさせた。
「でも、私はあなたにじゃがバターを貰ったから、あなたが行きたいとこまでついていくよ!」
食べ物を貰ったからという些細なこと。それでも、彼女はその理由でついてきてくれる。
以前の私も、そうだった。
「ありがとうございます」
「いいってことよ、いいってこと! 私もちょっと遠くに行きたかったし」
そういえば、彼女はどうして乗り合いの車に乗ったのだろうか。目的地があるなら、共に行くことを辞退すべきかもしれない。
しかし、これまで自分のことばかりで、他に気をつかえていなかった。一度反省する必要がある。
「目的はどちらに? 場所によっては先ほどの申し出は遠慮させていただきます」
「いやいや、大丈夫。特に目的は決まってなくて、ただ街から離れたいだけだから」
手を振ること三回目。その手首に下がっている鞄以外、彼女の荷物は見当たらない。旅をするというには、あまりにも無理のある姿だ。
もしかしたら、彼女も似たような事情がある可能性がある。
「あの、よろしければ、何故か聞いてもよろしいでしょうか?」
驚きを浮かべてから、困ったような顔でこちらを見てきた。
「ええと……私も、親とケンカしてね。ちょーっと、ちょーーっと家に帰りたくないだけ」
どのように声をかけるべきなのか。言葉が一切出てこない。
「あ、いつものことだから、あなたが気にするようなことじゃないから、大丈夫、ね」
「そうですか……」
口を閉じようとした時、彼女が車の外を指差した。
「そんなことよりほら見て! 海だよ、海! 知ってる?」
「うみ?」
同じように視線を向けると、遠くにある水面が輝いた。
□□□
彼女を見つけることは簡単だった。しかし、俺がかけるべき言葉は見当たらない。
見つけた? ごめん?
彼女が何を求めているのか、俺には分からない。
しばらく歩いていた彼女が立ち止まった。視線の先にはじゃがバターの屋台がある。朝食をまともに食べていないから空腹を感じたのだろうか。
道中何度か城のある方角を確認していたため、目的地は城だろう。彼女が行ってから買っても問題無く追い付けそうだ。
この場に長く居たくないのか、足早に去る彼女を見送る。手早くじゃがバターを買ってからその後を追いかけた。
彼女が観光目的で城に来た可能性は考えられない。そもそもこうなった原因は、俺が彼女の機嫌を損ねたからだ。恐らく、人の多い場所ではなく、どこか静かな場所にいるだろう。
何か所か検討をつけて回ると、窓からの光を浴びて縮こまっている彼女を見つけた。
震える体は触れてしまうと壊れてしまえそうに見える。頭を撫でてやることも、背をさすることも、抱きしめることも、優しい言葉をかけてやることも、自分に権利が無いように思えた。だからといって、ただの謝罪で終わらせてもよいと思えない。
じゃがバターを彼女の隣へ置いて、どうすべきか考える。如何せん妻子を持ったことがないため、こういうことに疎すぎた。以前までよく通っていた酒屋の娘が言っていた、「遊びに付き合ってくれてる女の人達の気持ちを分かりなさいよ」が身に染みてくる。
そういうことを思い出している場合じゃないと意識を戻した時、彼女がこちらを見上げていた。
今にもこぼれんばかりの涙が光を返す。彼女がどれほど辛いのかを知ることはできないが、それでもその感情を彼女に持たせてしまったことに罪悪感が湧き上がる。
機械人形のようで感情が薄いと思っていたことを、今すぐにでも反省したい。彼女は紛れもなく心があるのだ。それなのに、試すような真似を一時的にでも考えていたこと、反省したつもりでしきれていなかったこと、後悔してもしきれない。確かに彼女と会話はしていたが、それでも互いを知るには少なすぎた。それ故に、このようなことになってしまったのだろう。
「旦那様……」
いよいよ零れた涙を自分で捕まえ、彼女は口をまた開いた。震える唇から出てくる言葉は恐らく謝罪。
謝罪に対して俺は正しく返せるのだろうか。君は悪くない、は違う。俺も悪かったと思っている、でいいのだろうか?
自分の言葉が出てこないからと思わず顔を背けてしまった。何を思ったのか、彼女はついてこようとしてくれる。
それにほっとして俺は気を抜いてしまった。
□□□
海が見えてくると段々、不思議な香りが私の鼻孔をくすぐりはじめた。塩気を感じるが、塩ともバターとも違う香りだ。
夜空の髪を風で靡かせ、彼女は潮風が海から吹いているからだと教えてくれた。
「遠くから見てたあれは海なんだ……」
海の水面が反射させた日の光に目を細める。
「あの屋敷から海って見えたっけ?」
「いえ、見えませんがどうかしましたか?」
「え?」
二人で首を傾げあう。風が収まったからか、夜のカーテンは重力に従って揺れていた。
「今、あなたが、遠くから海を見たことがある、って言ってたから」
「言っていましたか?」
「言ってた……と思う。私もちゃんと聞いてたわけじゃないからあれだけど……」
もしかしたら、無意識のうちにベイと会う前のことを思い出していたのかもしれない。思い出すのなら、はっきりと思い出したかった。
再び外に目をやると、やけに大きな扉が付いた小さな建物がいくつか建っていた。大きな扉にはそれに見合う大きさで、それぞれ異なる数字が書かれている。
「あれは……?」
「そっか、海が見えてきたってことは倉庫街に近づいたってことかあ」
「あれは全て倉庫なのですか」
均等な大きさで綺麗に並べられた倉庫を眺める。その数は少なくはない。進んでいくほどにまだあると姿を見せてきた。
周りをよく見ずに歩いていたら迷子にでもなりそうだ。
「あんまり知らないけど、大事な物があるんだって」
顔を寄せて、声を控えるように彼女が言った。
「大事な物?」
彼女の真似をして慎重に返事をする。
「うん。大事な物だからあまり話したくないって言ってたくらい大事」
「それは大事ですね」
以前ベイが、私たちの出会った場所である地下遺跡のことは機密事項だと言っていた。もしかしたらそこに関する物、例えば、出会う以前の自分の手がかりに関する古代兵器が見つかるかもしれない。
そう考えが達すると、早く行ってみたくなった。運転手に頼んで降ろさせてもらう。夜空の髪もまた、日の元へ晒された。
□□□
油断は些細なことであれ禁物である。
かつての上官に厳しく言われ続け、俺が軍を抜けるまでは気を付けてきたことだった。いや、今でも地下遺跡を探索する際には気にしている。
しかし、戦場では気を抜いていないと言い、上官に口答えをするなと叱責されたことを今更思い出した。あれは日常生活でもこのようなことが起こりうるという注意だったのかもしれない。真意は分からぬ上官の言葉が耳を傷める。
後ろにいたと思っていた少女の姿が見当たらない。
歩いてきた道を戻りながら見渡しても見つかることは無かった。
はぐれたと認識するにはさほど時間は要らず、慌てふためくには十分すぎるほど問題だった。彼女が居なくなって不安なのは何よりだが、彼女はまだ幼いため一人で居る危険性も高い。口調こそ硬く、大人のような言い回しをするが、実際にはまだ知識が足らない子供。何かがあってからでは遅い。
幸いなことに、彼女の服装はこの辺りでは非常に目立つ。誰かしらが目撃していることを期待してもいいだろう。
だが、気を引き締めなければならない。もし古代兵器のために彼女が誘拐されたなら、彼女が無事だとは限らないからだ。
背広の中に隠してある小さな得物の存在を確かめる。いざという時は、これで彼女を守らねば。
□□□
倉庫の壁は赤茶色のレンガが積まれていた。私達から遠くに見えている澄んだ青とは対照的に見える。
「こうやって近くで見ると、意外と大きいね」
彼女が見上げると、夜空の髪にできた星の川が揺らいだ。
真似をして倉庫の屋根を見ようとするが、倉庫の間近からは見ることはできない。扉も同じように上へと続いているように見えた。
「そうですね。扉も普通の子供には開けることが難しそうなほどです」
「ね。それにどれも似たような見た目だし、面白いの無いと思うよ?」
辺りは車から見た景色と何ら変わりはない。倉庫の横には倉庫が続き、前や後ろにも倉庫が並び続けていた。遠くに海や火山が見えなければ、永遠と並んでいるようにも錯覚しそうだ。
「中……は見られないですね」
どこかに窓は無いかと探ってみるが、扉以外は全面レンガで囲われている。
「鍵がかかってるからね。見たいのでもあった?」
中身の姿を見るだけでいいと考えていたが、彼女には実際に近くで見たいと思われたらしい。扉についている錠前の音を鳴らしていた。
中に何が入っているのか、見当はつかないが、古代兵器に関わるものの可能性が高い。彼女の質問はあっているようであっていなかった。
曖昧に返答して、辺りをうろついてみる。彼女も同じように何か無いか探してくれた。
「あそこに誰かいる」
角から頭を出して、すぐに引っ込めた。小声で知らせてくれたことを確認するため、同じように頭を出そうとする。
「もしかしたら鍵を外せる方でしょうか。話しかけてみましょう」
「ちょ、ちょっと待って待って……!」
しかし、全身で動きを阻害された。
「どうかいたしましたか?」
「話しかける前にどんな人なのかちゃんと観察しないと」
手を顔の前で広げて止める。彼女の新たな動作を発見した。
「訊ねた方が早いのではないでしょうか」
私は少しの路銀を持つのみ。いざとなれば、彼女だけ逃げてもらえれば問題ない。だが、彼女は珍しく声を落として真剣な眼差しを向けてきた。
「素直に答えてくれる人だったらね」
そうか、彼女は自分だけでなく、私の身も心配してくれているのだ。
「なるほど、誤魔化すような方だった場合、下手に話しかけると警戒させる恐れがあるために危険、そういうことですか」
では、できる限りは互いが無事であるために、彼女の誘導に従おう。それでも、いざという時は、持ちうる限りの力で彼女を守らねば。
「そういうことかな? ま、まあ、家でお店の手伝いする関係で観察するのは得意だから待ってて」
「分かりました」
謎の人物の姿を把握しておきたかったが、それも断られるだろう。代わりに、角から観察する彼女に背を向けて、他に人が居ないか周囲を見渡す。
見える範囲では誰か居るようには見えない。誰かが出てきてもいいようにそのままで居ようとしたが、後ろから声をかけられた。
「あの人すっごいキョロキョロしてて、落し物したか迷子になったみたいな感じする」
「迷子でしたらご案内しませんと」
「まだそうと決まったわけじゃな、こっちきた……! 場所変えよ」
「はい」
手を引かれるままに走っていくが、これでは向こうに足音が聞こえてしまうのではないか。しかし、必死に走る彼女に伝えても、もう遅いと口を噤んだ。
「ここからなら見え……ごめん、見失っちゃった」
頭を右往左往させながら、彼女は口を開いたが、聞こえてきたのは悲報。予想はできていたため、彼女ほど落胆はしなかった。
「いえ、大丈夫です。きっとまた会えますから」
「会えた方が危ないかもしれないんだけどなあ」
口から息を吐き出して、彼女は改めて辺りを見渡す。自分も後ろを警戒しておこう。
「そうだぞぉ、お嬢さん」
振り返ると、いつの間にか背後にいた男性が頷いていた。
□□□
屋台の店主達に聞いて回った結果、乗り合い所へと向かっていったことが判明した。礼が雑になってしまうが仕方ない。彼女を見つけることができたら、また礼に来よう。
街から出ている乗り合いの車は、何台かが往復を繰り返している。運が良ければ、彼女が乗った車の運転手に話を聞けるかもしれない。運が悪かったら直ぐに話を聞けないわけだが、そこは賭けだ。
丁度止まっていた運転手に話しかけると、俺を見てやはりと言われた。何かしてしまっただろうか。
「この路銀を渡されて、もしかしてと思ってな」
普段は流通されることの無い路銀を一枚、運転手がよく見えるように見せてくれた。
「変わった服を着た少女から受け取ったか? なら、その子がどこで降りたか教えてもらえると」
「落ち着いてくれ、ベイの旦那。場所はちゃんと教えるし、なんなら車用の馬も貸すから」
「ありがとう。助かる」
車から外した馬の手綱を手渡される。それから、この路銀は高すぎるとポケットに見せてくれたものをねじ込まれた。
「あの子は倉庫街で降りていったよ。お急ぎならさっさと行きな!」
馬上でバランスを取っていると、何かが叩かれた音と共に馬が突然走り出した。あの運転手は、落ちたらどうするつもりだったのだろうか。
揺られながら手綱を強く握りしめる。
倉庫街には古代兵器が厳重に仕舞われているが、それを狙うやからが時折現れる。どいつもこいつも安全とは言えない者ばかりだ。急がねば。
暴走に近しい馬を御して、補整された道を駆けていった。
木々の隙間から磯の香りが漂ってくる。まもなく海が見えてくるだろう。倉庫街も近いということだ。
急いで来たものの、ここは狭くない。地上から目視で探すには難しいことに、今更気付いた。しかし、細かく見て回るしか方法はない。
「ちょっと! その子を放しなさいよ!」
どこからか、元気な声が聞こえてきた。ここに居るとは思わなかった見知った声。
もしかしたら、彼女達は一緒に行動しているかもしれない。
淡い期待を抱いて声の元へと急いだ。
□□□
「私なら大丈夫です。この男性の目的が不明瞭な今、あなたは自分の身を守ることを考えてください」
体を片腕で抱きかかえられ、私は身動きが取れずにいる。
「こっちのお嬢さんはちと冷静すぎやぁしないかねぇ」
私を捕らえる黄色のシャツを着崩した男が、ナイフを私の首に向けているからだ。
「優先順位を明確にしているからです」
「まぁ大人しくしてもらえるぶんにゃぁ、ありがたいからいいんだけれど」
顔を向けて話すと、それはどうか、と視線を向けられる。どうしようも無いというのもあるから仕方がない。
「ばかー! 自分の身を大事にするのはそっちもでしょー!」
男性と対峙する夜空の髪の女性が叱責してきた。
「……見事に対比な反応だねぇ。ほらほら、このお嬢さんもさっき言ってた通り話を聞いて、って、時間がねぇみたいだ」
「はあ? その子に何かする気?」
男性が顔をどこかへ向ける。誰か来たのだろうか、助けを求められるだろうか。同じ方へと視線を向ける。
「そうさねぇ、そこの人の様子次第かな」
――何故、ここにいらっしゃるのでしょうか。
来るとは思ってもみなかった方がそこに立っていらした。
「ベイ……?」
零れるように名前を呼べば、旦那様は首を僅かに縦へ振ってくださる。
もしかして、と自分を助けに来てくださったのかと期待してしまう。でも、と自分ではなく、夜空の髪の女性を助けにきたのかもしれないと寂しくなってしまう。それでも、と彼が傷ついてしまう可能性に恐怖で体が震えてしまう。
思わず、私の体を捕らえている黄色のシャツを握り締めた。
「そのまま、三人で楽しく会話してもらえたら助かっただろうに」
ベイは息を僅かについてから、衣服の襟を広げる動作を行う。あれはいつも何かしらで疲れた時にする動きだ。
急いでここまでいらしたのだろう。――嫌だ。やめてほしい。来ないで。
喉が苦しくなってきて呼吸が荒くなる。悟られないようにしたかったが、どうにも難しい。夜空の髪の女性が、眉尻を下げてこちらを見てくる。
「自分が、ってぇところかい? いやはや、僕はちょぉっと探し物をしていただけさ」
黄色のシャツを着た男性はこちらに気付くことなく、ナイフが私に刺さらぬよう、器用に体を動かした。肩を竦めておどけた、というところか。
もしも、このナイフが旦那様に刺さってしまったら――そのよう場面は見たくない。大切な人が傷つく、そのような場面は。
旦那様を視界に入れないよう、落ち着いた夜空の色を眺め続ける。
「わざわざ人質を取るような真似をしてまでか?」
この声のトーンは、眉間を揉んでいるときに聞くものだ。考えを纏めようとしているときのものである。
どうか、それで私を置いて逃げるという考えを持ってほしい。――しかし、それは自分が知っている旦那様とは違う。あの方は、嫌なことでも逃げたりしないから。
「下手に告げ口されたら困るんだよぉ」
「なるほど。君が何者かよく分かった……しかし、俺の優先事項は子供二人の安全だ。見なかったことにするから開放してくれ、と頼んでも無意味か」
「色々とよぉく分かってくれてなにより」
私を捕らえている男性は緊張しているのか、段々腰へ回している腕が力んできている。いや、それとも私が逃げないようにしているのか。
私は逃げない。逃げないから、私以外の人達を逃がしてほしい。そう伝えたくても、口から出るのは意味のない音ばかり。
「では、すまないが、我慢してくれ!」
影が一気に近づき、短剣が目の前を通っていった。しかし、それは黄色のシャツの男性も、私も捉えることはなく終わる。
思わず顔を上げて、旦那様の方を見た。あの方は眉間に皺を寄せて眼を鋭く細めていたが、すぐ私へ柔らかな笑みを浮かべてみせた。
いつの間にか溜まっていた涙が、雫となって零れていく。だってあれは――。
「はぁ!? 人質傷つけるかもしれねぇってぇのにそれはどうよ!」
得物を持っていると思っていなかったのだろうか。先程までより声を大にして旦那様へ言葉を放った。確かに、最初は持っているようには見えなかった。恐らくだが、背広の内側にでも隠していたのだろう。
「だから、我慢してくれと……大丈夫だ、君が暴れなければ大事にはしない」
大丈夫、問題ない、心配しなくてもいい。そう私を安心させようとする時の優しい顔で、旦那様がおっしゃられた。
「りょう、しょう……しました……」
なんとか言葉を絞り出す。頭も何度も縦に振って肯定を必死に示す。
あの時の旦那様なら安心できる。理由もない確信によって、体の震えは収まっていた。
「あなた達何のんきにしてるのよ! どこも大丈夫じゃないでしょ!」
会話している間に距離を取っていた夜空の髪を持った女性が、必死な様子で叫んでくれる。
「くっそ。こうなりゃ……おらぁ!」
私の首を狙っていたナイフは、狙いを旦那様へ変えた。
「あぶないっ!」
誰かが叫んだ。
――大丈夫。旦那様なら大丈夫。
しかし、旦那様の頬に赤い筋が。
□□□
対面している黄色いシャツの男の動きは悪くなく、俺は完全に避けきることができなかった。
「流石に、ただの一般人ではないようだな」
相手の腕に閉じ込められたままの少女が傷つけられていないことが幸いだ。
「そういうあんたもねぇ……まっさか、かすり傷しかつけられないとは」
互いに距離を取り合って様子を見あう。どっちから動くのか。
だが、最初に動いたのは俺でも、男でもなかった。
「……めて」
距離があるから聞こえなかったが、人質となっている彼女の声だ。
「ん? ああ、苦しかったかい? ごめんねぇ」
男はそう言いながらも体勢を変えようとはしなかった。いや、もしかしたら変えようとしたのかもしれない。
だが、
「ぐぁ!」
その前に男は倒れていた。
何があったのか見えなかったが、その上に捕らえられていた少女が立っている様子はよく見える。少女は男からナイフを取り上げると、顎に蹴りを入れた。地面と頭がぶつかりあう音が聞こえてくる。
男の顔が空ではなく横へ向いた。もう十分だろう。
「無事か! 無理をさせてすまな……」
少し急ぎ気味で少女の元へ向かう。しかし、彼女は男の足に向かってナイフを振りかぶった。
「それ以上はダメだ!」
無理矢理止めるため、彼女に向かって飛び込んだ。
□□□
私の目の前で、彼は弱々しく笑った。
体中に裂傷を作り、血まみれになりながら。息をすることさえ辛いだろう。だというのに、まるで無邪気な子供のような笑みを浮かべていた。
口がゆっくり動く。それ以上無理をしてはいけない。
誰なのか全く思い出せないが、彼がこのまま亡くなってしまうことを、とても苦しいと感じる。
いくら手を伸ばしても届かない。このままでは、このままでは――。
「、ありがとう……僕の――」
――もう、大切な人が傷つく、そんなもの見たくない。
「それ以上はダメだ! ロスト!」
ぶちりと、手に持っていたナイフが、布を裂いて肉に食い込む。ナイフが深く刺さった箇所から、血垂れていき、私の手を伝っていく。
「旦那、さま……?」
ナイフが裂いた布は、見覚えのある背広。斜め後ろから旦那様について歩く時、揺れる腕の奥に見る。
「っ、無事か?」
白い清楚な背広が、血で赤黒く染まっていく。それは止まることなく広がる。
「ヒッ、あ。ごめんな、さい……ごめんなさい」
何もできない手が、ナイフを放して、重力に従う。手だけではない。体中に力が入らない。
自分の手で大きな怪我を作ってしまった。何をしたらいいのか分からない。謝ることしかできない。だが、謝るだけで怪我は治らない。
「大丈夫。大丈夫だ」
大きな手のひらに顔が包まれる。指先が僅かに冷たいが、温かい手だ。
そうして、旦那様と視線をあわせられる。あの弱々しい笑みではなく、優しい柔らかな微笑みだ。
言葉を返そうと口を開いた時、
「大丈夫じゃ、ないでしょー!!」
夜空の髪を乱しながら、まだ共にいてくれた女性が叫んだ。
黄色のシャツの男性は、どうやら他国からやってきた人物らしい。夜空の髪の女性を家に帰してから、何かしらの制服を着た人達とそう話しているのが聞こえた。包帯を巻いてもらいながら、旦那様はいつもと変わらず受け答えをしていらっしゃる。
邪魔にならないよう隅で大人しくしていたら手招きをされた。
「お呼びでしょうか」
「色々起こって言いそびれていたことがあって」
一体何のことだろうか。もしかして、自分の口から勘当を言い渡そうと?
元を辿れば、私が勝手に拗ねて逃げてしまったことが始まりだ。十分にあり得る。せめて、私も謝罪をしないと。
「ごめんなさい」
「すまなかった」
二人の声が重なった。
もし、まだ夜空の髪の女性がここに居たら、呆れたため息をつきながらも笑顔で見守ってくれていただろう。
「俺の所為だというのに……はは、こんな些細な幸せを享受していいのかい?」
脇腹が痛むのであろう。片手で覆いながらも、旦那様は笑い続ける。
「いいと、思います。旦那様だけの責任ではありませんから」
私の頬が僅かに上気した。
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小さな湾は必要なくなると、あっという間に失われた。
山懐は、埋め立てられて消え去った。
取りそこなった格間が、彼らに見上げられ。
無駄にした翼廊は、土の下で家主を待つ。
諸行無常とはそのようなもの。変わらぬ風景は無く、土地は人に合わせて変わり続ける。
権力を見せつける豪華絢爛な建物も、戦に巻き込まれたなら無様に倒される。
踏み倒され荒れた土地にも、いつか自然が芽吹いて姿を隠していく。
これはそのような、移り行く中の些細な場面。
神奈川工科大学文芸部 COMITIA128配布作品