血の池の底には青空が
「あら不思議。トンネルを抜けるとそこは、異世界でした…」
ポケットから電子タバコを取り出して、一服を始める駿馬。
バッテリーは半分近く残っているが、肝心の草の方がもう三本しかない。
「…みたいな?」
駿馬は街中で目覚めた。
街中とはいうが、文明レベルは中々低そうな印象を受ける。
控えめに言って、産業革命以前というところか。
街灯無し。電線無し。信号無し。看板無し。
地面は土だ。かなり踏み固められてはいるが、所詮は土だ。自動車やバイクは走行できないだろう。
建物は煉瓦ならいい方、土壁が多い。
屋根には木材、というか枯れた枝やむしろが多用されているようだ。
家の前で焚き火をし、そこで土器を焼いている女性がいる。
服装と言えば、薄汚れた一枚布をグルグルと身体に巻きつけているだけの、遥か昔のインド風スタイル。
イメージだが。
「っかしーな…」
空を見上げると、冬の高い空にポツポツと雲が浮いていた。いい天気だ。
「…池に、落とされたような、気がしたんだけどなあ…誰にって、なんかこう、仏様みたいなやつに…なに一人で喋ってんだ俺超きめぇ」
懐からスマホを取りだすが、バッテリーは切れている。
電子タバコはあと三本。
財布の中身は一万五百円。
服装は冬用の一張羅。黒いスラックスに革靴、白のワイシャツにインナー、その上に黒いコート。
形状記憶合金の眼鏡もちゃんとつけている。
「…メシでも食うか…」
さて、日本円は通じるのでしょうか。
吸い終わった電子タバコの吸殻は、キチンと携帯灰皿の中にしまって、ぶらぶらと歩き出した。
露店では、四十過ぎくらいの男が肉を焼いているようだ。なんというか、ラテン系の顔立ちだ。
やはりここは日本ではないのだろうか。
いや、油断は出来ない。この頃の日本は結構外人さんが多い。日本民族はいずれ淘汰されるだろう。
まあ、注文してみよう。
牛串と言えば六百円くらいのイメージだが、五百円で買えるのなら買おうと駿馬は思った。
「すいません、おいくらでしょうか」
ぱち…ぱち…ジュジュー…
炭に脂が落ちて煙が上がる。
この煙がいいのだ。これで簡易的な燻製になる。
「…ハウマッチ、イズディス?」
ポワッ!
脂が燃えて炎が上がる。とたんに肉にススがついて黒くなる。
ええい、下手くそめ!俺が焼いてやろうか!?
思ったが、口には出さない。
「…ヘーイユー、無視シナーイデヨー」
ラテンの男は、駿馬の言葉に答えるどころか、こちらを見ようともしなかった。
悲しかったので、駿馬はその場を離れた。
駿馬はパン屋を見つけた。
何故パン屋だと分かったのか。
それは、看板に書いてある文字だ。
《パンのジュドー》
平仮名と片仮名で表記されていた。
「なんだいなんだい、単なる日本じゃないのー。もー。驚かしてー。おじさんったら、なんかこう、別次元とか来ちゃったかと思って、どきわくー!しちゃったよもー!」
安心からか、妙にオネエな口調で独り言を喋る駿馬だった。
「どーれ、なんかこう、果物で甘酸っぱい系の菓子パンでも買ってやりますかね。あとコーヒーをー、くださいー。ブラックでー、くださいー、ごめんくださいー♫」
カランコロン、という音を期待したが、扉は引き戸なので鐘などついていない。
「いらっしゃーい」
(それきたビンゴ!日本でした!)
まあそれならそれで、自分はどこにいるのかが不明なわけだが。
自殺しようとした場所は、茨城県の境界町のあたりだったはずだが、ここがそうなら境界町は随分と寂れているようだ。
やり手の町長さんだと聞いたのだが、もう国政に出てしまったのだろうか?
店内は暗い。
明かり取りの窓から差し込む光が無ければ真っ暗闇だろう。
駿馬はトングとトレーを探したが、見つからない。
だがパン屋だ。
陳列台の上にはシンプルこの上ないパンが並べられている。小型のフランスパンのような、硬そうなコッペパンのような。
かなり黒い。
50個はある。だが一種類しかないようだ。
きっとおススメ商品なのだろう。
こればかりを求めて遠方からも客が押し寄せ、午前中には売り切れる…
これは良い店に当たったかもしれない。
もしくは大外れかの二択だ。
大抵駿馬はハズレの方を引く生き物なわけだが。
駿馬は咳払いをして声を整えて、会計らしき二十代そこそこだろう白人風女性に話しかけた。
「すまないが、一個頂けるかな?あとコーヒーなどはやっていないだろうか」
女性は動かない。
こちらに目もくれずにつり銭の勘定をしているようだ。
「あー、アイワナバイディス…イートディス?」
女性は椅子から立ち上がると、バックヤードに入っていった。
まさかコーヒーを淹れに行ってくれたのだろうかと期待した駿馬だが、数秒で女性が戻って来たのでその可能性は薄い。
駿馬はイラッとした。
「…返事くらい…」
(いや待てよ。耳が聞こえない、という可能性があったな…いかんな。安易なクレーマーになってはいかんぞ)
再び椅子に座った女性の前に行き、ハンドゼスチャーを交えて話しかける。
「あれ、一個、食べる。お金は?」
女性はこちらを見もしない。
「…俺、お前の、パイオツ、揉むぞ」
イラついた自殺志願者をナメてはいけない。
犯罪上等、刑務所上等だ。
なんなら死刑にでもしてくれれば手間が省ける。
「パンを、売ってくれ…!無視すんなっての…!」
「…ふわぁぁ…」
大欠伸をこきつつ、こちらを無視し続ける女性店員に、駿馬のイラつきは頂点に達した。
次の瞬間…
サワッ…!
あろうことか、白昼堂々と駿馬は犯罪に手を染めた。
白人女性の、随分と控えめな胸の膨らみを、劣情に染まったその右の手の中指でソフトに突っついたのだ!!
「くぅっ!さあ殺せ!通報しろ!慰謝料なら無いから示談は無しだ!!」
ああ、江戸川駿馬はついに犯罪者となった。
女性がスマホから110番に通報し、間も無く駿馬は取り押さえられるだろう…!!
だがそれでいい。
悪は法の元に裁かれるべきだ。
「………!!………!!」
破滅の始まりを、今か今かと待つ駿馬。
だが、女性は全く反応しなかった。
「………?」
一分程も薄目で女性を観察するが、何も反応は返ってこない。
「………ん………んんん?」
繰り返すも、女性は何も反応しなかった。
「………せ、せいっ!」
プニッ!
駿馬の右中指は、狙い違わず女性の左胸を突いた。
女性は反応しない。
「………破!!」
駿馬は右手で女性の左胸を揉みしだいた!!
ちょっと揉み応えが無い!!
そして女性は、なおも反応しない。
それをいいことに、駿馬はついに両手で女性の両胸を弄りだした。
なおも、女性は反応しない。
「………ははぁん…」
女性から手を離す。
駿馬とてアラフォーの成人男性だからして、社会人としての経験もそれなりにあるいい大人だ。
そのドドメ色の脳細胞は、ついに自分の置かれた状況に仮説を立てることに成功した。
「………ソフト・オン・アマンドか」
それは日本一の大人の映像作品メーカーの名前だった。