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嘘吐き葬送曲

作者: 葉月羽音

リーン、ゴーン、リーン、ゴーン。厳かに鳴り響く鐘の音に、少女はそちらを見遣った。視線の先には遠くに聳え立つ教会。その天辺に吊り下げられた大きな鐘が揺れることなく音を響かせていた。

そよそよと吹く風が少女の頭から被っている漆黒のレースで編まれたヴェールを揺らす。強い風ではないので頭からずれることはなかったが、それでも不安があったのか、少女の白い手がそっとそれを押さえていた。風が吹き止むと同時にその手は下ろされる。するりとヴェールを撫でるように落ちた指先がそっと頬にも触れるように動いて、ふと、その冷たさに小さく眼を見開いた。

少女は泣いていた。理由も無く、声を上げず、ただ、静かに、静かに。認識してもしゃくりあげるような声は出て来ず、涙が生理現象として落ちていくだけ。不思議そうに少女の瞳は瞬いた。一度、二度と繰り返し瞬く事で瞼の奥に揺らめく波は洗い流されまた生まれの繰り返し。


「ゴミでも眼に入ったんでしょうか?」


流れ続ける涙の原因と考えられるものを上げてはみたが、眼が痛みを訴えているわけではないのでそれは違うだろうと早々にその考えを取り下げた。では何故?と首を捻る間に涙は自然と枯れていく。そっと拭い去った名残が指先に冷たさと共に残るだけ。

意味も無く泣いたのだろうか。それとも、眼の前に並ぶ「モノ」に感情を動かされて泣いたのだろうか。少女は綺麗に見える瞳で眼の前に鎮座するそれを見つめた。四角い石像に刻まれるのは個人の名前、生年月日から没年日、静かに此処に眠る、と淡々と付け加えられる一言。

少女は今、墓地に立っていた。そして眼の前にある墓に刻まれた名前は少女の持つ名前と瓜二つ。生年月日もそっくりそのまま。ただ、没年日と一言だけが刻まれていないだけの不可思議な墓。少女は知っている。この墓こそが自分の為に用意された最後の寝所なのだと。


「きっと、近いうちに私は此処で眠るのでしょう。それを恐いと思う事はありません。いつか、誰もが経験する事です。ただ、最後まで私は―――――。」


小さく呟かれた言葉は少女の声ならぬ声として消えた。聞く者は誰もおらず、少女すら何を紡いでいたのは分からないだろう。分からなくともいい。自分の事だから何を紡ごうとしていたかは想像がつく。そしてそれが誰かの耳に入らなかった事を密かに安堵したその瞬間だ。背後から聞こえてくる靴音。ビクリ、緊張に震えた両肩が跳ねるように動く。しかし耳にするりと入りこんだ声が強張った身体から力を抜いてくれた。


「……やっぱり、此処にいたんだな。」


探しまわったんだぞ、と溜息交じりに続くその声は低く、疲れを見せていた。振り返らずとも少女にはその相手が誰なのか分かっていた。いつの日かは忘れてしまったが、気付けば少女の傍にいてくれた男。不審者として見るべき筈の存在なのに、傍にいない事が不安に思えてしまうほどあっさりと少女の心の中に住み着いた不思議な男だ。

少女は男の名前を知らない。そして男も少女の名前を知らない。互いに名乗る時間は幾らでもあったし、告げ合う暇だってあった。それでも互いに知らないままの関係で居たのはきっと、己の中に確たる存在として刻み込んでしまう「名前」を知ってしまえば、今が終わってしまうと分かっていたからだ。

どちらが最初に終わらせる事を渋ったのか、惜しんだのか。少女だったかもしれないし、男だったかもしれない。もしかしたら同時に思ったのかもしれない。さりとてそれはどうでもいい事だ。

少女は永遠に男の名前を知る気はないし、男も少女の名前を永遠に知ることはないのだろう。――いや、男に関しては少女の死後、知る事になるだろうから永遠に知ることは、は間違いになるだろうが。


「お疲れ様です。わざわざ私を探すだなんて、どんなご用事ですか?」

「わざわざ、じゃないだろ。お前さんがまたいなくなったって教会の人間が煩いんだよ。で、オレがわざわざ探す羽目になったって……このやり取り何度目だ?」

「さぁ?何度目でしょう?――貴方と出会った頃からずっと繰り返していましたから覚えていませんよ。」

「……なぁ、その時点でオレに迷惑掛けないように大人しくしていよう、って考えは浮かばないのか?」

「浮かばないですね。残念ながら。」


清々しいほどにキパッと言い切る少女の言動に男は米神がひきつるのを感じた。口元すら同様にひきつっているのだ。これは間違いなく怒りが表面に浮かんでいるのだろう。そして少女は背を向けた状態ながらも男が怒っている事には気付いている筈だ。気付かずとも自分の言動が相手を怒らせるものだと言うことくらい察しが付くであろうに遠慮なく言い放てるその図太さを褒めるべきか呆れるべきか。

少々論点がずれ始めている思考に苛立ちながら、男は己の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。元々が整えられていたわけではない癖っ毛のそれが更にぐしゃぐしゃになる。が、当人気にした素振りなく、そうする事で湧き上がる怒りをどうにか抑え込もうとしているようだ。

気休めにしかならないそれでもどうにか理性は取り戻せたのか、男は溜息をまた零した。


「お前さんに関わるとどうにもオレは疲れてばっかな気がするな。」

「それは御苦労様です。これを機会に是非私にはもう、構わないでください。」

「……………。」

「大丈夫、教会の方々には私から重々言っておきます。貴方に探させるなんて真似はもう二度としないように、と。」

「――それ、本気で言ってるのか?」

「えぇ――本気ですよ。冗談は好きではありませんから。」


クスクスと何が可笑しいのか、楽しげに笑いながら男の言葉を肯定する少女。未だ振り返らぬその姿に収めた筈の苛立ちがまた男の胸の奥からせり上がる。

いつもそうだ。この少女は男の言葉に対してのらりくらりと交わしていく。軽い冗談すら真に受けて(と言ったら若干違うかもしれないが)自分にとって都合のいい方向へと流そうとする。

教会という狭い世界で生きてきたからか、少女は諦めと享受を早々に学んでいた。少女にとっての諦めは本当に欲しいものに手を伸ばす事で傷つく事を恐れているから。口にすることすら許されないのだと、望んでも手に入らないのだと早々に理解して諦めの中に片付けてしまうのだ。同時にそれを享受するのも早く、少女はその現実を当たり前として受け入れてきた。

男にはその少女の生き方が酷く醜く思えた。男とは正反対の生き方をしているから余計にそう見えるだけで、実際は醜いと思う前に同情が出てくるのだろう。実際に教会の人間達は少女の諦めを、享受を憐れんでいる。憐れんだ所で自分達には何もしてやれない。出来るのは祈る事だけなのだと眼を逸らしているばかりだ。そんな教会の人間達をも少女は諦めと共に享受していた。物心つく前からそれが当たり前だったのだとありのままに受け入れてしまったのだ。男に対しても、少女はあっさりと受け入れる。いつから傍にいたのか分からないような不審人物だろうと現実をそのまま全て丸ごと享受するその姿はあまりにも――滑稽だ。

だがその滑稽さに男は救われてもいる。もし少女が男を受け入れてくれず、そのまま疑心暗鬼を抱いて警戒心バリバリな接し方を取られていたのだとするとこうも簡単に傍には居られなかっただろう。男にとって都合のいい展開が「今」なのだ。少女の最後の瞬間まで傍にいる事が男にとっての仕事である以上、あっさりと手放すのは勿体ない状況である。だが、だからと言って少女の生き方をよしと出来るほど無関心な関係でもいられない。

男は少女の傍に長く居すぎた。深入りしてしまいそうな程に、傍に。それは少女も同じなのだろう。彼女が男に対して心を許しているのは少女だけではなく男も解っている。故に互いに名乗り合う事はしない。これ以上深入りしない為にも、名前という確かな楔を打ちつけないようにしているのだ。

だがそんな事を考えてしまっている時点で手遅れだという事に男は幸か不幸か、気付いていなかった。今の状況で居る事に気を配り過ぎて、その異常さを見逃していたのだ。


「もう、私を探さないでください。」


少女は言葉を紡ぐ。淡々と、緩やかに。


「貴方に探されたら、逃げ出したくなるんです。」


ゆるりと振り返った少女は微笑んで。






「これ以上、構わないで。――私、貴方の事、大嫌いなんです。」






ふわり、風が吹く。優しく紡がれた言葉を男の耳へと運びながら。少女は緩やかな微笑み湛えてそっと歩き出す。男に向かって、一歩一歩。男はその場から動けなかった。少女の言葉に衝撃を受けたわけではない。そう言わせてしまった自分を悔いたわけでもない。ただ、どこまでも受け入れるだけの少女のその姿がとても、とても―――痛ましくて顔を歪めた。

男の脳裏に浮かぶ言葉は少女の慰めになることなく言葉として落とされることも無く男の中で消化されていく。何か言わなければ、と焦る気持ちはあれど、一体自分に何が言えようかと即考え直す。そうして言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す間に少女は眼の前に迫り、足を止めたと思いきや男の胸元を両手で掴んで強く引き寄せ―――……。



リーン、ゴーン、リーン、ゴーン。いつかのあの日と同じ、教会の鐘が鳴り響く。優しい鐘の音は、厳かに死者の魂を慰めるのだろう。祈りを捧げる神父の声に混ざって泣き崩れる修道女達の声が墓場に落ちていく。男はその光景を遠くから眺めていた。

神父達の輪の中に少女の姿は無い。いつものようにまた何処かへと姿をくらましているのだろうと、男は考えなかった。何故なら少女はちゃんと、あの輪の中の中心にいるからだ。真っ黒な柩の中に収められ、静かに眠りについたその姿で。

少女と別れた次の日の朝。少女は静かに息を引き取っていた。その姿はまるで眠る幼子そのもので。身体を揺さぶれば今にも起きてくれそうな程に自然な寝顔を晒していた。息を引き取った原因は不明。ただ、穏やかな寝顔から痛みも無く空へと還られたのだろうと、神父は男に締めくくった。男は何も言わず、頷いた。少女の死を驚きもせず受け入れたのだ。神父はそれに疑問を抱くことなく早々に葬儀の準備を始める。修道女達も涙に瞳を潤ませながらも少女の旅立ちを祈る為に動き始めた。

唯一男だけが動く事もせず、だが、消えるわけでもなく彼らの行動をつぶさに見つめ続けていた。

少女の墓の前から誰もいなくなった時、男はようやく動き出した。灰色の墓石に刻まれた少女の名前を見つめながら、そっとその膝を折り、指を伸ばす。なぞった少女の名前は冷たくて、まるであの日の口付けの様だ、と男は思う。

伸びた両手が男の胸元を掴み、強引に引き寄せられたその先で、男は少女に口付けられた。己の唇に重ねられた少女の唇は酷く冷たく、哀しい。触れるだけで離れた少女は鮮やかな微笑みを――涙を零しながら浮かべて男の元を去ったのだ。


「最後まで、オレに「嘘」だけを残して逝っちまったんだな。お前さんは。」


口付けられたその瞬間に与えられた冷たさは、許しを乞うように零れた少女の涙の温もりと溶けて消えた。そして、少女が選んだ「嘘」に男は気付く。

教会からいつも消えていたのは、誰の目にもその死の予兆を晒さない為。晒してしまえばきっと誰もが絶望と悲しみに暮れてしまうだろうから。そんな傷を少女は残したくなかったのだろう。

男に探さないで、構わないで、逃げ出したくなるから、と紡いだのは死が訪れた瞬間を男に見せたくなかったから。その瞬間に居合わせてしまえば男は問答無用で己の「役割」を果たさなければいけなくなる。それを少女は阻止したかったのだろう。

誰も傷つけないように「真実」を隠して、優しい「嘘」だけを並べた少女。その願いはひっそりと叶われた。――男以外の存在に対しては。


「どんな気持ちで、オレに口付けたんだ?――「死神」の、オレに。」


問うたところで返らぬ答え。男は少女が紡ぎ続けた「嘘」に踊らされ、墓の中に少女と共に仕舞われた「真実」を一生見失ったのだ。

少女はいつから自分の存在に気付いていたのか。いつから己の死に感づいていたのか。いつから、いつから、いつから―――――いつから、こんなにも、彼女の事を想っていたのだろうか。



「まったく、相変わらず最後まで酷いな、お前さんは……。」


気付かないように、気付かせないように、互いに眼隠しをしていた筈なのに。最後の最後で少女の「嘘」に気付いてしまった男は眼隠しを外してしまった。そして少女の名前を心に刻んでしまったのだ。少女だけがその眼隠しを外さず、男の名前も知らぬまま逃れて逝っただなんて、なんとも滑稽で情けなくて笑える話だろうか。


「なぁ、いつか――いつか、またお前さんがこの世に産まれ落ちた時にもう一度オレが迎えに行ったら、お前さんはオレの名前、聞いてくれるか?」


一方的に少女の名前だけを知ってこれでお終いだなんて結末を男は望まない。どうせなら互いにちゃんと名乗りあって、そして――そして、(その先が叶わないと知っているけれど、)(それでも、願う事が許されるのなら、)


「――――――――――――――」


小さく、囁くように落とされたその言葉が何を示したのか。聞き手は黙して語らず、語り手は微かな笑みと共にその姿を消した。

そよぐ風が優しく少女の眠る墓を撫でて、静かに去っていく。リーン、ゴーン、リーン、ゴーン。声高らかに鳴り響く教会の鐘の音が、二人を祝福してはその魂を慰めるように、余韻を残して消えていくのか―――……。

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