Ep2
――今俺は非常に重大な危機に瀕している……。
…………自分のクラスが分からない。
さらに言えばクラスが分かったところで自分の席が分からない……。
俺は今、一年生教室前の廊下隅に素知らぬ顔で寄りかかっている。
できるだけ不信感を持たれないように影を潜めて…………。
しかし、このままでは始業のチャイムが鳴ってしまうッ。
残り時間は既に五分を切った。
先ほど予鈴が鳴ったばかりなのだ。
やばい……。
やばいやばいやばい………………。
冷や汗をかく。
もしこのまま教室さえわからなかったら……俺の清槍院高校での影武者生活が、始まる前に終わってしまう。
それは……まずい。
バレたら終わりなのだから。
すると目の前の教室から柚香が出てくる。
この学校で唯一知り合いであろう生徒。
柚香に聞けば万事解決!
……いや、廊下には他に人がいて内緒話ができないほどには混み合っている。
しかもあんなことがあった後で、あんなことを聞いた後で…………。
だが、…………聞くしかない!
「おい! ゆず…………ッ!」
しかし柚香は、こちらを一瞥すると素知らぬ顔で隣の教室へ。
ちょ!?
な、なんだよ!
俺は無視だってのか?
俺は崖っぷちに立っているせいか、らしくもなく苛立ちを覚える。
その憤りに身を任せ、華奢なシルエットを追い隣の教室へ…………ッ!?
「光司くーん! いますかー?」
柚香が俺のことを呼ぶ。
ん?
それならさっきここにいるの確認してただろ?
不信感に煽られ、教室のドア越しに柚香を見る。
「まだ来てないんですかねー。あっ、これ今日の光司くんに用意した愛妻弁当なんですけど、光司くんの席ってここでしたよね?」
柚香は近くにいた人に確認を取ると、愛妻弁当とやらを机の端にかけ置き教室から出てくる。
しかし出てきたとき当然俺と鉢合わせるわけで…………。
柚香はどこか申し訳なさそうに俯いて通り過ぎていった。
いやいやいやいや、それより愛妻弁当ってなんだよ!?
自分で言っちゃう?
そんなにラブラブだったの!?
ってか、そのくらいラブラブだったなら兄貴の席なんて確認しなくても分かってたろうに…………ッ!
もしかして、俺のために!?
俺の今の状況を察してわざとオーバーに、俺に見せつけるようにしてクラスと席を教えてくれたってのか?
だから、俺には声をかけずに……、そして最後の表情は俺に対しての贖罪みたいなものなのか?
そんなの…………。
確かに、俺も兄貴の死でかなりショックを受けてるけど、それ以上に柚香本人がショックを受けているはずで、柚香は自分を責め続けていて………………。
俺は何もしてやれない……。
――キーンコーンカーンコーン。
始業のチャイム。
息を整える。
現在八時四十分をもって俺の清槍院高校初授業が始まるのだ。
科目は古典。
廊下をカッカッと歩いてくる音が聞こえる。
この音はヒールの音だろう。
だとしたら担当は女性教師か?
優秀校と評されるこの高校の授業。
それを行う先生には興味がわく。
俺はガラガラと教室のドアを開けて入ってきた初老の男に羨望と期待の眼差しを向け………………って初老の男!?
見間違いか?
俺は目を擦る。
だが教壇に立っているのはまさしく初老の男であり……。
ゴシゴシゴシゴシゴシゴシッ!!!
どれだけ目を擦ってもやはり教壇に立っているのは初老の男であり…………。
「おやおや光司君、弟君をしっかりしつけておかなきゃダメじゃないか。あいつ頭おかしいぞ? この前なんて授業中に他生徒を十人近く土下座してふんぞり返ってたんだからなぁあ。ひっひっひ」
俺こと光司に弟(俺本人)の失態を大袈裟に盛って披露したのは間違いなく、『劣等』高校古典担当兼清槍院高校非常勤古典講師、生徒からの攻勢率ナンバーワン、通称『狂人』、梅澤剛志。
やけに長い肩書を持っているだけあってその身体は強靭。
先程のカッカッという音は狂人がウォーキングの際に使用しているスティックの音だったのだ。
まさかこの清槍院高校でも己のスタイルを崩していないなんて……流石は狂人。
しかし、この男、授業だけは進学校教師としてのレベルを持っている。
生徒に嫌なところで質問し、罵声を浴びせるという狂人ぶりは置いておいて、その嫌なところが授業後には全て理解できているというのだから、馬鹿にできない。
「じゃあ次、お前答えろ」
どうやら次の犠牲者が定められたらしい。
教室の端の方にいる小柄なショートカットの女子だ。
今のところ俺はまだ当てられていない。
このまま当たらなければこの授業はやり過ごせるはず!
なにせ俺は今までもこの狂人の授業を受けてきたんだ。
あの劣等な環境の中で機嫌の悪い狂人相手に!
「えぇと、分かりません……」
「分かりませんだぁ? 俺はその答えが一番嫌いなんだよ! 何回言ったら分かるんだこの能無しが! お前の頭の中はお花畑かってんだ! ったく、分からないならどこがどう分からないのかしっかり言ってみろ!」
「ひゃ、ひゃい。えぇと、その……あわわわわ、分かりません!」
狂人の威圧感のせいで思考がストップしてしまったらしい。
しかしこれはまずい。
狂人は二度同じ過ちをすることを非常に嫌悪する男だ。
目で見ても分かるほどに目尻がミシミシと吊り上がっていく。
「何度言ったら分かるん…………っ!」
「せんせーい、ちょっとお手洗いに行ってきますね」
狂人が唸りをあげる前にその肉体の真横に来ていた俺は狂人に声をかける。
そして狂人の横を通り過ぎる際、またな、というように手をヒラヒラと振り、その手が狂人の髪を掠めた。
――スパーーン!
俺の手によって故意的に弾き飛ばされる黒い塊…………。
その浮遊物を認識するやすぐさま俺のことを睨みつける狂人。
この反応速度……やはり只者じゃない!
「き、きさまーーーー!」
「あはは、すみません。まさか先生がカツラだったとは知りもしませんで……」
俺と狂人の鬼ごっこが始まった。
「くそ! やっぱ早ぇな」
「きさま、逃がさん!」
狂人がすさまじい速度で追ってくる。
年取ってるくせに、身体能力高すぎだろ!
や、やばい、あと数秒もすれば追い付かれてしまうッ。
俺は廊下の角を曲がり、階段を駆け下りる。
「あ…………」
俺が角を曲がった時、反対側から教師の一員であろうおばさんがこちらに向かって歩いてきていた…………。
ズドォオオオオン!
背後で鳴り響く衝撃音。
狂人とあのおばさん教師がぶつかったのだろう。
二人の行く末が気になるが、俺はこのスキに二人から離れ、散々迷った挙句、ギリギリ二時間目の始まり前に教室に戻ることができた。
しかし、戻った時のクラスメイトからの視線。
あぁ、どうやら俺はいきなりやらかしてしまったらしい……。
と思ったのだが…………。
「流石、光司! かっちょいいぜ!」
「いやぁナイスフォローだったね」
「にしてもアイツがカツラだったなんてな。知ってたのか?」
「えぇと…………その、まぁ……」
どどどどどうしよう!
なんかやらかしちゃったっていうより、ヒーローになってるし!
しかもなんか皆、『光司くんだからね』っていうなんか日常茶飯事的な雰囲気出してるし!?
兄貴ってそんなにカッコいいキャラだったのか!?
く…………ッ。
今までそんなことをしてきてない俺に兄貴の真似が出来るのか?
ってかこの群衆どうやって捌けばいいんだよ!
「ちょっとアンタたち、授業始まるわよ」
どこからか天使の声が聞こえた。
クラスメイト達が席へと戻る。
俺も席に着くと後ろから声がした。
「アンタのそのカッコつけたような態度ホントどうにかならないのかしら」
どうやら機嫌の悪い天使さんだったらしい……。
それにやっぱ兄貴はカッコつけたような態度取ってたのね…………。
その後は柚香のさりげないフォローもあり、無事に午前中を過ごすことができた。
――教室を移動する時の目的地をそれとなく示唆してくれたり、柚香の友達を日常会話の中で紹介してくれたり…………。
なのに俺は礼の一つも言わずに、屋上で一人愛妻弁当を食っている。
ここなら人も来ないだろう。
昼休み、俺にとっては戦いの時間だった。
――昼休み。
それはまるでダンジョン。
迫りくるモンスターの攻勢を抜けきり、目的の地へと到達するRPGの如し!
なんて大それたことを言い、チャイムと同時に屋上の隅に駆け込むようなリアル大嫌い廃人ゲーマーが『劣等』学園にいたが、今はそいつの気持ちが痛いほどよくわかる。
要するに――逃げたい!
今俺はクラスメイトの男子に、…………周りにいる八割は女子だが、囲まれていた。
昼休みのチャイムと同時に今朝の狂人退治の件で歓声を浴びせに来たのだ。
「光司くんっていつもクールよねぇ」
「わたしも守られてみたいなぁ」
「今度一緒に遊び行かなぁい?」
女子からの集中砲火。
今までまともに女子と話したことのない俺にはその対処方が分からない。
まさに迫りくるモンスターだ。
これが本当にRPGだったら攻略法とかすぐに見つけられるんだけどな。
「いいじゃん! 俺たちも一緒に行かせてよ」
今まで女子の迫力に押され気味だった男子陣が誘いに乗る。
元から女子と接触するのが目的だったのだろう。
「えぇー、アンタたちはだめぇー。私たちは光司くんとあそびたいのー」
軽く拒絶。
男子陣のHPは今の一撃でデッドライン直行。
どうする?
俺は大勢でどっか行くなんて苦手だが…………。
今は兄貴のフリをしなくちゃいけないからな。
兄貴だったら……。
「まぁまぁ、みんな仲良く全員で行こうよ? もちろん俺もいくからさ」
男子陣のHPを回復してやることにした。
「来てくれるの!?」
「やったー! まぁ、光司くんがいいって言うなら一緒に行ってあーげる!」
「光司、俺たちのことまで考えてくれるなんて……。ディアマイフレンド! お前は男の鑑だ!」
女子たちはキャッキャキャッキャとはしゃぎ、男子陣は肩を組んで涙を流している。
おいおい、ディアマイフレンドって……。
しかし、俺にとってはちっともよくない。
皆の都合が合うときに遊びに行くらしいが、俺は人混みが苦手だ。
くそ!
なんで兄貴はこんなに人気高いんだよ!
十分前のことを思い返しながら柚香からの愛妻弁当を食べる。
それはただのごはんに梅干しが乗っただけの日の丸弁当だったのだが、どこまでも温かく、何よりも美味しかった。
その日、勝手に一人昼食を食べてしまった俺に対して、柚香は『一緒に食べるんですよ!』とちょっと不機嫌そうに言った。
でもそれは昼休みの終盤に教室に戻ってきたときのことで、時すでに遅しだった。
「ふぅ!」
数日影を潜めて過ごした今、俺は飲み物を買いに行くついでに屋上で一人休憩中だ。
教室で誰かに話しかけられても上手く対応できないしな。
…………いやいやいや、違う違う違う、順応してんじゃねえ俺!
何冷静に考えてんだよ!
どう考えてもおかしい。
なんでこんなことになってんのか。
なんで兄貴が柚香に殺させられたんだ……?
「柚香に聞いてみるっていうわけにもいかないしな……」
ただこんな状況で救いになっているのは、今両親が海外主張で日本にいないって事と、柚香とは違うクラスだって事ぐらいだな。
これで同じクラスになろうもんなら、四六時中気を張ってなきゃいけなくて、生きてる気がしない。
暴走状態。
柚香のそれは、理事長曰く、今回は第三者が強制的に起こしたらしい。
だが、今回だけでなく、今までも暴走してしまったことはある訳で、その度に柚香は……。
暴走状態中の彼女は、自我が無く、記憶もないため、柚香は自分が他人を殺した瞬間のことを、誰かから聞いて初めて知るのだろう。
その時の苦しみなんて想像しただけで心が張り裂けそうだ。
そんな事を考えてると、後ろで錆びたドアの開く音がした。
「あ、こんなとこにいた! ゆずかちゃんが探してたよ」
「……了解。すぐ行くわ」
「ちゃんと側にいてあげなきゃ、彼氏なんでしょ?」
温かな笑みを残して女子生徒は階段を降りていった。
彼女の名前は杉崎 雪乃。
柚香と同じクラスの女子でポニーテールが似合うかなりの美人だ。
俺がこの学校に入って、柚香以外で初めて話した女子で、明るくて優しい性格とそのルックスから男子からの人気も高い。
かくいう俺も実はひそかに想うところが……なんていったらどうなることやら。
雪乃の発言にもある通り、今は古海柚香と付き合っている小鳥遊光司なのであって皆にもそれはよく知られているのだ。
そう、よく…………。
それはつまり入学早々兄貴が有名であり、割とメインキャラをハッてた可能性が高まるということであり、俺の高校での恋愛権はないということでもある。
俺は自由に恋愛すらできない事に鬱になりながらも、柚香の待つ教室へと重い足を進めるのだった……。
「はい、あーん」
小さな手に握られた箸が、俺の顔の前にコンビニ製の唐揚げを運ぶ。
そのまま口にしていいものかと迷ったが、今は目の前にいる女の子――古海柚香――の彼氏である俺の兄貴――小鳥遊光司――のふりをしている最中なので、下手に拒絶するわけにもいかない。
俺はコンマ五秒でこのようなことを考え、突き出された唐揚げにパクッとかぶりついた。
「どうでしょう? おいしいですか?」
柚香が左に首をかしげながら笑顔で聞いてくる。
「美味しいよ。でもどうせなら手作りにし……」
全て言い終える前に、掴んでいた唐揚げがなくなりフリーになっていた箸が俺の眉間に突き付けられたので、思わず両手を上げて苦笑いする。
「ふーん、食べてくれるんですねー。今までは食べてくれなかったのにー。光司くん、心境の変化でもあったんですかー?」
柚香がニヤニヤと挑発してくる。
「なわけねえだろ! ったく!」
兄貴にはしてなかったのかよ!
なんだよ『あーん』って。
俺はこれ以上目立つことは避けたいんだけど!?
でも、柚香が元気そうで良かった。
俺自身、納得できたわけではない。
いくら暴走状態だったからとはいえ、殺したことには変わりないのだ。
柚香が暴走状態に対する拒否権を持っていないことは、頭では理解しているのだが、心がそれを受け入れない。
現に、今柚香は自分が殺した相手に対して、フリを超えたカップルごっこ的なものを始めている。
まあ、実際は兄貴に対してではなく、俺に対してなのだが。
それにしても、こんな強気でしかも俺を手のひらの上で転がしてくるなんて……。
人を、しかも幼馴染を殺してるんだぞ?
そんな風に割り切って振る舞えるもんなのか?
まあでもよく考えたら、唯一彼女の前では小鳥遊影人でいられるので、柚香との時間が緊張感もあり、それでいて気楽に過ごしていけるもののようだ。
といっても未だにどう柚香と接していけばいいのか分からない。
柚香は何事もなかったかのように俺と接しているが、俺は素直に割り切ることはできずにいる。
理由はどうであれ、目の前にいる幼馴染が兄貴を殺したんだからな……。
だが、呑気にもしていられない。俺はこの学校に入れられた時、せめて兄貴が誰の陰謀によって殺されたのか、その理由を明らかにして見せると心に誓ったのだ。
理由も分からずに家族を殺されるなんて……そんなの許せない。
何としてでも真相に辿り着いてやる……。
目の前の柚香に目をやる。
彼女は確実に何かを知っている。
ってか殺した張本人なのだからそれは当たり前だ。
下手に動いたら俺も兄貴と同じ目に合うかもしれないが、この数日間何の問題もなく来れたんだ。
そろそろ柚香に尋ねてもいい頃なのかもしれない。
そう思って口を開こうとしたとき、俺より先に柚香が言葉を発した。
「どうです? この学校には慣れましたか?」
質問の内容的に、やや小声で聞いてきた柚香に倣って俺もトーンを一つ下げて答える。
「あぁ、何となくな。でも名門校ってだけあって正直勉強の方はきついかも。兄貴の成績保つので精一杯だよ」
「いや、そういうことじゃなくてですね……」
柚香がさらに声のトーンを下げようとしたが、そこで何故か踏みとどまったらしく、いつもの明るい調子で言った。
「まぁ、その調子じゃまだ気づいてないようですね。この学校が本来何であるのか、何が隠されているのかに……」
「え?」
その続きを柚香に聞こうとしたが、『知りませーン』と言って教えてくれない。
昼休み終了の五分前を告げるチャイムが教室に鳴り響き、結局何も分からないまま今日も自分のクラスへ戻っていく。
「一体何のためにこの学校にいるんだか……」
深いため息を一つついてから、錆びた引き戸を開け、俺は小鳥遊光司としての生活をリスタートした。




