Ep12
俺の脳内で何かが弾ける音がした…………。
それは例のコンマ五秒シンキングの時に、脳内のスイッチが入る音に近い、だが、酷く濁った音。
脳内に満ちる、不協和音を超える雑音が聞こえる。
――気にすることはないさ。友人が一人減っただけ。そうだろう?
……でも、俺は柚香を傷つけた。あいつを、泣かせた……。
――だから、そんなことがなんだってのさ。あれは紛れもないキミの本心なんだろう?
……分からない。
――なら、教えてあげる。
……何を?
――苦しまずに生きる方法。かな?
……そもそも、お前は誰だ……?
――えぇ!? いつも力をあしてあげてるっていうのに……冷たいなぁ?
……なんのことだ?
――まっ、いずれわかるさ。……で? キミはどうしたい?
……お、俺は……
……『あいつに、柚香に謝らないと……!』
――ふぅーん。キミはそっちの道を選ぶんだね。
……悪いか?
――いいや? 好きにすればいいよ。それじゃあね。もう一人のボク……。
その台詞と共に雑音が脳内からフェードアウトしていく。
『一体今のは何だったんだ?』
そんな疑問も頭によぎったが、今はやるべきことがある。
「待ってろ柚香!」
そう叫び、ロジカルポストから駆け出していく。
人生初の『釣りはいらねぇ』に感動する暇もないほど全力で、心当たりのある場所を手あたり次第探していく。
「くそっ! どこにいるんだよ……!」
だが、どこを探しても柚香の姿はない。
「はぁ……はぁ……どこだよ……?」
息も切れ切れで、疲れ果てた体は、俺の意思とは裏腹に、川岸の土手に倒れ込む。
くそっ!
何を血迷ったんだよ俺!
「どんな理由だろうと、女の子泣かせたら男として失格だろうが……」
暗さを帯びてきた空にぼそっと吐く。
その時、どこからとなく聞こえてきたか細い鳴き声に、水の音。
「柚香っ!?」
気づくと、俺はその音のした方へ走り出していた。
――清槍院高校付近の河川敷。
自分を責め立てる感情に耐えられなくなった柚香は、ファミレスを飛び出し、緩やかな川の流れる河川敷に座り込んでいた。
頬を伝う涙は抑え込もうとしても、その勢いを途絶えない。
「私……なんであんなこと聞いちゃったんでしょうか……?」
柚香は自分の力について十分に理解している。
そして、その力を自分自身じゃ制御できないことも。
だから、遠ざけた。
人と仲良くなりすぎると、失ったときに心が潰れるから。
この、『ですます口調』は、そんな潜在意識から自然に身に付いたものだ。
それは自分に対しても変わらない。
影人が、光司の存在故に影人自身を見下しているように、柚香は柚香で、自分自身を――悪魔の力を手に入れてしまった自分を認められなかった。
……認めたくなかった。
そうやって生きてきた中で、ただ二人だけ……。
「光司くん……、影人くん……」
あの二人だけとは、近くにいても大丈夫。
そんな風に感じられた。
もちろん『友達』なら、人並みにいる。
でも、心から安心して隣に入れるのは二人だけだった――それでも敬語なのは変わらなかったが。
そのうちの一人。
光司くんを、わたしが殺した……?
理事長にそれを告げられた時には、いっそ……自分も死んでしまおうかと思ったくらいに柚香は絶望した。
――光司と柚香。
表向きには付き合っていることになっていたが、実際はやや異なる。
学年第一位。
入学初期から、その圧倒的な強さを持っていた光司は、理事長室に呼ばれ、そして命じられた。
「私の親戚――柚香を護ってくれ……」
と。
元々、幼馴染であり、高校入学後も柚香と親しくしていた光司は、理事長に彼女の真実を明かされたうえでそれを了承した。
つまり――彼女の暴走から人々を護ると。
それが彼女自身のためでもあるから――と。
それ以来、二人は常に行動を共にするようになり、周りに怪しまれないために付き合っているという設定を作ったのだ。
だが、設定の域は越えないにしても、二人とも、二人きりの時間をそれなりに楽しんでいた。
二人の間にはいつも笑い声が飛び交っていた……。
そんな日々を、その楽しかった時間を思い出として昇華してしまったのは…………。
「私……」
信じたくなかった。
信じられるはずがなかった。
理事長の策で、影人くんが代わりに入学してきた時。
すぐにでも再開の挨拶をしたかった。
でもそれはできなかった。
……だって、影人くんが第一発見者だった、らしいから……。
影人くんはずっと自分を恨んでるんだと思ってた。
なのに、彼は自分を責めることはしないで、ただ、光司くんのフリをし続けた。
学校を転校させられたのも、ポイントを失って退学することに怯えるのも、兄を殺されたのも…………。
「全部私のせいなんですよ……?」
川辺を照らしていた太陽が地平線の向こうへと沈んでいく。
薄暗くなった水面に映る自分の顔を見つめながら考える。
……何であんな質問をしたのか。
それはたぶん、無罪のふりをして影人くんの傍にいるのが辛かったから。
とても苦しかったから。
だから、知りたかった。
これからどんな風に接していればいいのかを。
影人くんにとっての永遠の悪者としてなのか、それとも許してくれているのか……。
心の中で少し……ほんの少しだけ後者に期待した自分は馬鹿なのだろうか。
「そんなこと、あるはずないのに……」
返ってきた答えは、予想はしていたものの、やっぱり耐えられなかった。
そして、逃げた。
一人になって、これからどうやって生きていくか考えたかった。
「ごめんなさい、……影人くん、……光司くん」
頬を伝う雫が一粒、緩やかに流れる水面に落ちて、揺らせて見せた……。
「柚香っ!」
その時、不意に聞こえる少年の声。
やや低めで、でもどことなく幼さの残るその声の主は……。
今一番会いたくない人で。
でも、一番会いたい人で……。
「か……影人……くん?」
泣き顔を見られまいと、必死に隠そうとする柚香の目の前にいたのは…………。
紛れもない、今となっては唯一の幼馴染、小鳥遊影人だった。
「どうしてここに? もしかして私を……?」
すると、影人は、何故か自責の念でいっぱいの顔で柚香の方を見つめて。
「柚香、さっきのはすまなかった! 何にも考えずに強く言っちゃって」
な、なんで……。
「なんで影人くんが謝るんですか……? 光司くんを……うっ、殺しちゃったのは私なのに、影人くんは悪くないのに……」
だが、目の前の少年は言い切るのだった。
「そんなこと関係ない! 確かに色々聞きたい事とかあるけど、お前にも事情ってモンがあるだろ? それを考えなかったのは俺が悪かったよ、ごめんな」
そんなこと関係ないのだと。
「でも……、私は……っっつ!」
次の瞬間、柚香の身体を温かい何かがそっと包む。
「っ……?」
影人の腕が、柚香の背中を引き寄せ、強く抱きしめる。
「俺も最初はビビったよ、本当に。お前を久しぶりに見たと思ったら兄貴が死んでるわ、変な学校に入らされるわで……、もうこんな頭じゃ整理つなくてさ。でも、どんな時でもお前はそばに居てくれてたよな。悲しいこと以上に楽しい思い出がたくさんできたよな」
いつもより近くで発せられるその優しい声。
「影人くんを巻き込んじゃったのはわたしで……、申し訳なくて……だからせめて、もう近くにいるのはやめようって……」
影人の胸に頭をうずめて柚香は本当の気持ちをさらけ出す。
いつの間にか喋り方も敬語じゃなくなっていた。
「でも……、一人になるのって怖かった……。強く生きようって決めてたのに、涙が止まらなかった……」
「柚香は強いよ、信じられないくらい……。だからこその悩みもあると思う。でもさ、強がってばっかじゃ俺みたいな鈍感には気付かれないってゆーか。だから今みたいな表情も、たまには見せてくれよな」
――それと。
と、影人は付け加える。
「幼馴染ってさ。いつまでたっても幼馴染だろ? 友達みたいに不安定なものじゃない。だからさ……」
目の前、いや、その温かい両腕で自分を抱きしめている少年は続ける。
「俺らは、ずっと幼馴染。……ずっと一緒だ」
その言葉がどれだけ嬉しかっただろうか。
ずっと、人と親しくすることを避けて、それでも仲良くなれそうだった兄弟の一人をこの手で殺害し、もう、一人で生きる以外の選択肢がなかった柚香にとって。
『一緒』というたった二文字がどれほど重いものだったのだろう。
だから柚香は…………。
「影人くん……ありがと」
そう言って……。
抱きしめられた身体を、少し離すと。
踵を浮かせ、少年の首筋に腕を回し。
その頬と自分の唇とを重ねた。
「…………えっ?」
柚香は目の前の少年の心拍数が上がっているのを肌で感じる。
「ちょっ、ちょっと柚香さん……?」
でも、柚香だって心臓のドキドキが止まらない。
例え、それが相手の頬にしたのであっても、これが柚香のファーストキスだったから。
「ん……、さて帰りましょうか」
照れ隠しか。いつものですます口調に戻った柚香は、唇を離すと、影人に背を向ける。
「ほら早く行きますよ、もう……」
真っ赤に染まった自分の顔を見られないようにと、柚香は先に歩き出す。
――まぁ、この暗さなら見られても分からないでしょうが……。
その時、後ろで影人が、何かを呟いたような気がしたが、ちょうど風が吹き、柚香の耳には届かなかった。
その風に吹かれて、柚香の表情が一変する。
その顔が、何か重大な決心をした後の乙女の顔だったということは、影人には分かるはずもなかった……。
「ふにゃ……あー……」
もう朝か……。
太陽の日差しを浴びて目を覚ます。
あ……昨日の……。
頬をさする。
まだあの時の事を思うだけで顔が赤くなる。
「う……で、でも柚香にとっちゃ兄貴の事が好きなんじゃねーのかよ……もしかして今の時代キスなんてフツーの事なの?」
結局、あの後は二人とも何も話さずに寝てしまった……。
てかナチュラルにウチに泊まっていたが……。
「あ、そうだ、飯作らなきゃな……」
部屋を出る……がリビングには柚香の姿は無い。
「ありゃ? まだ寝てんのかな?」
柚香が寝ていた俺の部屋へ行く。
たが、部屋は空いていて、中には誰もいなかった。
「もう学校行ったのかな……? って、ん?」
俺の机の上に紙が置いてあった。
――今までありがとうございました。
ドクン!
は?
今までありがとうって……?
どういう……。
「な、なんだよ、お別れする訳じゃあるま……」
そうだ……柚香の暴走は誰かによって引き起こされただとか…………ッ!
まさか……?
いや、でも……。
電話を掛けてみたが、繋がらない。
「学校にいる……よな?」
そうして、俺は学校へ向かった。
朝のHRが終わり、俺は柚香がいるクラスへ足を運んだ。
「あ、こうじくん……」
「あ、雪乃、おはよう!」
クラスへ向かう途中、俺は雪乃に会った。
「おはよう! 昨日は戦ってくれてありがとね!」
「あ、ああ……あ! そうだ! 雪乃って柚香と同じクラスだよな? 今日アイツ学校来てるか?」
「え? あ、いや、来てなかったよ……どうして?」
「え? あ、いや、なんでもない……ありがとな!」
そう言って、自分のクラスへと戻るが……柚香は一体……?
まさか本当に……。
そうして授業が始まるが、内容は頭に入らない。
柚香……大丈夫だよな……?
柚香……。
ずっとその事だけを考えていた……が、後ろをを指でつつかれて我にかえる。
後ろを振り向くと、水無月がこっちを見ていた。
「ど、どうした?」
小声で聞くが、水無月は答えず、俺に紙を渡してきた。
「 ん? なんだよ、これ……」
紙を開くとそこには、こう書かれてあった。
――アンタ誰?