血と青
レオト
急がねばならない。胸が早鐘を撞くように高鳴る。一分一秒を争う事態だ。ここでもしシンジさんが負ければどうなる?
シェルターの統括を失い、統率力がなくなっていくのか、住民たちにまた絶望を与えることになるのか。
昨日からワケの分からないことばかり起こっている。雷と炎、そして鬼たちの出現から始まって街は壊滅。外の状態はわからず、シェルター内に立てこもる以外安心して生活できる場所がない。にも関わらずシェルター内にまで侵出してきたモンスターども。
人間を根絶やしにでもする気なのか。それで奴らに何の得がある。それが奴らの本能なのか、復讐なのか、仕返しなのか、執念なのか、怨念なのか。
理解不能の状態の中、俺はひたすらに自室へと足を進めた。ユノも後ろからついてきてくれている。部屋が違うから途中で彼女とは別れることになるだろうが最終的に戻る先はふれあい広場なのだから逸れる心配はない。
ゴブリンやスライムを狩っていた時期が凄まじく懐かしく感じられる。つい最近のことなのに、ユノともまだ一度もクエストに行ってないのに。
何よりも確かなことはまだ死ぬわけにはいかないということだ。
この絶望的な状況を切り抜けてまたあの日々を取り戻してみせる。たとえ2度と故郷に戻れなかったとしてもだ。
「じゃあ、後で合流しよう!」
俺はちょうど宿泊施設のユノと別れるポイントに到着し、それぞれ自分の部屋に向かうために別れを告げた。
ゾンビが出現した以上、他にも敵が潜んでいる可能性もゼロではない。油断していれば一撃で殺られる危険が高い。素手でモンスターと戦うなんて無謀にもほどがある。
俺は警戒心だけをひたすらに高めながら宿泊施設の廊下を急ぎ足で進んでいった。ハロウィンというよりもお化け屋敷を進んでいるといったようなスリルを感じる。あんなものは恐怖でしかない。
「大丈夫。鬼は倒せなくてもゾンビは倒せるよな……」
言い聞かせながら自分の部屋の扉の前に到着し、一度立ち止まる。切らした息を整えてゆっくりと扉を開けた。何も変わらないいつもの部屋。
このとき初めて俺はあることに気づき、動揺する。
「そうだ、エイル。まだ部屋にいるだろうか……」
ハロウィンパーティーの準備に取り掛かり始めてから今の今まで彼女のことをすっかり忘れてしまっていたのだ。朝から体調が悪いと呻いていた彼女の休息の邪魔をしないようにとこの部屋をコウタと出て行ったのだった。
しかし、さっきの出来事があったせいか急に彼女に会うのが怖くなった。それはその出来事を伝えなければならないという使命感からなのか、彼女が無事かまだわからないから心配なだけなのか、俺が彼女に嫌われていないかと気にしているからなのか、わからなかった。
「エイル、いるのかー?」
リビングへと続く扉を開ける。重い音を鳴らして玄関から一言、恐る恐る呼びかける。
「……………」
しかし、返事はない。
あれだけ具合が悪かったからやはりダウンしているのか。
今更ながら、目先のハロウィンパーティーの準備よりも彼女の看病に時間を費やしてあげてもよかったんじゃないかと思えてきた。
やばいときこそ助け合う。そんな力が今は必要なのではないか。後になってそんなことを考えても遅いのはわかってるが。
本来の目的を思い出せ。今はそれよりも優先することがあるはずだ。装備を取り、一刻も早くシンジさんの元へ戻らなければならない。エイルのことはあとだ。ことが済んでから戻ってこればいい。
溢れる気持ちを抑えて玄関からリビングに向かう。リビングは電気もついていない状態でまさに俺が今朝出ていったっきり何もなかったかのようにそのままだった。
一箇所だけ違う点といえばリビングの真ん中に佇んだ人影だろうか。長く伸びた髪、すらりと細い脚、間違いなくエイルのシルエットだった。
「なんだ。いたんなら返事くらいしろよ」
そう言いながらも装備の入ったバックパックを回収することに成功する。その間も沈黙は続き、流石に俺も違和感を覚え始めた。何かおかしい。
「おい、エイル!聞こえてんの………」
近づいたことで異変を察する。違う。これはエイルじゃない。
誰だ。お前。
彼女が俺の存在を認識し、振り返ろうとしたときにはもう、俺は緊急回避をする体勢を整えていてバックステップを踏んで後退していた。
そして彼女が振り返ったときにチラリと目に映ったその形相に寒気が走った。青ざめた肌に充血しきって腐り始めている瞳、鋭く尖った爪。
「嘘……だろ………」
感染……している。
ダメだ。武器を取りに行くとか、ゾンビを倒すとか、そんな目的を達成する前に俺はここで挫折してしまうかもしれない。取り返しのつかないことをしてしまった。
もう彼女はこの世にいない。エイルの精神は2度と元には戻らない。その事実が俺の前に立ちはだかった時点で終わりなのだ。目の前の事実が、存在が、光景が受け止めきれない。
極度の緊張により、体は硬直し、思考は停止する。
俺は今、何を考えている。
大勢の人を前にプレゼンするとき、緊張で頭が真っ白になって次に何を言えばいいのかわからなくなったみたいだ。
目の前にいるのは何だ?ゾンビか、エイルか。生きているのか、死んでいるのか。敵か、味方か。
落ち着け。落ち着け。落ち着け。
そう言い聞かせたところで何になる。何も解決しやしない。
彼女は一歩一歩近づいてくる。
恐怖か、絶望か、驚愕か、 苦悩か、もはや己の感情に何が刻みつけられているのかすらも理解できない。
どうして神は俺に試練ばかりを与えてくるのだろう。この数日間で俺の持つものをいくつ奪い去っていくつもりなのだろう。
「どうしてだよ……」
手に持った装備を強く握り締め、心が折れたように俺はポツリと泣き言をこぼした。
俺はお前を殺せない。楽にしてやることができない。
器の小さい人間でごめんな。
守ってやれなくてごめんな。
「あ゛あ゛!!」
理性を失った彼女の爪牙が俺の体めがけて飛んでくる。既に精気を失った声にならぬ声を聞いたとき、俺はハッと我に返った。
一度でも命中すれば命はない凶刃を反射のような速度で躱し、顔のスレスレを通過していった。
どんな感情に支配されていようと本当に危ないときは適切な判断を脳は送ってくれるのかと思い知らされる。これがゾンビとは違う、人間の本能なのだ。そうインプットされてしまっているのか。
そんな当たり前の事実を突きつけられると同時に俺は彼女と心中するほどの覚悟もなかったのかと悲観的な思いに駆り立てられる。運命を共にする気がなかったのだと言ってもいい。
この目の前に立っている邪悪で愚かで気味の悪い存在にはまだなりたくないと体は言っているのだから。
「ごめん。エイル……ほんとにごめん……」
出会って数日しか経っていなかったけれど、それでも彼女に注いだ感情は誰が何と言おうが軽いものではなかった。怪我を診てもらって治療され、鬼に遭遇したときも共に逃げた。自己を犠牲にしてまでも他人を助けることに専念し、一緒にいるときはいつも明るく振舞っていた。
もう2度と見ることができない。
「さよなら」
既に息を引き取ったエイルの姿を目に焼き付けて背を向け、本来の目的を果たすべく俺は自室を後にした。
こみ上げてくるものを堪えながら守らなければならない人たちのことだけを必死に考えるのが今できる精一杯のことだった。




