最後の夜
冷たい水の中。このタンクの内部において泳ぐという概念は存在しないに等しかった。選択肢は浮くか、沈むかの二択だけで、助ける対象は意識があるのかさえわからない。
「ーーーーーーナさん!レーナさん!」
不意に誰かの呼び声が聞こえる。繰り返し、繰り返し。水の中だから彼女にはあまりはっきりとは聞こえないだろう。
しかし、こんな状況でもレーナは希望を捨てようとはしなかった。絶対にグロウを助けてみせるという強い意思を示しさらに深く、彼が沈むよりも早く、彼の元へ到達してみせると潜るのだった。
サリーが救助を求めたとしても、間に合わなかっただろう。その前に彼が窒息死してしまう。だからレーナの判断は正しかったのだろう。
もちろん淡水であるために、体が勝手に浮くなんてことはありえない。自分の力で浮かびあがろうとしない限りは沈み続けるだろう。
しかし、レーナは驚くべきスピードで貯水槽の中をグングン進んでいき、あっという間にグロウの位置までたどり着く。
その様子を外側から見るサリーですらひょっとすると2人とも助かるのではないかという期待さえしてしまうほどに。
潜水を開始してから40秒ぐらい経過しただろうか。レーナは遂にグロウの手を取って浮上を開始した。スイミングかダイビングの経験がなければここまで速く救出することなどできないのではないだろうかと思うほどの素早さだった。
そして何より賞賛すべき点は行動の決断力だろう。自分の身を顧みずあの貯水槽に飛び込むことのできる者が他にいただろうか。そして、実際に彼の命を救ってみせた。 たった1人で。
「すごい……」
水中に輝く美しい赤髪を、その行動力を見てサリーは尊敬の眼差しを彼女に向けていた。職員とはいえ、命懸けで身を挺して人命救助をするその姿に。
これで一安心だ。あとは応援が来るのを待っていればいい。ハラハラしていたが、レーナの神対応にほっと肩を撫で下ろした。
しかし、事態はそう傾かなかった。
もうすぐに水面に上がるといったところで、グロウの手を引くレーナの様子に異変が生じ始めたのだ。さっきまでのペースはどこにいったのかと思うほどにそのスピードは落ち、動きが鈍くなった。
意識が無くなったわけでも、窒息して動けなくなったわけでもなさそうだ。しかし、彼女が動けない要因が何か存在することだけは確かだった。
「レーナ……さん……?」
一番近くでそれを見つめていたサリーもその異変にはすぐに気がついて、唖然とした表情でその光景を眺めるしかなかった。
おかしい。早くしなければ窒息してしまうというのに。
すべてがうまくいったはずだった。このまま上に少し浮き上がれば空気を吸うことができるのに。呼吸をして、引き上げられるのを待てばいいだけなのに。
しかし、異変が生じているのはレーナの方ではなかった。ずっと意識があるのかもわからないグロウの方に何らかの変化が起きていたのだ。
そして、そのためにレーナが身動きを取れずに停滞する羽目になっている。
「一体……何がーーーーーーーー」
息が苦しくなってきたのか、ここにとどまることに危険を察したのだろう、レーナも見切りをつけてグロウの手を離して水面を目指そうとする。が、彼の方が手を離そうとしないのか、呼吸をすることがかなわない。
寧ろ、水中深くに引き摺り下ろそうとするかのごとく、彼女の手を逆方向へと引っ張っていく。さらに、衰弱して沈み始めたレーナの肩目掛けて鋭く尖った歯を当てて噛み付いた。
痛みとともに口に溜め込んでいた最後の空気が泡となって水中に弾けていった。肩からは赤黒い血が溢れ出してから水の中へ薄く混入していった。
ーーーーーーーごめんなさい。シンジ、コウタ。
レーナは最後に祈るように心の中で唱えて、暗く冷たい水の中へ沈んでいった。
「そんな……」
予想だにしない目の前の光景にサリーはなす術もなく立ち尽くすほかなかった。一方、グロウは溺死もしなければ窒息することもなく、沈むレーナの身体に吸い寄せられるように貯水槽の底へ底へと追っていった。
何がこの数分間で起こったのか、あまりにも唐突に大切な命がこんなにもあっさりと奪われ、平和という価値観が何かに侵食されるように壊れていく。そんな感覚にサリーは襲われていた。
死ぬべき人などこの空間には1人もいなかったのに。グロウの行動だって本心ではないはずだと信じたい。しかし、目の前の光景をが全てなのだ。グロウがレーナを殺した。ただそれだけなのだから。
「サリー!……何があった!!」
悲惨な状況を前にして、目を丸くした応援が駆けつけた頃には既に遅かったが、事の真相を確かめるためにサリーの肩を掴んで問いただした。
「嫌だ………そんな……やだよ…」
遂に膝をついて目の焦点も合わないまま、絶望に打ちひしがれたように口元で現実逃避を繰り返した。
「何があったかと聞いているんだ!!!」
「………レーナさんが……死んだ………」
ポツリと呟いたその事実はここに来た者全員を狼狽させるだけの力を帯びていた。彼女の様子と貯水槽の状態を見てもそれだけのことがあったと察することはできる。
「バカな……嘘だろ……」
それからすぐにレーナの遺体は引き上げられ、死亡が確認された。死因は窒息と出血多量で、身体には深々と噛み付かれた跡が残っていた。しかし、貯水槽の中のどこを探してもグロウの姿は見つからなかった。依然、行方不明のままである。
彼女の死をシンジに告げ、見るも無惨な彼女の亡骸を見せなければならないことがサリーは残念でならなかつた。ただでさえ絶望的でどうしようもないこの状況で、苦しむ彼の唯一の希望を握りつぶす行為なのだから。
サリーは頬から込み上げてくるものを堪えながら作業を続行するのだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
一方、ハロウィンパーティーの準備も終盤に差し掛かり、実施時間が近づくにつれて賑やかになってきたふれあい広場ではレオトやコウタたちが集まっていた。
「うわぁ〜すごいね!ハロウィンって」
気づけばかなりの装飾を施してきたために辺りはかなり明るく、温かみを帯びた空間が広がっていた。コウタのテンションも上がって、さっきからはしゃぎっぱなしである。
「だろ?これからもっとすごいぞ〜ゾンビとか吸血鬼とかいっぱい出てくるからな」
それを煽るように俺もそのテンションに乗っかった。
ユノとダンゾウもすぐ近くで作業をしていてハンターであることを忘れてしまうほどにイベントへの参加に熱中していた。
「ユノちゃんは何か仮装するん?」
「んー、魔女とか?ダンゾウは?」
確かにユノが魔女の仮装をすれば似合うこと間違いなしだろう。普段銃を使うユノだが、魔術師のほうが似合っているんじゃないかってほどに魔女装備が似合いそうである。
「僕はジェイソンとかかな〜」
「絶対似合うやん」
唐突のユノの揶揄に思わず笑いそうになった。確かにこいつにはサイコキラーがお似合いだ。マスクつけるだけであとは演技力と雰囲気でカバーできそうだ。
ふれあい広場にはシンジさんの姿も見られて、仕事と並行してちょこちょこ進行具合を見にきていた。もしかしたら彼もハロウィンパーティーに参加するのかもしれない。
ただ1つ気がかりだったのが、朝からエイルの姿を一目も見ていないということだ。体調が悪いのはわかっていたので少しでも部屋に戻って看病してあげたらよかった。
そして、時刻は17時50分。開始まであと10分というところでそれは起こった。
顔が血に塗れて目の焦点が合っていない職員のゾンビがふれあい広場付近で目撃されたのだ。
ハロウィンパーティーが開始される直前ということもあり、違和感もなく、誰も何の疑念も抱かなかった。
ただの仮装だろう。職員だから少し本気を出してメイクしたのだろう。と、そんな具合に。
ゾンビやアンデッドというものは確かにこの世界において存在している。ただし、出現することは極めて稀であり、発生する条件もそう簡単に満たすことがなかった。人間の遺体にウイルスを注入し、一定時間潜伏しなければならないからだ。
大規模な災害が発生し、死者が多く出たとしてもウイルスを用意しなければ感染することがない。ウイルスの発生源が特定されていないため、本当に存在するのかすら疑うほどのレベルである。
シェルター内に死体はなく、閉鎖空間だったため、誰もゾンビが出現することなどを想定していない。
「レオ兄ちゃん、あれ何??」
仮装にしてはやけに生々しいメイクをした男性を見てコウタは興味津々だった。子どもなら泣き出してもおかしくないほどのクオリティだが、どうやら彼は平気らしい。
「あれはゾンビっていう怖いモンスターだよ〜ハロウィンの定番だね」
見た目もそうだが、歩き方や仕草までまるで本物のゾンビのような動きをしていた。まるで本当に死んだ人間が蠢いているかのような動作。あれに脅かされたら腰を抜かしてしまいそうだ。
近くにハロウィンパーティーの参加者が集まっていたため、その人たちを脅かすためか人の多いところへと向かっていくゾンビ。まだ開始まで数分あるので気がはやい気もするが。
一歩一歩近づいていく。見た目に怖がって逃げる者やとんだ茶番だと平然と作業を続ける者もいた。
俺も別段気にすることもなく、ドラキュラのマントを身に纏い漸く始められると一息ついたとき、それを聞いた。
「きゃあぁぁ!!」
背後から起こった群衆のどよめき。悲鳴。
それはハロウィンパーティーの始まりなどではなく、次なる悲劇の始まりだということに気づかぬまま。




