鬼ごっこ
ペルーと呼ばれるオーガス共和国の中でもあまり目立たない、とある街に火の手が上がっていた。それは火事と呼ぶにはあまりにも控えめな表現なほどの規模で街全体を覆い尽くすほどの勢いで人々を地獄の底へと引きずり込んでいった。
外から見てもその様子は一目瞭然で、商売に出ていた者、狩りに行っていた者、外出していた者は帰ってきたときには皆同じく動揺の渦に巻き込まれていく。
早急にポリスやレスキュー隊が編成され、救助活動や原因解明をするべく出動する。街中は混乱する人々で溢れかえり、鬼が出現したやら黒装束の男たちが住民に魔術を仕掛けたやら、謎の情報が飛び交っていた。
そして、ペルー総合病院でも例外なく脅威が降り注がれていた。
凍てつく眼差しで睨みつけてくるのはついさっき人を殺したばかりの殺戮の青鬼。
何を考えてこんなことをしてくるのか、目的は何なのか、理解不能だが血のついた金棒とか返り血を見れば俺がこのままじゃ殺されるってことはわかる。
ポタポタとさっきまで生きていたであろう患者か看護師の鮮血が白い床に滴り落ちる。
熊とかなら目を逸らさず後退りで何とかなるとか聞いたことあるけど無理かな……
「やけにご機嫌斜めですね。ストレス発散するのはいいけど人に迷惑かけるのわぁ!!!」
青鬼は俺の説得に聞く耳を持たず、地を強く踏み込んでタックルを仕掛けてきた。俺の適当な勘は外れた。
10メートルという距離を電光石火の如き動きで詰め、奥に設置してあったロッカーを粉砕した。肝心の俺の身体は肉片と化したのかと言われるとそうではなく、警戒心Maxで構えていた神経が紙一重でその攻撃を右にローリングすることで回避した。
伊達に盗賊装備でハンターやってねぇからなんとか躱せたが、軽装じゃなかったら今ので終わっていたはずだ。
わかってはいたが無抵抗な人間にいきなり殺しにかかるとは。慈悲も容赦も持ち合わせてねぇなこいつ。
背後を一瞥して突撃した先のロッカーに青鬼が埋もれていることを確認し、反動で再起に時間がかかると見た俺は荷物を背負って振り返らずにロッカールームに踵を返した。
どうやらあの肉ダルマのステータスは筋力A+だが知能はD−ってとこか。他にも何か能力を持っているのかもしれない。モンスターは人間の考え得る想定を軽々と超えてくる。
奴らに常識は通用しない。事前に対策を練ってから討伐するに限るのだ。
病院の出口、すなわちインフォメーションはすぐ目の前にある。しかしそこは最早目も当てられない惨状になっていることなど誰でもわかる。できれば通りたくない道だが命が懸かっているが故にすぐに決断する。
そして一歩踏み出しーーーーーーー
「何だよ………これ………」
俺は絶望を知る。
まるで人間をミキサーにでもかけたのかと思うほどの惨たらしい臓物や肉片がそこにはあった。白い壁には血飛沫が飛び散り、悪臭が部屋中に充満している。一瞬、背後から鬼が追ってくるのを忘れてしまいそうになるほどの衝撃が全身に走った。
生まれて初めてだった。ハンターを生業として生活していてもここまで無惨な光景を目の当たりにしたのは。モンスターはここまで人相手に残酷になれるというのか。
目を逸らそうと視線を右にやると膝を抱えながら泣き崩れている少女の姿があった。白衣を見に纏っていたが、その純白は真っ赤な血で染まっていた。
「大丈夫か……?」
どこからどう見ても大丈夫ではないことなど百も承知だが、慰めの言葉にすらならないこともわかっているが俺はそんな言葉しかかけられなかった。
彼女は顔を上げて、目と目が合って初めて見に覚えのある顔だと俺は認識した。どうしようもないほどの泣き顔だったが、確かにそれは今朝看護をしてくれたエイル本人だったのだ。
「あ……………レオト………」
彼女は一言、俺の名前を呼んで俺の存在が確かなものであると、俺がちゃんと生きているという事実を噛み締めていた。
そして俺は足が竦んで立てないであろう彼女にその場で腰を下ろして手を取ると、
「うわぁぁん!怖かったよぉ!」
「ちょ……!」
いきなり胸の中に飛び込んできて、産まれたての赤子のように泣き噦るのであった。血に塗れた体で涙を流し、嗚咽を何度も漏らしながらも彼女は生きていた。その声は彼女自らの存在を目の前の俺に伝えるのに十分で、1人じゃないと感じられただけでも俺は満たされたのだった。
しかし、世界はここで俺たちに甘んじることを許しはしない。すぐにでもここから逃げ出さなければ俺たちもここで終焉を迎えることになるだろう。
そんな結末だけは絶対にあってはならない。
「エイル、鬼がすぐ後ろから追ってきている。逃げなくちゃいけないんだ。立てるか?」
依然として俺の胸にしがみついたままの彼女に真剣な顔つきで俺は迫り来る危機を伝える。彼女自身もこの死体の山を見ればただ事じゃないことなど理解しているだろう。
実際、彼女がついさっきまで何を見て、何を聞いて、何を体験したのかをロッカールームで隠れていた俺は知らない。もしかすると青鬼を彼女はその目で見ていたのかもしれない。
「うん。ありがと。レオト。大丈夫」
俺に強く抱きしめられた彼女はただ一言、安堵したように言った。今すぐにでもこの場から逃げ出したいのはこの目の前にいる血だらけの女の子だというのに、俺の心臓が早鐘を打つように鼓動し恐怖心を煽ってくるのは本当に情けない。
鬼を倒し、彼女の見たトラウマを根底から覆すほどの器の大きな人間になりたい。何があったって冷静沈着に行動し、弱き者を守れるほどの力ある人間に。
「グルルルルルルル………」
そう遠くない距離からさっき聞いたような鳴き声が、牽制するように重く響く衝撃が伝わる。
俺は静かに立ち上がってまだ震えは止まらぬエイルの手を取って抱き寄せるように起立させた後、その手を離した。
ヤンキーとかチンピラがデート中とかにちょっかいを出してきたら、そいつらと戦って彼女を逃がすか、2人で一緒に逃げるかどっちがいい?とか前にどっかで聞いたことがあるな。
もしそれがこの場面に適用されるとしたならば俺はきっと格好つけて奴らと戦うとか抜かしていたかもしれない。たった1つ、相手が鬼だという例外をのぞくのであれば。
その絶対的な存在を前にして前者を選ぶはずもない。
本当ならば戦うまでいかなくとも、あわよくば時間稼ぎくらいはしたいなと思ったが死ぬビジョンしか見えないのでそんな無謀な挑戦はしない。
そんな無駄に終わる挑戦は、しない。
「エイル、一緒に逃げよう」
「ええ。行こう。レオト」
俺は再び彼女の手を握り、病院の出口へと走り始めた。絶対に彼女を死の運命から救ってみせる、生き残る道へと導いてみせるとそう誓って。
「グガァァァァァアア!!!!!」
背後から青鬼の咆哮が響き渡る。どうやら気づかれたようだ。
だが振り返らない。外に出た瞬間にペルーの惨状を、絶望を突きつけられたとしても俺は必死に生にしがみついて足掻いてやる。
「さぁ、鬼ごっこの始まりだ」




